曇、10度、74%
一週間に2度、「小豆」を炊きます。鍋に「小豆」を開けるとき、「小豆」はいい音を立てます。その音を聞くたびに、目に浮かぶのが小学校の頃母が作ってくれた「お手玉」です。
小学校の3、4年の頃ですから昭和40年代の初めでしょうか。「お手玉」が流行りました。「お手玉」は売っていませんから、女の子たちはこぞってお母さんの手製の「お手玉」を持ってきました。私も母に「お手玉」を作って欲しいと頼みました。母が作ってくれた「お手玉」は洋服の残り生地、ピンクのストライプの間に小さなバラの模様がありました。私のワンピースの端切れだったと思います。友人たちは薄い着物の端切れで色目の明るい「お手玉」もあれば地味なものもありました。
「お手玉」の歌はこの地方では「あんたがたどこさ ひごさ ひごどこさ」と始まるものだったと記憶しています。速さを競ったり、高く上げて腕を交差させたり、遊び方は色々でした。油染みた教室の床に座って遊びました。姉妹がいる友達は上手でした。私の「お手玉」はみんなのとは色柄だけでなく大きく違いがありました。それに気付いていたのはきっと私だけです。「音」です。
友人たちの「お手玉」には「小豆」が入っていて、手に取るたびに袋の中の「小豆」mが小気味好い音を立てました。私の「お手玉」には「米」が入っていました。しかも「お手玉」いっぱいに入っていました。掴み辛くもありました。でも音が「米」ですから鈍い冴えない音でした。友人達の「小豆のお手玉」が羨ましかった。でも母に「小豆のお手玉」を作って欲しいとは言えませんでした。そういう母娘の関係でした。甘えて「小豆のお手玉が欲しい。」など言える母ではありませんでした。
慣れてくると私も腕を上げましたが、いつも「音」が気になりました。軽やかな響きある「小豆のお手玉」の音。流行りものですからそのうち「お手玉」は私の生活から消えました。母が作ってくれたあの「お手玉」はどこに行ったのかしら。
週2回、艶のある「小豆」の軽快な音を聞きます。その度、「お手玉」の記憶が浮かびます。