夕べ(9月21日、土曜)夜の11時ころからNHK、Eテレ(2ch)で、「生誕120年、没後60年ーー小津安二郎は生きている」という番組をやっていた。チャンネルをカチャカチャしていて気がついて、途中から見た。
小津の没後60年は2023年だから、去年放送された番組の再放送なのだろうか。12月12日が誕生日にして亡くなった日だから、2024年に入ってからの放映かもしれない。
平山周吉という大胆なペンネームの作家が、小津と山中貞雄の交流、小津映画にみられる小津の山中に対するオマージュというか追憶を指摘していた。
「麦秋」の麦は小津の戦友たちの象徴で、この映画が戦死していった戦友たちの追憶であることは、小津が戦地で火野葦平「麦と兵隊」を読んでいたことも含めて誰かが指摘していたのを以前に読んだ。ひょっとすると、平山の指摘だったかもしれない。「麦と兵隊」のことは二本柳寛(ということは小津自身)が画面の中でも語っている。
平山の創見と思われたのは、「晩春」における「壺」の解釈である。
父親(笠智衆)と嫁ぐ直前の娘(原節子)が二人で京都旅行をする。そもそも京都を舞台にしたこと、そして龍安寺の石庭を前にして笠が三島雅夫(旧友だったか? その妻が坪内美子だったはず)と語るシーンも山中への追憶だという。駆け出しの頃に山中は龍安寺(xx院、聞き漏らした)で暮らしていた時期があったという。
父娘が床を並べたその部屋の背景に置かれた壺が数秒間映されるシーンがある。この壺が山中貞雄「丹下左膳 百万両の壺」の壺だと平山は解釈する。デジタルリマスター版(?)の鮮明な画像だったが、この場面の原の寝顔がなまめかしすぎて、これまで安いDVDの粗い画像で見てきた「晩春」のイメージが崩れてしまった。笠の鼾の音もあんなに大きかったとは! 壺は女性器の象徴で、あの場面は近親愛を描いているという誰かの解釈を以前に読んだことがある。その時は、「そこまでの解釈は・・・」と思ったのだが、昨夜の原の表情を見ると、そのような解釈も可能かと思えた。
「東京物語」のラストシーンで、尾道の笠の家の庭先に咲いていた赤い鶏頭の花が画面前面に置かれていたのも山中への追憶だと言っていたように思うが、その理由は忘れてしまった。※後で調べると、生前の山中が小津の家を訪問した際に、庭先に咲いていた鶏頭を褒めたことの記憶だった。しかも山中の命日は9月17日だというから、昨夜の再放送は山中の追悼番組だったのかもしれない。
原節子が映画デビューしたのは、山中監督の「河内山宗俊」という映画だったというのも知らなかった。15歳だったという。ヴィム・ベンダース監督が、小津は原を愛していたと語っていたが、小津が原と結婚しなかったのも、原を見い出した山中との友情を優先したからだろうか。
2024年9月22日 記