チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

モモとココ

2025年01月29日 | 思い出

曇、4度、64%

 2日前、居間で主人が仕事をしていました。その横の椅子にココが座っています。「かわいい」と写真を撮りました。 その時、同じような写真が頭を掠めました。モモが主人の隣の椅子に座っている写真です。

 香港の家で仕事をしている主人の横の椅子にモモは座っていました。モモはカメラを向けると視線を逸らすのにこの時はしっかり見ていました。モモ10歳、記憶に残る一枚です。そしてもうひとつ、この写真は孫の誕生の知らせを待っている時でした。ソワソワ落ち着かない私が撮った写真です。11年前のことです。

 雪に閉じ込められた昨日、この二枚の写真を幾度も見ました。時間の流れの早さを感じます。孫は来月には11歳を迎えます。主人は髪が白くなりました。モモではなくココがそばにいます。でも変わらぬ我が家の光景です。心温まる我が家の光景です。私の大事な我が家の光景です。

 そして改めて感じます。主人は70歳を前にしても未だ仕事を続けています。家ではいつもパソコンを前に仕事です。変わらぬ我が家の光景は主人に支えられています。今日から一泊で東京に出張です。ありがとう、あなた。ありがとう、モモ。ありがとう、ココ。

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サワガニ

2024年10月16日 | 思い出

曇、23度、91%

 数キロ先の町まで歩いて買い物に行きました。小雨が降って気温も低くはありませんが、日が照っていないのが嬉しい。住宅街を抜けるコースを選びました。車も通りますが、国道ほどの多さではありません。一本道の小さい頃からよく歩いた道です。足元で何かが動く気配がしました。横歩きの大きな蜘蛛!と咄嗟に感じました。立ち止まって塀の辺りに目を凝らすと「サワガニ」がこちらを見ています。

 私と目が合うと、ハサミを開いて振り上げます。地味な色の「サワガニ」です。この辺り池も沼もありません。大きな団地の向こうに川があります。どこが住みかなのか?子供の頃「サワガニ」が私の家にもいました。座敷外の蹲の石の下の小さな池に住み着いていました。池には魚はいません。まきの木と古木の梅が小さな池を覆い被さるように立っていました。その蹲の石が「サワガニ」の住処でした。「カニ」は雑食だと聞きます。石につく苔なども食べます。小さな「サワガニ」ですがハサミがあるので怖いと思っていました。それでも縁側からそのカニたちを見ていました。

 我が家の「サワガニ」は共食いをしました。弱そうな「サワガニ」をみると数匹で殺してバラバラにして食べます。残骸は翌日にはきれいないなくなっていました。共食いを見知ったのは家の「サワガニ」からでした。時には大きな青大将が梅の木から「サワガニ」に目をつけて、ものすごい速さで飲み込むのを見たのも家の小さな池でのことです。小さな庭ですが自然を教えてくれました。

 道で出会した「サワガニ」から幼い頃の家の「サワガニ」を思い出します。もう少しハサミが赤かったように覚えています。さてさて、この小さな生き物どうやって家まで帰ったのでしょう。一日どんよりした天気、幾度となく「サワガニ」を思い浮かべました。

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「食堂車」の目玉焼き

2024年10月11日 | 思い出

晴、19度、74%

 子供の頃、昭和30年代から40年代にかけてのことです、福岡から東に向かう旅は、「寝台車」で行きました。東京の祖母、四国の母の実家、大阪の父の仕事の取引先。年に3回、4回「寝台車」に乗りました。狭い通路、窓辺にある小さな椅子、狭くて天井が低いカーテンで仕切られたの個室、真っ白なシーツの匂い、どれも懐かしく思い出します。そして一番の楽しみは「食堂車」でした。

 夕陽が赤くなる頃「寝台車」に乗ります。最初は普通の座席です。しばらくするとシーツを抱えた乗務員がベットを作りにやって来ます。狭い通路でベットができるのを待ちます。上の段へは梯子で登ります。小さな穴蔵のような個室です。狭さが心地よいのは押入れのあの感覚です。目が覚めると洗面所からは知らない方達の歯磨きの匂いがして来ます。「食堂車」の開始のアナウンスが流れると、母と一緒に急いで向かいました。調理場と客席で一両車、朝のメニューは2つだけでした。「和定食「洋定食」。「和定食」を頼む人がまだ圧倒的に多かったように覚えています。子供の頃はお味噌汁もご飯もあまり好きでなく、私はいつも「洋定食」でした。「ベーコンエッグ」が目当てです。お盆にパンや紅茶が並べられ運ばれて来ます。添えられるのは「フォークとナイフ」です。目玉焼きを「フォークとナイフ」で食べる、これは私の大きな難関でした。10歳そこらの子供です、どんなに頑張っても卵の黄身が流れてお皿を汚しました。母もお給仕をしてくれる人も「お箸は?」とは聞いてくれませんでした。それでもいつも「洋定食」を頼みました。「フォークとナイフ」を手に持って、目玉焼きを見つめて今日こそきれいに食べようと思いました。

 「寝台車」から飛行機に変わったのは小学5年生からでした。「食堂車」の目玉焼き、「フォークとナイフ」で食べる「目玉焼き」からは遠ざかりました。ところがかれこれ60年、いまだに私の望みは「フォークとナイフ」で目玉焼きをお皿を汚さずに食べることです。パンで拭き取ればいいのですが、パンを使わずに「ナイフとフォーク」だけきれいに食べれた日はルンルンです。

 「寝台車」、「食堂車」、夜の景色、早朝の景色、どれも心に収まる記憶です。でも、「食堂車」の目玉焼き、これがいまだに私を励ましをくれる思い出です。

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メーデーとスズラン

2024年05月02日 | 思い出

晴、13度、82%

 昨日、5月1日は「メーデ」でした。日本は休日ではありませんが多くの国が休みです。雨が一日降り続いた昨日、ふと20数年前のことを思い出しました。

 2000年5月1日、私たち夫婦はフランスのパリにいました。リスバンに向かう途中、パリで2泊しました。1日はリスボンに向かうために飛行場に行きました。「メーデー」なので各航空会社がストをしており、予定の飛行機に乗るのが随分遅れました。早朝散歩したパリの街中でも空港でも「スズラン」の花売りの女の子を見かけました。カゴに小さな花束をいっぱいに売り歩いていました。旅の途中です、買えないことを残念に思いました。

 「メーデー」「スト」「スズラン」と私の頭の中によぎりました。「なんでスズランを売っていたのかしら?」スマホに打ち込むと、答えが出て来ました。「フランスでは5月1日にスズランを送り合う風習があり、幸せの日だそうです。」20数年ぶりにあの日の「スズラン」の意味がわかりました。いい風習です。「スズラン」の花束は清楚に見えました。5月と言っても緯度の高いパリはまだ寒く、写真の私はコートにショール姿です。春の訪れは幸せを連れて来ると思うのはどこの国でも同じです。

 最近、昔のことをよく思い出します。思い出は鮮やかで楽しく心温めてくれます。

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「母の葡萄酒」とバルサミコ酢

2024年01月17日 | 思い出

晴、5度、72%

 「バルサミコ酢」はブドウの搾りかすを何年も寝かした黒酢だそうです。栓を抜くと独特の香り、お酢にしてはとろりとした液体が流れます。ほかの黒酢と比べてもちっとも酸っぱくありません。それよりもまろやかな甘みを感じます。

 ドレッシングに使ったりするのが一般的ですが、時に贅沢をして「甘味料」として使います。控えめな甘さと香りが欲しい時です。イチゴが数個残りました。ポークのソースにしようと思います。赤ワインとザラメで作るところを予定変更、火にかけていちごのジュースが出て来たところで「バルサミコ酢」を垂らしました。酸っぱくないといってもお酢です。いちごの色がパッと明るくなりました。 指に取って舐めてみました、いい塩梅のソースができました。豚の脂身が美味しく食べれそうです。

 アイスクリームにかけたり、生クリームにこそっと入れたり、甘味料として使うことが多くなりました。チキンのソテーの最後に一振りの「バルサミコ酢」は焼き色に艶が生まれました。スパイスカレーに落とした時はカレーの味に深みが出ました。ただ、香りがカレーに負けていました。「バルサミコ酢」はお安い物ではないのでたっぷり使えないのが残念です。思いつくままにちょこっと使います。

 「バルサミコ酢」の香りはある物を思い出させます。母が私が小さい頃作っていた「葡萄酒」です。どうやって作っていたのか?確か許可なしの酒造は禁じられていたはずです。家の納戸の奥に隠されていました。初めて「バルサミコ酢」を使った時、何十年ぶりに「母の葡萄酒」の匂いを嗅ぎました。この葡萄酒を飲んだ覚えはありません。ただ鮮明に香りの記憶が蘇りました。

 お安い「バルサミコ酢」は香辛料やカラメルなどで香りや味を足しているそうです。箱入りの「バルサミコ酢」は25年物と書かれていて、お酢とは思えないお値段です。手頃に買える範囲のものを選んでいます。そしてコルク栓を抜く度に母を思い出します。

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福岡の雪

2023年12月23日 | 思い出

曇、3度、66%

 昨日、友人に花の写真を送ろうとPCの古い写真をめくっていました。カラー写真の中から一枚白黒の写真が出てきました。この家の昔の写真です。雪を被っています。おそらく60年以上前、父が撮った写真です。

 福岡はこの2日間雪が舞いました。大雪になった地方もありますが、福岡の市街地は案の定、雪はすぐに溶けてしまいます。「昔に比べて根性のない雪だわ。」と思います。写真を見つけた時間、外はどんよりと綿雪が降っていました。日中も3度以上気温が上がりません。古い日本家屋、暖房を入れていても背中の辺りが薄寒く感じます。

 私が小さい頃は福岡も冬には雪が積もりました。屋根の雪かきは経験がありません。父の車のタイヤにチェーンを付けるのはいつも手伝いました。付け終わるとガレージの戸を開けて前の道の雪かきをします。車の少ない時代でしたから真っ白な雪をシャベルで運ぶのが楽しかった記憶があります。

 父がどの位置からこの家を撮ったのかと外に出てみると雪は止んで、青空が広がっていました。 昔の写真は道際に高い塀があります。正月明けでしょうか、植木は綺麗に剪定されています。木の位置が変わったせいか同じ位置の写真は撮れませんでした。「同じ家に見えないな。」と家に入りました。

 一枚の白黒の写真からこの家で過ごした雪の日のことを思い出しました。福岡を40年以上離れていました。日本を30年離れました。気候が変わったのをつくづく感じます。年末だというのに、タイムトリップした数時間でした。

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8年前の香港「大澳」

2023年11月13日 | 思い出

晴、19度、54%

 スマートホンの写真アプリの中にはアプリが勝手に作ってくれた「思い出」の写真集があります。時折スマホを開けた途端、「何年前の今日」の「思い出」が飛び出して来ます。昨日は8年前の「思い出」でした。 2015年、まだ香港にいた頃です。私一人の帰国は決まっていました。引越しの荷物の第1便を出した後です。この時は一年後の2016年に帰国するつもりでした。モモの検疫の関係から半年遅れになるとは思っていませんでした。離れ難い香港、車も日本に送り出すつもりでしたので、ゆっくりとした日には香港の田舎を回りました。一つ一つの景色をしっかりと胸に留めておくつもりです。

 8年前の11月9日に訪れたのは香港ランタオ島の西の端の漁村「大澳」です。2015年、香港の「新界」と呼ばれる田舎町でも高層ビルが建ち中国からの人の流れが日に日に増していました。でもここ「大澳」は依然のんびりした空気が流れていました。 河口にかかる橋は跳ね橋です。船が川を上ります。 橋を渡るのは人ばかりではありません。犬にとっても日常です。ほとんど野良犬がいなくなった香港ですが、田舎町には大型の野良犬がまだいました。 犬たちはのびのびとしていました。 大きな野良犬の存在を怖がることも気にすることもなく街は一日が過ぎて行きます。

 漁村には必ず海の神様を祀った「天后廟」があります。 屋根の色、提灯中国らしい祠です。春から夏にかけては沖で採れた小エビを干して腐らせ、「蝦醬」と言う調味料を作ります。ハエがたかってもお構い無し、「通芯菜」の炒め物に使います。秋の日には、 月餅や料理に使う卵の黄身を干しています。柑橘の皮を干した「陳皮」を作るのもこの時期ならではです。十一月の香港は湿度が低く晴れた日が続きます。青いみかんの皮を剥き、 干します。この風景を見ると冬が近づいていると思ったものです。

 香港島の我が家から「大澳」まで車で2時間足らず、30年の香港生活で一人で幾度も訪れました。黙って歩いていたら日本人だなんて分かりません。香港の田舎町独特の時間の流れ、人の匂いが好きでした。

 8年前、帰国を前にして、時間を見つけては香港の田舎へ足繁く通いました。写真を見るまでもなく、空気の匂いも景色も私の中にいまだに生き住いています。

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「カルネ」はるさんの思い出

2023年07月06日 | 思い出

晴、23度、93%

 「カルネ」という調理パンをご存知でしょうか?京都のパン屋さんが作っている、ロースハムに軽く火を通した玉ねぎを挟んだ調理パンです。 このパンは私の友人の大好物でした。8年前、友人は若くして逝きました。友人の命日にご家族が「カルネ」を送ってくださいました。

 友人とは香港で知り合いました。彼女は帰国する度にたくさんのお土産を持って来てくれました。和菓子、洋菓子、お野菜、お漬物、そして必ず「カルネ」。ちょっと早口な声で電話がかかります。「真奈さん、今日時間あります?」香港に着いてすぐの電話です。なぜなら「カルネ」はその日のうちに食べないといけません。我が家に届けてくれることもありますが、大きな袋を抱えて電車の改札口で受け取ることもしばしばでした。お土産を手渡され、「真奈さん、温め直してくださいよ。」と念を押されます。「カルネ」のことです。

 「カルネ」を見ると急いで食べなくてはと思います。早速、 一つ目は焦がしてしまいました。 半分に割るとふかふかのバンズの間から玉ねぎとハムの香りがします。普通のように見えますが、この「カルネ」の美味しさは見えないところに潜んでいます。パンに塗ってあるのは「マーガリン」と「ラード」です。これが美味しい決め手です。「このマーガリンがいいんですよ。」という友人の声が耳に聞こえます。

 気丈な彼女でした。せっかちに話すのにどこか悠長、きちっとしているのにぽっかりとおかしなことをする人でした。スペインが好きで、ピカソが好きで。久しぶりの「カルネ」を食べながら彼女のことを思い出します。

 はるさんありがとう。

 

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膝小僧の擦り傷

2023年03月03日 | 思い出

晴、3度、70%

 孫娘の誕生祝いに主人が自転車を贈りました。9歳で3台目の自転車です。お休みには家族で遠出をしています。休み明け孫娘からメールが来ました。「怪我した。」咄嗟に私は孫娘の膝に擦り傷がと思いました。膝小僧かどうかわわかりませんが、大したことなく痛くもないよと言って来ました。

 咄嗟に膝小僧が思い浮かぶ私は、孫娘と同じ年齢の頃一年中、膝小僧に擦り傷がありました。転ぶこと、木に登って落ちること、原因は様々です。学校の「医務室」の保健の先生とは仲良し、傷口に「オキスフル」を塗ってもらい「赤チン」で終わりのこともあれば、傷が深いときは「赤チン」でなく「ヨードチンキ」が塗られました。絶え間なく私の膝には「赤チン」がついていました。治り始めると痒くなります。うっかり掻き過ぎてかさぶたから再び血が出ることもしばしばでした。

 ここ数日小学生の膝小僧に目を遣りますが、擦り傷している子供なんて一人もいません。「オキシフル」「赤チン」「ヨードチンキ」が既に前世代のものです。膝小僧の擦り傷は小学高学年まで続きました。65歳の膝小僧を見ました。傷はありませんが、かさぶたをこさえていた頃の若い膝小僧が見えました。「昭和」の話です。

 

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主人が初めて買ってくれたもの

2022年07月31日 | 思い出

曇、29度、74%

 掃除をしていてふと手が止まって、小さな入れ物の蓋を取りました。 5センチほどの中国の塗りの入れ物です。双魚が描かれていたのですが、安い代物で2匹とも取れました。中を見たのはもうずっと以前、帰国後初めて開けたのかもしれません。何を入れてあるのか忘れています。

 出て来たのは小さなイヤリング、片方だけです。小さく花が描かれたガラス玉がぶら下がるイヤリングです。これは結婚前の主人が初めて私に買ってくれたものです。

 45年前、自由が丘の夜の街を散歩していました。当時の自由が丘今ほどの賑わいはありませんでしたが、若い人が集まる街でした。駅近くの路上に布を広げて手作りのアクセサリーを売っていました。しゃがんで見ていると、まだ結婚する前の主人が「どれか買ってあげるよ。」と言ってくれました。選んだのがこのイヤリングです。ちゃんと2つ揃っていました。毎日身につけて大事にしていましたが、ある時片方ないのに気付きました。落としたのです。

 イヤリングが好きでたくさん持っていました。そして片方だけになったイヤリングもたくさんありました。帰国前、片方のイヤリングは全部捨てました。このイヤリングだけは捨てれませんでした。そして小さな黒塗りの入れ物に入れて引っ越しの荷物に入れました。5年間一度も開けなかったのに、何の拍子にか蓋を取りました。

 45年、長いようで短くもありました。思い出が次から次に胸をよぎります。実はこの小さな黒塗りの入れ物は香港で初めて主人が私に買ってくれたものです。昔のピークのお土産物屋さん、香港が見渡せるピークはその日はガスがかかっていて何もみえませんでした。小学生の息子も一緒でした。まさか30年も住むことになるとは思ってもいなかった香港生活が始まったばかりの頃です。

 おそらく主人はイヤリングも入れ物のことも記憶にはないと思います。

 

 

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