気ままに

大船での気ままな生活日誌

茅ヶ崎一里塚から歩く

2006-12-17 13:37:39 | Weblog
茅ヶ崎は私の好きな街のひとつで、よく訪れます。街歩きだけではなく、烏帽子岩を横に見ながら、海岸沿いを江ノ島入り口まで、てくてく歩いたことも何度かあります。今回は、茅ヶ崎一里塚を起点に、東海道を東へ、西へ、2日かけて歩いてみました。

茅ヶ崎駅北口を出て、少し歩くと東海道に出ます。交差点の横に一里塚の碑があります。「日本橋から14里、慶長9年(1604年)設置、当時は茅ヶ崎の地名はなく、南湖、高砂の名で知られていた」という案内が記されていました。

まず、東へ向かいます。嬉しいことに、すぐ松並木の緑が目に入ります。東海道松並木の名残です。それは、一里塚から八王子神社付近まで続き、一旦とぎれ、本村(ほんそん)地区で、また現れます。ここは大きな木が多く、幹回りが2メートルを越すようなものが、何本もありました。案内によると、その大きさの松の樹齢は400年にもなるそうです。ということは、江戸時代からの松ということです。山本周五郎ではないですけど「松の木は残った」ですね。この地区の歩道を整備して、松並木プロムナードをつくる計画があるようです。是非実現して欲しいと思います。

この辺は、松林とか赤松とか松の名がつく地名が多いです。昔から松が多かったのでしょうか。松林中学を過ぎて、小和田(どこかで聞いた名ですね)に入ると、松並木はとぎれます。そして、赤松歩道橋付近で、また松並木が現れます。ここでも、幹回り2メートル以上の大きな松の木を何本もみかけました。きっと江戸時代も、この辺りには松が多かったにちがいないと思いました。

帰り途に寄った辻堂の図書館で、江戸時代に描かれた、この地区の絵図を見つけました。やはり、そうでした。すぐ先に大山詣の道が分岐していますが、その分岐点からこの地点までの街道の周辺に松の木が、たくさん描かれていました。しかし、そこから東方向(今まで歩いてきた道)の街道沿いには、ところどころに描かれている程度でした。当時の東海道沿いも、松がずらりと途切れなく並んでいるというわけではなかったようです。

藤沢市との境界標識のところまで来ますと、突然、松並木が途絶えてしまいました。むかし、一軒家にいた頃、隣の奥さんが、歩道のイチョウの葉の掃除をするとき、定規ではかったように、境界線きっちりに掃除していたのを思い出しました(雪かきもそうでした、とてもいい奥さんでしたが、こういうことだけは、きっちりしたい性格のようです、苦笑)。市役所間の縄張り争いがあるのかも知れませんが、協力して欲しいですね。

茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿との間にあり、旅籠はありませんが、茶屋(立場茶屋)がありました。この辺りでも、東海道と大山詣での旅人のために、二軒の茶屋があり、その跡地に「二つ谷(家)」と刻まれた石碑が建っていました。歩き疲れたので、私もここの、まぼろしの茶屋で休憩することにしました。娘さんにお茶を入れてもらったつもりで、自動販売機で買ったお茶をいただきました。そして、あと一息と、辻堂駅に向かったのでした。

・・・・・・・
翌日、今度は西に向かいました。期待した松並木はほとんどありませんでした。途中で円蔵寺、大六天神社を覗き、さらに、歩いて行くと、南湖入り口の標識がみえてきました。この辺りの地名は茶屋町です。ここに茶屋が5,6軒あったということです。平塚宿に入る手前の、馬入川(相模川)が大雨などで、川留めになると、旅人は茶屋で泊まらざるをえなくなり、その数が、多いときで200~300人になったそうです。また、大名たちの為には、本陣、脇本陣に匹敵する臨時の宿も用意されていたようです。そういえば、由緒ありげな旧家をいくつか目にしました。江戸時代、茅ヶ崎で一番の繁華街はここだったのです。現在の加山雄三通り、サザン通りに相当しますね。当時の茅ヶ崎一の人気者といえば、大岡越前でしょうか(茅ヶ崎の浄明寺にお墓があります)。とすると、当時この道は、岡ちゃん通りとか、越前がに食べほうだい通り、とか呼ばれていたでしょうか。

ここからしばらく、左側に冨士山がみえるという道を歩きます。「左冨士」は、東海道では、ここと静岡の吉原の2カ所しかないそうです。安藤広重の版画、東海道53次の中に「南湖の左冨士」として描かれています。その日は、残念ながら、曇っていて、確認することができませんでした。鳥井戸橋の脇にその左冨士の碑が建っていました。

その碑の反対側に、鶴嶺八幡宮の鳥居が見え、そこから始まる参道の両脇には、なんとも素晴らしい松並木がどこまでも続いていました。一キロあまりの参道に、ほぼ切れ目なく、松の緑を見ることが出来ます。源義家ゆかりの由緒あるお宮ですが、この八丁松並木は、正保年間(1644ー48)に社殿を再建された、朝恵上人によて、つくられたそうです。多くは、二代目、三代目の松でしょうが、江戸時代からのものと推定される、太い幹の松も見かけました。昔の東海道の松並木をほうふつとさせる見事な景観でした。

松並木をゆっくり歩き、十分堪能した後、平塚に向いました。途中、鎌倉時代の旧相模川の橋脚遺構を見学し、馬入橋を渡り始めました。その頃には、少しは雲が切れてきましたが、まだ、冨士山は、左側にも、右側にも、その雄姿のかけらもみせてはくれませんでした。





  



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