保阪正康『昭和天皇(上・下)』(朝日新聞出版、2019年)を読んだ。
前書、保阪『天皇』(講談社文庫)を読んで、日本国憲法を尊重し、憲法が規定した「象徴」という天皇の地位を忠実に履践した天皇という明仁天皇(上皇)に対する著者の評価には共感したが、昭和天皇に対する著者の評価には違和感を感じた。
そこで今回、本書を読んでみたのだが、やはり昭和天皇に対する著者の見解には納得できなかったというか、理解できなかった。
本書は、昭和天皇を顕彰する雑誌に掲載されたものだというから、もともと批判的、客観的な記述は期待できないが、とくに日中戦争、太平洋戦争期における昭和天皇の言動と、敗戦を契機とする時代の変化、とくに新憲法による天皇の地位の変更を昭和天皇は「本心」でどう受け止めたのかは、本書から読み取れなかった。
著者は、戦前から戦後への天皇制の変化を「天皇制下の軍事主導体制」から「天皇制下の民主主義体制」への移行と捉えている(下293頁)。そして、天皇自身は「天皇主権下の軍事主導体制」から「天皇主権下の民主主義体制」に変化すべきであるとの信念を持っていたが(下280~1頁)、現実には「象徴天皇制下の民主主義体制」になったとする(下281頁)。
明治憲法下で「統治権の総攬者」すなわち「主権者」(高橋和之ほか『憲法Ⅰ』有斐閣、1992年、90頁~)であり、「君主」であり、「大元帥」であった天皇が、いかにして国民主権の新憲法のもとで「象徴」になりうるのか、昭和天皇自身はこの地位の変化をどのように受け止めたのか。
天皇は、戦前も戦後も「精神的には何らの変化もなかった・・・、私はつねに憲法を厳格に守るように行動してきた」と語ったようだが(上291頁)、明治憲法を守ることと新憲法を守ることは、はたして両立できたのだろうか。
著者は、本書の記述は3本の柱に依拠するという。
1つは昭和天皇の御製であり、2つは『木戸幸一日記』『西園寺公と政局』その他の側近や侍従らの記録や回想録であり、3つは記者会見での発言である。
著者は、この3つのアプローチから「天皇語」(昭和天皇の言語感覚)を分析することによって、「昭和天皇の真の胸中をさぐることが可能」であり、「なぜ天皇の胸中が現実の政治システムと相容れぬ形になったのかを」分析、解明し、「そのような解明によって、昭和天皇を歴史の中に位置づける必要があるし」、今はその時期に入っているという(下292頁)。そして、本書刊行後に公表された側近の記録などから「歴史の中に位置づけられる昭和天皇の素顔」が明らかになってくるという(下275頁)。
これらは本書初版刊行後の加筆だが(下275頁以下の「補章」や「あとがき」)、ここから判断すると、本書執筆の段階では、いまだ昭和天皇に対する著者の評価は定まっていなかったのかもしれない。
著者自身の言葉によれば、「特定の史観や同時代の感情的な反応」とは距離を置いて(下308頁。要するに左右両極は排すということだろう)、「天皇自身の率直な考え方をできるだけ多く書きこ」み(同頁)、「天皇の真の胸中」をさぐり、「昭和天皇の実像を正確に捉え」(292頁)ようと試みたのが本書なのだろう。
著者は同時に、「史実の背景を流れる昭和の息吹きを正確に見つめること」も関心事であったというが(下285頁)、これほど昭和天皇に近づきすぎた視点からは、「昭和の息吹き」なるものを正確に見つめることは難しいのではないか。
著者によれば、昭和天皇は、柳条湖事件、盧溝橋事件、ノモンハン事件、そして真珠湾攻撃など軍部が暴走するたびに懸念を表明したが、「立憲君主」としての立場を守って自分の意見を押しとおそうとはしなかったとして天皇を擁護する(上193、217、242頁など)。
最大の責任を負うべきは、天皇の意向や憲法政治の運用を無視してこれらの暴挙に出た軍部であるが(上154、173、183頁)、だからと言って、明治憲法上の君主=主権者の地位にあった天皇の責任が免除されるわけではないだろう。
あの時代に軍部の暴挙を阻止して国民の生命を守ることができたのは、唯一、天皇だけだった。アメリカとの開戦を最終的に裁可したのは天皇であり(上206頁~)、最後に「聖断」によってポツダム宣言受諾による無条件降伏を決定できたのも天皇であった(上234頁)。二・二六事件に際しても、天皇は毅然として反乱軍を処断している(上163頁、下151~2頁など)。
明治憲法下でも平時であれば、主権者である天皇の権限を立憲君主的に運用することは賢明な選択だったかもしれないが、軍部や政府の指導者に信を置くことができないことが明らかになり、軍部が暴走を始めてからは、それを阻止することこそ「統治権の総攬者」の務めであり、責任だったのではないか。
昭和天皇自身が、戦後マッカーサーに対して「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う」と述べているが(上244頁)、この「全責任」には、たんなる道義的責任だけでなく、政治的責任も含まれていただろう。
「立憲君主」であったことを口実とする免責は、昭和天皇自身も望むところではなかったと思われる(下114頁など)。「立憲君主」などという口実によって弁解することなく、自己の全責任を認める発言をしたことが、かえってマッカーサーに好感され、天皇制の存続、天皇の不処罰につながったと思う。
昭和天皇の善意は否定しないし、戦時中の天皇の「本心」が本書で著者が述べているようなものであったことも事実だろう。
「責任」とか「謝罪」といった言葉は使わなくても、そのような心情であったことは御製から伺うことができると著者はいう。靖国神社がA級戦犯を合祀したことを不快に思い、「明治天皇の遺訓に反する」とまで批判し(下280頁)、それ以後靖国への参拝を拒否したという戦後の行動からも、戦時中の天皇の胸中をうかがうことができる。
なお、天皇は、広島への原爆投下の事実や被害の実情を軍部から知らされていなかったことを本書で知って驚いた(下114頁)。戦争末期には、軍が不都合な戦況を知らせなかったために、天皇はアメリカ側の短波放送を傍受して戦況を把握していたという。そのような不忠の臣下を庇ってまで、戦争責任を「言葉のアヤ」として言及を避ける心情(下111~4頁、下291頁)は、ぼくには理解できなかった。
君主としての政治的、道義的責任は免れえなかったとしても、戦前の昭和天皇が摂政宮時代も含めて(下277頁参照)不本意な人生を歩まざるをえなかったことには同情する。
ぼくの知合いで、昭和天皇にご進講した経験をもつ人から話を聞いたことがある。彼によれば、昭和天皇は日本文化史上のある文物についてきわめて造詣が深いことが進講後の質問内容からうかがえたという。「凡百の歴史家など及ぶべくもないほどの博識だった」と彼は言っていた。
本当なら軍服など着ることなく、御所内で皇室所蔵の美術品を鑑賞し、読書と研究の日々を過ごすほうがふさわしい文人だったのだろう。
2022年7月15日 記
敗戦後に天皇は各地を行幸して、そこで多くの歌を詠んでいる。
満蒙開拓団の引揚者が開拓した浅間山麓の地を行幸した折に、「浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか」と詠んでいる(288頁)。これは軽井沢西郊の大日向村で詠んだ歌だろう。「かくのごと荒野が原に鋤をとる引揚びとをわれはわすれじ」という歌も同じ大日向の光景を詠んだものだろう(上304頁、下283頁)。
ぼくは、大日向村の行幸記念碑を見に行ったことがある。本書によれば片道2キロを歩いてこの地を訪れたというから、借宿のあたりから歩いたのだろう。現在の国道18号の借宿交差点に「昭和天皇行幸記念碑 ここから2㎞」の標識が立っている。
「千代田区千代田一番地」のラビリンスから始まったぼくの迷路の旅は、ぼく自身の「昭和」を求める迷路に迷いこんでしまったようだ。
2022年7月17日 記