豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

京マチ子からの葉書(昭和24年2月25日)

2024年05月07日 | 映画
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便だったか、その後の早朝の番組だったかで、誰か映画評論家が、黒澤明「羅生門」のことを話していた。
 途中からだったこともあり、詳しくは覚えていないが、当時東宝が労働争議で映画が撮れなかったので、黒澤は永田雅一に誘われて大映で「羅生門」(1950年)を撮ったと言っていた。これに続いて京が出演した「雨月物語」「地獄門」(1953年)が相ついでベネチア、カンヌ映画祭やアメリカのアカデミー賞を受賞したため、京マチ子は一気に国際女優となり、日本でもスターになったという。
 黒澤は「羅生門」を原節子で撮りたかったが叶わなかったので、京マチ子で撮ることになったのだという。同年に木下恵介の「カルメン故郷に帰る」も公開されたが(1951年)、高峰秀子と京マチ子はともに1925年生まれだと言っていた(ネットでは1924年、大正13年となっている。大正13年生まれの亡母が高峰と同い年といっていたから1924年が正しいだろう)。ちなみに、マーロン・ブランドとマルチェロ・マストロヤンニも同じ1925年生まれだと言っていた。
 
 などという話を半分夢うつつで聴いてから(聞き間違いがあったらお許しください)、きょうの昼間、古い蔵書を何気なく開いてみたところ、中に京マチ子から祖父にあてた葉書が挟んであった。こういうことは偶然なのか、誰か(神?)の作為によるものなのか・・・。
 といっても、意味深長な内容ではなく、彼女が松竹歌劇団を退団し、大映京都に入社することになった旨が印刷された宣伝の挨拶状である。ただし、宛て名と宛て先は万年筆で手書きである。日付けは2月25日とだけ書いてあるが、切手の消印は「24.3.1」となっているから、昭和24年(1949年)だろう。切手は清水寺の舞台を描いた薄紅色の粗末な印刷の2円切手である。
 表面はレビュー姿の京で、「レビュウの女王 京マチ子 大映入社」「第1回出演映画 『最後に笑う男』」という宣伝文が入っている(上の写真)。
 祖父が何かに応募でもしたのか、ファンクラブにでも入っていたのか。ぼくも桜田淳子から来た葉書を1枚持っているが、この祖父にしてこの孫あり、である。

 なお、この本の中には、京マチ子からの葉書に他に、その頃祖父が住んでいた仙台の映画館のパンフが2枚挟んであった。
 1枚は、日乃出映画劇場の「舞踏会の手帖」のパンフである。「ギャラ・プレヴュ GALA PREVUE (拡張会館・豪華なご披露 8月3日 1日限り)」という青い判が押してある4つ折りのパンフである(下の写真)。「ギャラ・プレビュ」とか「拡張会館」とはどういう意味か。1日だけ上映したということなのか。1937年制作というが、日本公開は何年だったのだろうか。
 映画好きだった祖父は、当時母が通っていた宮城第一高女では生徒が映画館に入ることを禁止していたのに、「親がついていれば大丈夫だ」と言って、心配する娘(私の母)を平気で映画に連れて行ったという。
 「舞踏会の手帖」は、結婚生活20年の後に夫に先立たれた妻が、16歳の時に舞踏会で出会った10人の男たちを、当時の「手帖」を頼りに訪ね歩くという筋立てらしい。ぼくも、60年近く前の中学、高校生だった頃に出会った女性たちを訪ねて歩く映画を作ってみたい。

   

 もう1枚は、仙台日活館のビラである(下の写真)。
 こちらには、当時の旧制中学受験を描いたらしい「試験地獄」、ゲーリー・クーパー主演「砲煙と薔薇」、ジームス・ギャグニ―主演「シスコ・キッド」などの宣伝が載っている。「試験地獄」は1936年公開らしいから、「舞踏会の手帖」もその頃のものだろう。

       

 1936、7年というと大昔のようだが、ぼくが生まれるわずか12、3年前である。この13年の間に女学生だった母は学校を終え、結婚しぼくを産んだ。一方、祖父が亡くなって今年8月でちょうど40年になる。自分が生まれる12、3年前のことは大昔のように思えるが、祖父が亡くなってからの40年はあっという間に過ぎていったような気がする。
 歴史の遠近法はどのようにして形づくられるのだろうか。

 2024年5月7日 記
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