山田洋次さんは昭和29年に大船撮影所に入りましたが、当時撮影所には10のステージがあり、音楽室、現像室、スタッフ室、事務室、宿泊施設とあり、1000人を越える人々が働いていました。年間、50本の映画をつくり、常時、4,5本の映画が撮影中でした。まるで、映画という夢を作り出す工場、いうなれば、夢工場のようだった、と山田さんは述懐しています。
二人の巨匠がばりばり仕事をしていました。ひとりは小津安二郎監督です。前年(28年)に、名作「東京物語」を発表したばかりです。この映画は、当時から評判で、今でも世界の歴代映画ベストテンを選ぶイベントには、必ず上位に入ってくるそうでする。日本映画ではあと黒澤監督の七人の侍だそうです。当時の若い山田さんには、そんな小津さんが神様のようにみえたそうです。
もう一人の巨匠は木下恵介監督です。この年(29年)に高峰美枝子主演の代表作「二十四の瞳」をつくっています。木下さんは、小津さんと違って、毎回撮り方を変えるなど、常に変化を求めていましたので、演出技術を学ぶ若手にはとても勉強になったそうです。木下学校と呼ばれるほど、木下さんの回りに人が集まっていたそうです。人材育成のこつはなんですかと尋ねましたら、えこひいきすることだ、と答えたそうです。才能を認めた人には徹底的に教えるということでしょうか。現在は、お二人とも、円覚寺の同じ墓地で仲良く眠っています。
助監督で修行を続けていた山田さんたちが、ある日、監督昇進はどういう基準で決めるのかと撮影所の所長さんに聞きにいきました。所長さんは、弱ったね、うーん、と言ってしばらく考えて、出てきた言葉はこうでした。「顔つきだな」。多くの人は、ぎゃふんとしましたが、山田さんは、納得しました。監督という仕事は大勢の人をオーガナイズしていかなければならない、そのためには、一人ひとりの個性を見極め、ていねいに接していかなければならない、そういうことを厭わない人格でなければならない、そういう人格は顔つきに表れる、そういうことだと、すぐ感じたのです。
そして、山田さんは監督に昇進し、昭和36年に「二階の他人」でデビューを果たします。そして、昭和44年には、「男はつらいよ」の第1作ができあがりました。そのあと平成8年まで27年間、実に48作という、世界の映画史上、例をみない、空前の、そしておそらく絶後の長期シリーズになったのでした。
1970年代は我が国が高度成長期に入り、まさに、どの会社、どの職場でも、皆目をつりあげて、進歩とか発展とか言いながら、休みもとらず、仕事を進めている時代でした、こんな時代に逆行するような、のんきなひとりの風来坊が何故こんなに受けたのか、山田さんはこう分析しています。
会社人間、組織人間として、自分の意にそぐわない仕事でも、必死になってこなしてきた人たちが、寅さんをみて、安心したのではないかと言うのです。こんな、すっとぼけた、進歩とか発展とかに全く無縁な、のんきな男を愛してしまった、そんな自分も見捨てたもんじゃない、ほっとする、のではないかと言うのです。
もちろん、渥美清さんのキャラクターがこの映画を支えてきたのは言うまでもありません。そして、御前様役の笠智衆さんも、重しのような役割で、この作品になくてはならない俳優さんだったそうです。実際もお坊さんのようで、渥美さんが、85才頃の笠さんを、半分仏様だよと言って笑ったそうです。渥美さんのお別れ会は、大船撮影所の中に、映画と同じ柴又の団子屋のセットをつくり、そこで「葬儀」をしたそうです。暑い日でしたが、なんと3万5千人の人々が、長い列をつくってお別れにきてくれたそうです。寅さん人気のすさまじさを実感したそうです。
元撮影所の一画に大きな寅さんのモザイク画が飾ってあります(写真)。寅さんの寝ころんでいる絵の上に「夢をありがとう」の言葉がみえます。あんなにもたくさんの、あんなにも楽しい夢をつくり続けてこられた寅さん、そして山田洋次監督に、改めて「夢をありがとうございました」と言わせていただきます。
二人の巨匠がばりばり仕事をしていました。ひとりは小津安二郎監督です。前年(28年)に、名作「東京物語」を発表したばかりです。この映画は、当時から評判で、今でも世界の歴代映画ベストテンを選ぶイベントには、必ず上位に入ってくるそうでする。日本映画ではあと黒澤監督の七人の侍だそうです。当時の若い山田さんには、そんな小津さんが神様のようにみえたそうです。
もう一人の巨匠は木下恵介監督です。この年(29年)に高峰美枝子主演の代表作「二十四の瞳」をつくっています。木下さんは、小津さんと違って、毎回撮り方を変えるなど、常に変化を求めていましたので、演出技術を学ぶ若手にはとても勉強になったそうです。木下学校と呼ばれるほど、木下さんの回りに人が集まっていたそうです。人材育成のこつはなんですかと尋ねましたら、えこひいきすることだ、と答えたそうです。才能を認めた人には徹底的に教えるということでしょうか。現在は、お二人とも、円覚寺の同じ墓地で仲良く眠っています。
助監督で修行を続けていた山田さんたちが、ある日、監督昇進はどういう基準で決めるのかと撮影所の所長さんに聞きにいきました。所長さんは、弱ったね、うーん、と言ってしばらく考えて、出てきた言葉はこうでした。「顔つきだな」。多くの人は、ぎゃふんとしましたが、山田さんは、納得しました。監督という仕事は大勢の人をオーガナイズしていかなければならない、そのためには、一人ひとりの個性を見極め、ていねいに接していかなければならない、そういうことを厭わない人格でなければならない、そういう人格は顔つきに表れる、そういうことだと、すぐ感じたのです。
そして、山田さんは監督に昇進し、昭和36年に「二階の他人」でデビューを果たします。そして、昭和44年には、「男はつらいよ」の第1作ができあがりました。そのあと平成8年まで27年間、実に48作という、世界の映画史上、例をみない、空前の、そしておそらく絶後の長期シリーズになったのでした。
1970年代は我が国が高度成長期に入り、まさに、どの会社、どの職場でも、皆目をつりあげて、進歩とか発展とか言いながら、休みもとらず、仕事を進めている時代でした、こんな時代に逆行するような、のんきなひとりの風来坊が何故こんなに受けたのか、山田さんはこう分析しています。
会社人間、組織人間として、自分の意にそぐわない仕事でも、必死になってこなしてきた人たちが、寅さんをみて、安心したのではないかと言うのです。こんな、すっとぼけた、進歩とか発展とかに全く無縁な、のんきな男を愛してしまった、そんな自分も見捨てたもんじゃない、ほっとする、のではないかと言うのです。
もちろん、渥美清さんのキャラクターがこの映画を支えてきたのは言うまでもありません。そして、御前様役の笠智衆さんも、重しのような役割で、この作品になくてはならない俳優さんだったそうです。実際もお坊さんのようで、渥美さんが、85才頃の笠さんを、半分仏様だよと言って笑ったそうです。渥美さんのお別れ会は、大船撮影所の中に、映画と同じ柴又の団子屋のセットをつくり、そこで「葬儀」をしたそうです。暑い日でしたが、なんと3万5千人の人々が、長い列をつくってお別れにきてくれたそうです。寅さん人気のすさまじさを実感したそうです。
元撮影所の一画に大きな寅さんのモザイク画が飾ってあります(写真)。寅さんの寝ころんでいる絵の上に「夢をありがとう」の言葉がみえます。あんなにもたくさんの、あんなにも楽しい夢をつくり続けてこられた寅さん、そして山田洋次監督に、改めて「夢をありがとうございました」と言わせていただきます。