2泊3日で京都に行ってきました。主な目的は、奈良の正倉院展の見学なのですが、泊りは、やはり京都にしました。京都駅から奈良まで、近鉄特急で30分で行きますので、京都泊で十分なのです。
小田原から、ひかりに乗って京都駅に到着したのは、お昼ちょっと前でした。駅構内の老舗「松葉」の出店でニシン蕎麦を食べました。甘いニシンの棒煮を咬み、蕎麦を絡ませごくんと飲み込むと、ああ京都に来たなという感じがします。荷物もあるので、すぐ宿泊先にバスで向かいます。鴨川沿いにある、荒神橋近くのお気に入りのホテルです。荷物を預けて、早速、夕方まで散歩に出かけます。
ホテルの庭から直接、鴨川の河原に出ると、そこは車と人でいっぱいの町なかとは一線を画する、京都のやさしい自然が目の前に広がっていました。河原は広々とどこまでも続き、開放感があります。優しく、穏やかに流れる川の浅瀬には、白さぎが十数羽ゆったりとたむろし、その少し先の流れには鴨の群れが気持ちよさそうに浮かんでいます。向こう岸の川端通りの桜並木は桜もみじで染まり、その先の京大キャンパスのバックには東山三十六峰がなだらかな稜線で連なっています。その中に大文字焼きの山もみえます。川の上流の方に目をやると、遠くに幾重もの山並みが、まるで東山魁夷の日本画のようにほのぼのとした山影をみせています。
ふたりで川辺を三条大橋に向かって歩き始めます。まるで夏みたいな気候です。小夏日和と言いたいくらいです。次の橋のたもとに、「女紅場跡」の石碑を見つけました。名前から遊郭の跡地かと想像してしまいましたが、まじめな、京都府立第一高等女学校の創立当初の名前だそうです。案内によると、明治5年創立、我が国最初の高女のようです。さすが京都ですね。現在の鴨沂高校だそうです。たしかタイガースの沢田研二もここの出身だよ、と私が言ったら、あなたは、つまらないことをよく知ってるね、とワイフにバカにされました。因みにワイルドワンズの植田くんは私の高校の後輩です。
三条大橋につきました。ここは、旧東海道のゴール地点です。最近旧東海道の宿場町にこっているので、感慨深くながめました。橋のたもとに、弥次さん喜多さんの像がありました(写真)。ここから、旧東海道方面には向かわず、反対の三条通りに進みます。途中、池田屋騒動跡地とか佐久間象山、大村益次郎遭難の地とか、幕末の歴史舞台の跡を通り過ぎて行きます。
この通りは、旧東海道の入り口ということで、江戸時代からにぎわっていましたが、明治に入ってからも、重点的に整備され、多くの近代建築物が建てられたようです。当時の、日銀京都支店、日生ビル等の洋館が、現在もいくつも残っていて、歴史を感じさせてくれます。また、和紙、美術、茶道具などの伝統を感じさせるお店や画廊も多く、文化の香り高い通りといった印象です。歩き疲れたので、老舗のイノダコーヒー本店で「アラビアの真珠」というブレンドをいただきました。香り、こく、酸味が絶妙で、おいしかったです。喫茶店も多いです。これも文化の通りらしいですね。
麩屋町(ふやまち)通りに入ると、有名な老舗の和風旅館が並んでいました。300年の歴史を誇る俵屋、川端康成さんも激賞した、もてなしの柊屋(ひいらぎや)、炭屋旅館などです。一度は泊まりたい宿ですが、お値段も相当高そうです。そこを抜けて、広い通りを右に曲がり、市役所の横から寺町通りに入ります。落ち着いたクラシカルな商店街が続いています。どのお店も店構えからして風格があります。すぐ、古本屋さんの尚学堂が目に入りました。店頭に出している古本の種類が違います。古文書みたいなものなのです。京大の先生あたりをターゲットとしているのでしょうか。さすが、京都と思いました。
村上開新堂というお店に目がとまりました。みただけでは、何のお店か分かりません。ワイフは詳しいです。好事福廬(こうじぶくろ)というお菓子で有名だそうです。蜜柑をくりぬいて、中身をゼリーにし、さらに味付けして、蜜柑の皮で包むという洋菓子だそうです。池波正太郎が紹介して有名になったそうです。今日は買いませんでした。私は、村上春樹の村上朝日堂と何か関係があるお店かと思いました。ワイフにバカにされるので、それは黙っていました。
まだまだ面白いお店がたくさんあったのですが、あと一つだけ紹介して終わります。そのお店は藤原定家、あの「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」の歌人です、の住居跡にありました。古梅園という筆、墨、硯のお店でした。店内のはり紙に度肝を抜かされました。・・・「お花すみ」として親しまれている「紅花すみ」は230年のベストセラーです・・・230年です、すごいことですね。その日も何人ものお客さんが、すみを買っていました。観光客ではない地元の人です。京都の文化の底力を感じました。
「秋の夕暮れ」になりましたので、鴨川べりの「苫屋」に向け、帰りを急ぎます。御所の横の道を抜けて、右に折れたところに、クラシックな校舎が建っていました。数名の女高生がたむろしている校門の前を行き過ぎるとき、表札の校名が目に入りました。あの高校でした。「女紅場」は、ここに移っていたのでした。
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次回に正倉院展の紹介をしようと思います。
小田原から、ひかりに乗って京都駅に到着したのは、お昼ちょっと前でした。駅構内の老舗「松葉」の出店でニシン蕎麦を食べました。甘いニシンの棒煮を咬み、蕎麦を絡ませごくんと飲み込むと、ああ京都に来たなという感じがします。荷物もあるので、すぐ宿泊先にバスで向かいます。鴨川沿いにある、荒神橋近くのお気に入りのホテルです。荷物を預けて、早速、夕方まで散歩に出かけます。
ホテルの庭から直接、鴨川の河原に出ると、そこは車と人でいっぱいの町なかとは一線を画する、京都のやさしい自然が目の前に広がっていました。河原は広々とどこまでも続き、開放感があります。優しく、穏やかに流れる川の浅瀬には、白さぎが十数羽ゆったりとたむろし、その少し先の流れには鴨の群れが気持ちよさそうに浮かんでいます。向こう岸の川端通りの桜並木は桜もみじで染まり、その先の京大キャンパスのバックには東山三十六峰がなだらかな稜線で連なっています。その中に大文字焼きの山もみえます。川の上流の方に目をやると、遠くに幾重もの山並みが、まるで東山魁夷の日本画のようにほのぼのとした山影をみせています。
ふたりで川辺を三条大橋に向かって歩き始めます。まるで夏みたいな気候です。小夏日和と言いたいくらいです。次の橋のたもとに、「女紅場跡」の石碑を見つけました。名前から遊郭の跡地かと想像してしまいましたが、まじめな、京都府立第一高等女学校の創立当初の名前だそうです。案内によると、明治5年創立、我が国最初の高女のようです。さすが京都ですね。現在の鴨沂高校だそうです。たしかタイガースの沢田研二もここの出身だよ、と私が言ったら、あなたは、つまらないことをよく知ってるね、とワイフにバカにされました。因みにワイルドワンズの植田くんは私の高校の後輩です。
三条大橋につきました。ここは、旧東海道のゴール地点です。最近旧東海道の宿場町にこっているので、感慨深くながめました。橋のたもとに、弥次さん喜多さんの像がありました(写真)。ここから、旧東海道方面には向かわず、反対の三条通りに進みます。途中、池田屋騒動跡地とか佐久間象山、大村益次郎遭難の地とか、幕末の歴史舞台の跡を通り過ぎて行きます。
この通りは、旧東海道の入り口ということで、江戸時代からにぎわっていましたが、明治に入ってからも、重点的に整備され、多くの近代建築物が建てられたようです。当時の、日銀京都支店、日生ビル等の洋館が、現在もいくつも残っていて、歴史を感じさせてくれます。また、和紙、美術、茶道具などの伝統を感じさせるお店や画廊も多く、文化の香り高い通りといった印象です。歩き疲れたので、老舗のイノダコーヒー本店で「アラビアの真珠」というブレンドをいただきました。香り、こく、酸味が絶妙で、おいしかったです。喫茶店も多いです。これも文化の通りらしいですね。
麩屋町(ふやまち)通りに入ると、有名な老舗の和風旅館が並んでいました。300年の歴史を誇る俵屋、川端康成さんも激賞した、もてなしの柊屋(ひいらぎや)、炭屋旅館などです。一度は泊まりたい宿ですが、お値段も相当高そうです。そこを抜けて、広い通りを右に曲がり、市役所の横から寺町通りに入ります。落ち着いたクラシカルな商店街が続いています。どのお店も店構えからして風格があります。すぐ、古本屋さんの尚学堂が目に入りました。店頭に出している古本の種類が違います。古文書みたいなものなのです。京大の先生あたりをターゲットとしているのでしょうか。さすが、京都と思いました。
村上開新堂というお店に目がとまりました。みただけでは、何のお店か分かりません。ワイフは詳しいです。好事福廬(こうじぶくろ)というお菓子で有名だそうです。蜜柑をくりぬいて、中身をゼリーにし、さらに味付けして、蜜柑の皮で包むという洋菓子だそうです。池波正太郎が紹介して有名になったそうです。今日は買いませんでした。私は、村上春樹の村上朝日堂と何か関係があるお店かと思いました。ワイフにバカにされるので、それは黙っていました。
まだまだ面白いお店がたくさんあったのですが、あと一つだけ紹介して終わります。そのお店は藤原定家、あの「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」の歌人です、の住居跡にありました。古梅園という筆、墨、硯のお店でした。店内のはり紙に度肝を抜かされました。・・・「お花すみ」として親しまれている「紅花すみ」は230年のベストセラーです・・・230年です、すごいことですね。その日も何人ものお客さんが、すみを買っていました。観光客ではない地元の人です。京都の文化の底力を感じました。
「秋の夕暮れ」になりましたので、鴨川べりの「苫屋」に向け、帰りを急ぎます。御所の横の道を抜けて、右に折れたところに、クラシックな校舎が建っていました。数名の女高生がたむろしている校門の前を行き過ぎるとき、表札の校名が目に入りました。あの高校でした。「女紅場」は、ここに移っていたのでした。
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次回に正倉院展の紹介をしようと思います。