チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

67歳の認識

2024年04月20日 | 自分ごと

曇、18度、72%

 ここ2年ほど「あれっ?」と思うことが多くなりました。視力が落ちて来たのは60歳を過ぎてから、顕著に歳を感じました。最近は指先の作業が困難になっています。「玉結び」を2度3度と繰り返します。袋物を開けるのに手間取ります。年齢に依る様々な変化は同じ年の人でも一律ではないようです。足に支障が来る方もいるし、もちろん大きな病気も背負い込みやすくなっています。

 頭では「老化」と分かっていてもさて現実に支障が出て来ると戸惑います。時間もかかるようになりました。縫い物だと「針の糸通し」「玉結び」に時間がかかります。さてそこから縫い始めるわけですから、道のりが長くなりました。ヨーグルトのアルミ色の中蓋を開けるのに手間取ります。お腹が空いているのにと苛立ちます。母や義母の「67歳」頃を思い出します。非常に元気でした。といっても会うのは年に一度ほど、2日か3日のことです。海外にいたので顔を見てご飯を一緒にするだけの時間でした。一番身近なお手本の二人は元気に振る舞っていたのかもしれません。

 まあ、「老化」は個人差があるらしいことはわかります。いけないのは自分の中で「なんで?」とそのことを受け入れられないギャップにあるように感じます。すんなり「老化」と一言で括れば思い煩うこともありません。「67歳」は60代ではありますが、「60歳」ではありません。四捨五入すれば「70歳」です。そこで、最近「自分は70歳だ。」と思うようにしました。これなかなかいいです。「70歳」で思い浮かぶのは小さな髷を結ったお婆さんの姿、母方の祖母の姿です。昔の人は早く歳をとりました。「70歳」だと思うことで祖母と自分を重ねると、生活の滞りをスルリと受け入れることができます。私の前を歩いていた母、義母、祖母らを思いながら同じ道をゆっくり歩みます。

 見出し写真は「夏福寿草」です。珍しいのよと種をいただきました。せっかちな私の種まきが早かったようです。夏になる前に咲きました。あと半月もすれば「立夏」です。赤い「夏福寿草」小さな小さな花が笑っているようです。

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一人暮らしの勧め

2024年04月10日 | 自分ごと

晴、10度、75%

 新年度が始りました。街に出かけると「一人暮らし、応援」などと書かれたコーナーを見かけます。電気店、生活全般の品を売る店、用もないのに見てしまいます。

 49年前、一人暮らしを始めました。この家、親元を離れたかった私です。心配や悲しさなど微塵もなく、春の陽気のようにウキウキでした。見るもの、聞くこと全てが興味の対象でした。学校なんぞそっちのけで街を歩き回りました。今のように「一人暮らし」のコーナーなどありません。生活に必要なものを自分で揃える楽しさが蘇ります。ゴールデンウィークを過ぎた頃から落ち着きが戻って来ました。生活にもリズムができます。夜遅くまでベットで寝っ転がって本を読んでも叱られることはありません。

 「一人暮らし」は責任も楽しさと一緒について来ます。月々の支払い、火の元、戸締り。ご近所には迷惑をかけない。出会う人には挨拶をする。そんな当たり前のことですが意識をします。今の新生活にはテレビは不可欠だそうですが、私はテレビを持ちませんでした。それでも何の不自由もありませんでした。小さな冷蔵庫、洗濯機、アイロンが新しい電化製品でした。ご飯だってお鍋で炊きました。今は電化製品もセット売り、鍋釜、食器も洒落たものが「一人暮らし」用としてセットになっています。便利だけど面白みに欠けています。

 49年前の春の空気は私にとって最高の思い出です。「フークシャ」の鉢植えを買いました。連休明けには「オカメインコ」も飼い始めました。あの春揃えた物でいまだに使っているものがいくつかあります。見出し写真は「まな板」として求めたカッティングボードです。 お玉とフライ返しも一緒に買いました。どこで買ったかも覚えています。その日はGEのアイロンも買いました。そのアイロンは香港まで一緒でしたが、変圧器をかけていたので壊れました。 ラベンダーのサッシュもあの春以来洋服掛けにかかっています。

 「一人暮らし」は自分と向き合います。一人で判断して行動を考えます。そしてその責任も自分で取ります。結婚して家族ができ、生活自体は変化がありました。でも、自分と向き合い、生活することの基盤はあの49年前の春から変わっていないと思います。

 「一人暮らし」を始める新社会人、新入生、思い出に残るスタートになって欲しいと願います。

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私の桜

2024年04月09日 | 自分ごと

雨、13度、84%

 先日、テレビで「桜」の特集を見ました。番組の最後、「人にはそれぞれの桜があるんですね。」と語られました。「私にとっての桜はどの桜だろう?」

 小学入学時は電車とバスを乗り継いで学校に通いました。九州大学の教養学部の道には大きな桜並木がありその桜の前で電車に乗り換えました。ある時帰国したら大学の移転でその桜は全て伐られていました。目を瞑ればその桜の様子が瞼に浮かびます。

 香港に移り住む前には多摩川沿いの桜の名所のすぐそばに住んでいました。野良犬を引き取って育てていました。その犬と幼稚園に通う息子を桜を見るために遠回りさせて、幼稚園に送った朝を思い出します。川向こうから見ると一面の桜が見事でした。早朝その桜を息子と犬と独り占めできた喜びは心に残っています。そして、桜のない国に30年住みました。

 7年前の早春、花が好きな老犬を連れて帰国しました。香港生まれ、香港育ちのモモは桜を見たことがありません。モモに桜を見せたいと強く思って帰国しました。 我が家の近くの桜並木でモモは桜を見ることができました。花びらの匂いも嗅ぎました。見出し写真からひと月後にモモは逝きました。この写真の時はすでに病状は進んでいました。

 私にとっての桜は、やはりモモに見せることができた家の近くの桜です。昨日、雨の中足を運びました。ここ数年、いく本かの桜が枝を切られました。モモに見せた春より花は少なく感じます。数日前、ココと散歩した時の桜です。 私が子供の時分にはここには桜はありませんでした。4、50年の桜です。来年は花がもっと戻って来て欲しいと願います。 散り始めた桜の下を始業式の小学生が走って行きました。ここの桜が私にとっての桜です。

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モモとの思い出の街、街の人が覚えていてくれたこと

2024年03月22日 | 自分ごと

晴、5度、54%

 香港島セントラルから長く伸びるエスカレーターがあります。私はこのエスカレーターで市場の買い物も、映画に行く時も街に出て家に帰りました。 このエスカレーターの一番上の道沿いに主人とモモと住んでいました。

 日本に帰国して八十五日でモモを亡くしました。その翌年、香港に来た時は昔の住まいの辺りに行くことが出来ませんでした。モモを飛行機に乗せた空港ですら通るのが辛かった。モモとの思い出を避けていました。今回の香港、銀行での用事がやっと終わりました。この銀行から見上げれば住んでいた街です。私のことをよく知る主人が、エスカレーターで上へ上へと連れて行ってくれました。

  私が歩いている先が住んでいたアパートです。この歩道橋を毎日モモと歩きました。抱いてエスカレーターに乗っていましたが、8歳のある日、急にモモは自分でエスカレータに乗りました。そんなことを思い出します。「この角によくおしっこしていたなぁ。」主人が横にいてくれたおかげで、やっとこの街に帰ってこれました。

 一回り街を歩きました。不動産屋のおばさん、店から出て来てくれて「しばらく。」とハグします。クリーニング屋さんのおねさん、「しばらく、どうしてたの?」とカウンターの向こうから手を振ってくれます。修理によくうちに来てくれていたおじさんとも挨拶。街の人が私を覚えていてくれました。

 帰りには持ち帰りたいものを買いに市場へ足を向けました。 開発が進み市場はいずれビルに入ります。今その工事の最中です。「陳皮」を買っていつもの八百屋を覗くと、西洋野菜をいち早く売りはじめたと言う名物おばさん、いえ、お姉さんが私を見つけて飛んで来てくれました。ここでもハグ。

 途中主人は仕事に向かい一人でした。セントラルの街に降りて来た時、いろんな思いが込み上げて来て、ボロボロと涙が出ました。

 モモとの思い出をに乗り越えることが出来ました。街の人たちが私を覚えていてくれました。数年の赴任で住む人が多い香港です。人の入れ替わりが激しい街です。常に動いている香港です。私の肩を抱いてくれた人の温もりがまだ残っています。香港はこんな小さな私までも大きく包み込んでくれました。

 セントラルの交差点から見上げた見慣れた狭い空が「またおいで。」と言ってくれているようでした。

 

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67年前、福岡日赤病院で生まれました。

2024年03月17日 | 自分ごと

雨、13度、67%

 67年前の今日、福岡日赤病院で生まれました。朝10時だと聞いています。 3000グラムで生まれたので当時は大きい方だったそうですが、その後あまり育たず、この年に至るまで小柄です。小学の低学年の頃はご飯もろくに食べないので、青い顔をして毎朝「ブドウ糖注射」をしていました。今では信じられません。この10年以上、風邪もひきません。熱も出ません。たまにくしゃみはします。

 元気に今朝も生まれ育った家で目覚めました。ここ数年、頓に父母への感謝の気持ちが強くなりました。そして46年間そばにいてくれた主人に改めて感謝します。こんな私とよくもまあ46年間一緒にいてくれたものです。そして義理の父母、私を迎え入れてくれたこのお二人にありがたいと思います。

  2歳の時の私の家族です。父も母も鼻筋の通った顔立ちですが、この私、目は小さく、鼻は膨らみ、両親は私の不器量を嘆いていました。不器量でも一人っ子ですから、大事に育てられました。母との葛藤が続きました。一日でも早くこの家を出たいと願ったのは中学時代からです。それなのにこの家に戻って来てしまいました。古い家ですが、雨風を凌いでくれます。土があるので、植物との触れ合いを保つことができました。ひとえに父母のおかげです。m

 この健康もいつかは病を得る時が来ると思います。主人にお世話になる日が来るでしょう。自分がしておきたいこと、身に付けたいことまだたくさんあります。自分の足りないもの、いい加減なところ、毎日の生活で少しでも良くなればと日々送ります。

 数少ない友人にも恵まれました。ふと「どうしているかな?」と思える友人がいることは幸せです。

 父母をはじめ、主人、義父母、友人に「ありがとう」。そして、「真奈さん、お誕生日おめでとう。」

  

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ヘーゼルナッツオイル

2024年03月16日 | 自分ごと

晴、9度、69%

 60歳を過ぎた頃から牛肉の脂身、お魚腹身の脂肪が吸収しにくくなりました。一番好きな部位です。赤身、脂の少ない部位なら普通に食べれます。脂質は私の身体に必要なので、植物性の油を積極的に摂るようになりました。

 「オリーブオイル」は言うまでもありません。「ごま油」「ピーナッツオイル」「アボガドオイル」「胡桃油」などは常備しています。「オリーブオイル」は万能です。値段によって香りの濃さ、旨味も違います。生で食べる時、加熱するときで「オリーブオイル」は使い分けます。もちろんパンにもつけて食べます。「バージンオイル」の深い緑は見た目にも食欲をそそります。帰国以来、ほぼ毎日フランスパンを一本朝焼きます。バターではなく「胡桃油」をつけて食べるのが好きです。ほのかな甘みがあり、ナッツらしい香ばしさです。数日前から「ヘーゼルナッツオイル」でパンを食べています。

 加熱用に用いるには「胡桃油」も「ヘーゼルナッツオイル」もやや高価な油です。野菜にかける、刺身にかける、ほんのタラリが野菜や刺身の味、風味を一変させてくれるから不思議です。「ヘーゼルナッツ」自体の日本での知名度、普及率が少ないと思います。「ヘーゼルナッツ」の魅力はその香ばしさが一際深いところです。 色は「胡桃油」とほぼ変わりません。甘みは少ないのですが、口に広がる香りの不思議さに惹かれます。毎朝焼くパンはシンプルな小さなフランスパンです。どんなオイルもどんな食事も受け止めてくれるパンです。このパンにジュワーっと「ヘーゼルナッツオイル」を染み込ませて食べます。

 「ナッツオイル」の力をもらって朝はスタートです。考えてみたら「アーモンドオイル」を持っていません。そうなんです、「アーモンド」は素焼きを毎日たくさん食べます。ポリポリ、ポリポリ。ご飯の後でも、お腹がちょっと空いた時にも、ポリポリ。だから「アーモンドオイル」には目が行かないのでしょう。これからも油、脂を味方につけて美味しい毎日を送ります。

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シールが好き

2024年03月05日 | 自分ごと

雨、8度、90%

 昭和30年代、今から60年前私は小学生でした。テレビで「鉄腕アトム」の連載が始まると、提供メーカーの明治製菓はマーブルチョコレートのおまけに「アトムのシール」を入れるようになりました。小筒に入っているシールは、出してくるとカーブしています。アトム、ウランちゃん、お茶の水博士、そんな登場人物がポツンと描かれたシールでした。下敷きにそのシールを貼ってくる子もいました。私はひたすら集めました。いつ頃まで「アトムシール」を集めていたか記憶はありません。集めたシールは時折出して来て、人物別にまとめてまた机の引き出しの隅にしまいます。何かの折に数えたら百数十枚有りました。もう忘れかけていたそのシールを中学だか高校の時出して来たら、黄変していました。昔のシールです。シールの角もめくれていたり、結局捨てました。

 シールの種類は違いますが「アトムのシール」以来、シールを買っては集めます。使うつもりで買うのですが、使わずに缶にしまっては出して来て並べます。自分の中でブームが去ると慌てていろんなものに貼って使います。手紙の封やメモ用紙にペタン。「アトムのシール」で使えなくなったシールの惨めさを経験しています。それでも使うために買うのに、買って、貯めて、出して来ては眺めて。60年経った今も小学生の頃と変わりません。私が死んだ後、家族の者は私の机の引き出しの一つの缶の中にたくさんの使われなかったシールを見つけると思います。

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雑貨屋が好き

2023年10月23日 | 自分ごと

晴、15度、76%

 「雑貨屋」がこの歳、66歳の今も好きです。中学の頃からですから長いこと好きです。中学までは「雑貨屋」などは存在していませんでした。小学の頃は「文房具屋」が好きでした。中学の時、東京数寄屋橋に「ソニープラザ」ができました。15歳の時「ソニープラザ」に連れて行ってもらった時の嬉しかったこと!日本のものではなく輸入物を集めたお店でした。

 あの頃の「ソニープラザ」ほどの魅力はありませんが、どんな小さな「雑貨屋」でも見ると必ず入ります。身につける小さなもの、台所道具、ファンシーな小物たち。 キャラクターグッズは「スヌーピー」をソニープラザで初めて見ました。レターセットや定期入れ、アメリカ製でした。お小遣いで買いました。

 いい加減興味がなくなるかと思いましたが、通い詰める店は流石にありません。それでもショピングモールなどに行くとつい足が向かいます。 目的はありません。もうここ数年は「雑貨屋」で買い物はしてません。ただ見るだけで満足です。 「こんなものが流行ってるのね。」と流行を教えてもらいます。 キャラクターの名前も知らないものばかりです。それでも「雑貨屋」好きです。 犬の絵のマグカップ、「パグ」が描かれています。ちょっと迷いましたが、たった1匹。マグカップはたくさん持ってます。棚に戻しました。

 買いもしないのに真剣に商品を見ています。いつになったら「雑貨屋」好きが冷めるのでしょうか?一歩足を踏み入れる時、あの昔の「ソニープラザ」で味わったワクワク感が甦ります。

 

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Twitter(X)をやめました。

2023年08月14日 | 自分ごと

晴、27度、91%

 Twitterをスマホから消しました。ある朝起きてスマホを開けたら、青い鳥のマークが消えていました。その代わり黒地に白抜きの「X」です。「X」のアイコンは薄気味悪く笑っているように思えました。鳥がさえずるTwitter、青い鳥のアイコンが好きでした。

 「X」に代わる前から、自分のスマホの使い方を変えようと思っていました。きっかけは我が家のWi-Fiの不通です。数週間続いたWi-Fiの不調は精神的に滅入りました。なぜ気持ちが落ち込むのか?普段あるものがなくなると不自由を感じます。急に冷蔵庫が壊れたら大慌てでしょう。一番は電気、ガスなどのライフラインです。Wi-Fiがつながりにくい間スマホを開ける機会が減りました。気の滅入りとは反対にどこか気持ちに余裕があることに気付きました。知らないうちにスマホの画面を見る時間が長くなっていたのです。

 そんな時、Twitterの青い鳥が消えました。13年私のスマホにあった青い鳥です。SNSの中で一番古くから使って来ました。「X」はテレビ電話や決済機能を近く連携させるそうですが、現状使っているのもで十分です。私がスマホに求めていたものを考え直してみました。電話機能が一番大事です。次がメール、検索機能は今では辞書代わりです。SNSなどなかった頃、そんな機能をありがたく感じていました。

 スマフホを開ける回数が減ると、時間も気持ちも余裕が生まれます。もともとゲームだけ入れていません。写真を撮る、保存するこれは外せない機能です。連絡先が一発で探せるのもありがたい。買い物機能はパンデミック以来外せないものとなりました。本屋に行くより本の検索が楽です。古本の検索をするとその便利さがよくわかります。しかも送料無しで早ければ当日手元に届きます。これも外せない。旅行時には乗り換え案内が活躍します。

 様々なメリットがありますが、私の問題はSNSのようです。「X」を一つ消しました。facebookもInstagramもこの2週間、最小限しか開けていません。どちらか私のスマホから消える日が近いと思います。

 自分の生活は自分で作るもの、私の判断基準でスマホとの向き合い方を変えて行くつもりです。

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女性は自分のお金を持つのがいいと思います。

2022年04月25日 | 自分ごと

晴、16度、94%

 30年日本を離れていました。現在、帰国後5年目です。30年の間に街の姿は変わりました。高齢者の姿が街に多くなりました。そんな表面的な変化は当たり前です。著しい変化を感じたのは結婚観、家族のあり方です。そのことに気づいたのは帰国後4年を過ぎた頃からです。

 私は結婚44年、主人に食べさせて貰って、住む場所も身の回りのものもお世話になっています。つまり養って貰っています。44年のうち23年は仕事をしていましたので、服、本、家の什器は私の収入で賄いました。主人の仕事がなかった時は私の収入が生活を支えたことも短い期間ありました。でも基本、食費や住宅費は主人に依存でした。私自身の貯金に主人の貯金を足してマンションも買いました。二人の名義です。仕事を辞めて8年が経ちます。自分のお金はなく、主人に養って貰っています。

 今住む家は私の実家、古い家を主人が改築してくれて住むことになりました。一人っ子の私は両親が亡くなれば当然この家、土地を全て引き継ぎました。つまり私の名義です。主人は自由にお金を使いなさいと言ってくれますが、私の気持ちとしては養って貰っている、ありがたいと思います。

 現代の女性はこの「養ってもらう」という言葉が苦手なのだと聞きます。私は昭和30年代生まれ、男女平等の時代です。前の世代は女性は男性の付属物的扱いでした。確かに今の女性は独立しています。結婚して、子供を産んでも働き家事もこなします。逞しい、清々しいと子供を保育園に送り迎えする母親たちの姿を見て感じます。家庭内でも家事の平等、男性の家事参加は当たり前、世間より家庭からの変化は根強いと感じます。

 若い女性は変化としては受け止めていないはずです。「当たり前」と思っているはずです。そしてその流れを一緒に流れてきた年配者も世の中を受け入れて、変化とは感じていないかもしれません。いい流れだと思います。現在主人に養われている身の私から一言、「自分が使えるお金を女性は持った方がいい。」ということです。自分が働いて得たお金は「自分のもの」何かあったときに自分のために使いましょう。「離婚」だってあり得ます。大きな仕事を始めるかもしれません。「自分のお金」は大事なことです。私はというと、お金はなくてもこの家と土地があります。お金が必要になった時は売ってお金にするつもりです。自分名義のものを持つことはこれからますます女性にとって必要です。少ない金額でも心に余裕が生まれます。自分を支えてくれます。

 雨上がりの朝、受け継いだ土地の庭に咲き始めたバラを見ながらそんなことを思いました。

コメント (2)
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