豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

笠置シズ子を見かけた 昭和の世田谷

2024年01月21日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 NHKテレビ、朝の連続ドラマで笠置シズ子をモデルにしたドラマが放映されている。ぼくは子どもの頃に、一度だけ笠置シズ子ご本人を見たことがある。

 赤堤小学校3年か4年の頃、同級生3人と一緒に、そのうちの一人のお兄さん(松沢中学校か早稲田高等学院の生徒だったと思う)に連れられて、駒沢球場(現在の駒沢公園の一角にあった)に野球を見に行った。
 玉電山下から小田急線豪徳寺駅のガード下をくぐって、宮の坂に向かって玉電(東急世田谷線)の線路沿いをテクテク歩き、上町あたりから玉電の線路を外れて南に向かったのだろう。
 その道すがらの住宅街に、広い庭を家庭菜園にした民家があって、その菜園でしゃがんで土いじりをしている普通のおばさんがいた。友だちのお兄さんが、「あれは笠置シズ子だ!」と言った。笠置シズ子という名前は知っていたが、どんな人かは知らなかった。
 大した興味もなかったが、70歳を過ぎた今でも覚えているのだから何がしかの印象は残したのだろう。しゃがんでいるおばさんの姿が写真的映像で脳裏に残っている。ただし、それが本当に笠置シズ子だったのか、「笠置シズ子」風のおばさんだったのかは分からない。「笠置シズ子だ!」といったお兄さんは茶目っ気のある人だったから小学生の弟たちをおちょくったのかもしれない。昭和33、4年頃に、彼女が世田谷の駒沢公園近くに住んでいたとしたら、おそらくご本人だろう。

    

 駒沢球場は東映フライヤーズの本拠地で、外野席の子供料金は50円だった。コロッケが1個5円、紅梅キャラメルも1箱5円の時代だから安くはない。
 その日は、東映と近鉄パールスの試合をレフト側外野席に座って見た。目の前に東映のレフトかセンターを守っていたラドラの背番号44を見た記憶がある。これも写真的な記憶である。近鉄のバッテリーは、投手がミケンズ、捕手がボトラだった(と思う)。外国人同士のバッテリーなど、その後いただろうか。

    

 手元に雑誌「日の丸」昭和37年5月号付録(集英社)の「野球の手帳」というのが残っている(上の写真)。これを見ると、ラドラ、ミケンズは載っているが、ボトラは載っていない。ぼくが駒沢球場に行ったのは昭和33年か34年だから、ボトラはその後アメリカに帰ってしまったのだろう。
 昭和36年には東映の監督は水原茂で、パリーグ2位だったらしい(優勝は南海ホークス)。それまでの東映は万年5位(最下位はいつも近鉄)だったが、監督が代わって一気に強くなったのだろう。
 写真入りで紹介されている選手は、尾崎行雄(「憲政の神様」ではないほう)、土橋正幸、山本八郎、張本勲、毒島(ぶすじま)章一の5人。監督紹介欄には住所が載っているが(大田区田園調布xのxx)、尾崎、土橋らは世田谷区新町の合宿となっている。土橋は日本橋高校卒の江戸っ子だったが、山本八、張本、尾崎は浪商出身だった。
 ラドラは外国人選手としてはあまり大きくはなかった記憶があるが、「野球の手帳」で調べると、身長は1m77cmとある。張本が1m80cmとあるからそれほど小さかったわけではなかったらしい。出身校はフレスノ州立大とある。カリフォルニア州立大学フレスノ校だろう。色が浅黒くてヒスパニック系かラテン系の印象がある。

 実はもう一人、家庭菜園を営む女優を見たことがある。望月優子である。ぼくが中学生だった頃、中央線の西荻窪駅から少し荻窪方面に行ったところに彼女の家はあった。   
                 
 青梅街道の荻窪警察署前から南に5分ほどまっすぐに下り坂を歩くと中央線の線路にぶつかる。昭和37年当時の中央線は地上(地面)を走っていて踏切があったが、その踏切の手前右側に彼女の家があった。
 笠置シズ子と同様、庭の一角が家庭菜園になっていて、そこで彼女が土仕事をしていたのを通りがかりに見かけたことがあった。
 彼女はテレビのドラマ番組などに時おり出演していたが、小津を見るようになってからは「小早川家の秋」で、笠智衆と夫婦役で出ているのを見た。火葬場の煙突から登る煙を見上げて、「人間なんて虚しい」式の台詞を吐いていたと思う。あまり好きな場面ではない。
 どういう経緯かしらないが、わが家には望月の「おかあさん」というLPレコードがある(上の写真)。聞いたこともないが、何が収録されているのだろうか?

 なお、冒頭の写真はもらい物のクッキー。真ん中に今年の干支である龍の(落とし子の)形をしたクッキーが入っていた。

 2024年1月20日 記 

 ※当時の山下(ないし豪徳寺)には田端義夫も住んでいた。家から赤堤小学校に向かう通学路の途中にあった(松原と宮の坂を結ぶ道路と交差する十字路に面していた)。棕櫚だか椰子だかの木が庭に植えられた、当時としては豪邸だった。
 通学路には、「えいらい・じゅうめい」(放送作家だったらしい。表札の表記は平がなだった)や、内藤博文(巨人、後に千葉茂らと一緒に近鉄に移籍した内野手)、山内和弘(大毎オリオンズの背番号8)の家もあった。
(2024年1月21日 追記)

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