豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

久しぶりの豪徳寺-10 “石川屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 今回久しぶりに豪徳寺を訪ねた目的の一つは、石川屋の写真を撮ることだった。

 石川屋は肉屋だが、ぼくの昭和30年代の思い出の中では石川屋はコロッケ屋である。当時の土曜日の昼食は決まって石川屋のコロッケと食パンだった。
 勉強机のような机の引き出しから衣のついたコロッケを取り出して揚げていたのだが、勉強机と食べ物というのがミスマッチで印象に残っている。
 杉浦茂の“コロッケ五円の助”の時代である。

 石川屋が閉店したという情報は今も豪徳寺に住んでいる友人から聞いてはいたが、“ちい散歩”で石川屋の店頭で焼き鳥を売っている風景が写っていたので、まだ大丈夫かと思っていたが、おととい行ってみると靴屋になっていた。

 石川屋の右側の精肉売り場、柱にかかった大きな温度計、左手のコロッケ売り場の思い出は、ぼくの記憶の中だけのものになってしまった。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-9 “満来”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 玉電山下駅前路地商店街の、豪徳寺駅側の出口近くにあるラーメン店が、“満来”。

 今でも一番安いラーメンが驚くなかれ200円だという。

 この店は、店内に店主のボーリングの表彰状が飾ってあって、その点でも近所では有名らしい。古くから豪徳寺に住んでいる友人も、ボーリングには無縁の人だが、知っていた。

 その表彰状に書いてある名字から、ぼくの赤堤小学校の同級生の親戚が経営している店であることを、おととい一緒に飲んだ同僚が聞き出してくれた。
 おとといも飲んでから立ち寄ろうと思っていたのだが、ついつい話が弾み、10時半ころ飲み屋を出た時にはすでに店じまいしていた。

 * 玉電山下駅前路地商店街を豪徳寺駅側から眺めたところ。右側手前に“満来”がある。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-8 “大武工業”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 前に書いた玉電山下駅の真ん前にある大武工業。看板には「応接セット・喫茶椅子張り替え」と書いてある。

 昭和30年代には、山下駅前には、電動カンナの唸り音と一緒に、木工品の匂いが辺りに漂っていたことも思い出した。

 

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久しぶりの豪徳寺-7 “洋品店 フクヤ”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 玉電山下駅前路地商店街(ぼくの勝手な命名だけど)に並ぶ昔のままのお店、2軒目は洋品店“フクヤ”さん。

 こちらは屋号がしっかりと写真に写っている。洋品店が“フクヤ”(服屋)というのはきわめて分かりやすい。もっとも“福屋”さんかもしれないが。

 昭和30年代の豪徳寺商店街の洋品店といえば、最初に思い浮かぶのは、赤堤小学校の同級生の経営していた“トミヤ”だが、この山下駅前路地商店街の洋品店も忘れられない思い出がある。
 商店街の福引で、この洋品店の50円券が当たったことがあり、その商品券でハンカチをもらったというか、交換した。

 何十年も過ぎたある時、たんすの隅に眠っていたそのハンカチをみつけて、それ以来、今でもぼくの勉強机の引き出しにしまって保存してある。
 小学校時代は、ズボンのポケットに突っ込んではいたけれど、手なんか洗ったことがなかったらしく、新品同様とまではいかないが、50年以上昔のものとは思えないくらいのきれいな状態である。

 などと書いていたら、もうひとつ商店街の福引の景品で「鯨尺」(今時の人には分からないだろう)が当たったことを思い出した。今でいう30センチの竹製物差しを少し長くしたような物だった(50センチくらいか)。
 これも、この洋品店で交換したような記憶があるが、鯨尺などというものは洋品店で売られていたのかどうか、ちょっと自信がない。

 老夫婦が店番をしていたけれど、あの店が続いているのだとしたら次の次の世代になっているのではないだろうか。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-6 “山下駅前の帽子屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ふたたび玉電山下駅前の路地に戻って、昭和30年代から残っているお店をいくつか・・・。

 1つめは帽子屋さん。
 
 山下の駅を松原寄りから出て豪徳寺駅方面に向かう昔ながらの細い路地には、当時から変わらない店がいくつも残っている。
 
 最初が改札を出てすぐ右手にある木工所。建物は変わったみたいだが、一昨日も健在だった。
 大武工業所というらしい。
 昔は電動カンナや電動ノコギリの音がぶんぶん唸って、ベッドか何かを作っていたが、今回はひっそりとしていた。

 同じく右手に、それこそ間口一軒の小さな店が3軒並んでいる。
 最初が帽子屋、つぎが洋品店、つぎが本屋である。

 まずはその帽子屋。屋号は確認し忘れた。
 赤堤小学校のころ、この店で野球帽を買った。前にも書いたが、最初からアルファベットの“A”のイニシャルが入った白の野球帽だった。
 赤堤の“A”だったのか、アルファベットの最初の“A”だったのかは分からない。

 あの野球帽子がどこからで見つかったら、ぼくの“Field of Dreams”になるのだけれど。

 おととい店頭を覗くと野球帽は見当たらず、中年向けの帽子が多かった。ぼくと一緒に店も年老いたのだろう。

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-5 “河田保育園”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 豪徳寺ネタの5発目は河田保育園。

 玉電山下駅から松原方面に向かって最初の踏切の西側にある。

 ぼくが近所に住んでいた昭和30年代の初めには「河田母子寮」と呼ばれていた。

 河田母子寮にまつわる唯一の思い出は、その校庭で行われた映画の撮影を見に行ったことである。 夕暮れから夜にかけて行われた撮影では、フランキー堺が雨の中を傘をさして走りぬけるシーンが撮影されていた。
 雨など降っていなかったのだが、ADがシャワーのホースのようなもので雨を降らせていたのが印象的だった。

 一昨日飲んだ同僚は映画にも詳しく、昭和30年代初めのフランキー堺なら、昭和33年封切りの“私は貝になりたい”ではないか、と言う。
 いつか確認することにしよう。河田母子寮のシーンが写っているかどうか。

 ちなみに、この河田母子寮の北西の道路を挟んだ斜め裏に大毎オリオンズの山内和弘選手の家があった。

 * 河田保育園前の踏切を通過する玉電の車両。さっきのとは色違いの緑色だった。こちらのほうが玉電らしさがある。 

 2010/7/9 

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