井伏鱒二「本日休診」を読んだ。井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記・本日休診」(角川文庫、1979年)に収録された中編。昭和29年の「別冊文藝春秋」に連載されたという。
手元にある本は平成9年(1997年)第20版とあるから、買った目的は息子たちの中学受験のためではなく、自分で読むためだったのだろう。「ジョン万次郎漂流記」は子どもの頃に講談社の絵本で読んだ記憶がある。
実は昨年末に、亡父がお世話になったことがある近所の開業医の診療所のドアに「本年末をもって閉院する」旨の掲示が貼ってあるのを目にしたのがきっかけで、ふと井伏の「本日休診」を思い出して読んでみたのだが、面白かった。
「本日休診」の主人公は、実質的な医業は甥に任せて名義だけ病院「顧問」となっている老産科医である。名義だけのつもりだったのが、実際には頻繁に急患対応や往診をせざるを得ないことになる老開業医の日常が井伏一流のゆったりとした筆致で描かれる。いまだ敗戦の傷跡が色濃く残る当時の大阪の開業医の生活と診療の実態を委細にわたって知ることができる。いわゆる「ビル診」(ビルの1室を診療所として時間外の診療や往診は一切行わないような診療形態)が一般化した昨今の日本の開業医からは信じられないであろう多忙な日常生活である。
深夜の急患に対応してウィスキーを4、5杯あおって眠りについた途端にまた呼び鈴を鳴らす者があってふたたび出産介助にでかけるなど、今日では危ない場面もある。登場する患者たちはみな貧しい庶民であり、医療保険の国民皆保険化が実現する数年前のこともあって、医療費の未払いや踏み倒しが日常的だった様子も描かれる。
井伏には、産科医療の実情を教えてくれるインフォーマントの産科医師がいたのだろう。梅毒の治療(内診)から、自宅出産、帝王切開、用手剥離(後産の胎盤を剥離する方法の一つで、福島県立大野病院事件でも議論になった手技である)、穿顱術(「せんろじゅつ」とルビがあり、文脈からすると胎児を堕胎ないし分娩死させる方法の一つのようである。知合いの産科医が「穿頭術」といっていた方法だろうか。135~7頁)、はては刺青の消去手術まで、それぞれの手法から用いる薬品名などが細かく記述される。
医学部の教師だった頃は、新入生にクローニンなどを紹介したが(学生たちが読んでくれた気配はなかったが)、井伏「本日休診」は、大阪が舞台で、しかも産科医療の詳細な記述がある医療小説なので、医師を目ざす医学部生や医事法研究者にはおすすめの内容だと思う。時代が違いすぎるかもしれないが、「ヒポクラテスの誓い」に比べればはるかに現代的だろう。
ちなみに、わが日本の医事法学の端緒となったのは、同じ大阪の開業医の往診、診療が適切だったかどうかがという問題だったが(唄孝一「死ひとつ」信山社)、そんなことは措いておいても、主人公である老医師の言動の中に井伏の庶民に対する温かいまなざしが感じられる好読物であった。
2024年1月8日 記