小津安二郎監督ファンの集い、第三回麦秋忌が鎌倉で開かれていましたので、覗いてきました。プログラムの第一部で、笠智衆さんのご長男の笠徹さんによる「父を語る」と題した講演がありました。名優、笠智衆さんの素顔を知ることができました。
笠徹さんは現在、大船で悠々自適の生活を送られています。目元が笠智衆さんにとてもよく似ています。でも、お父さんと違って(笑)、流ちょうに、またユーモアたっぷりにお話しされ、予定の1時間があっという間に過ぎました。
よく、笠智衆さんは家庭でも、映画の中の雰囲気に似ているのですかと聞かれるそうです。ほとんど同じだそうです。不器用な方で、自分の性格に合う役しかできないそうです。口癖が「自然が一番」だそうで、役も地でできるものを好んだそうです。俳優はNOと言わない、とよく人には言っていたそうですが、実際は、役をもらったあと、台本を読んで、気にいらない役であると、「具合が悪い(仮病)」と言って、よく断ったそうです。断り役は当時、映画会社に勤めていた、息子の徹さんにさせていたそうです。
熊本県天水町のお寺の次男として生まれ、僧職を継ぐつもりで、東京の仏教関係の大学に入りましたが、途中で、松竹蒲田撮影所のニューフェース試験に合格し、俳優の道に入ります。大部屋生活が長く続きましたが、この時代がとても楽しかったと言っていたそうです。このとき、脚本部にいた、しいのはなみさんと出会い、結婚しました。楽しかったはずですね(笑)。
小津監督に出会い、笠智衆さんの才能は花開きます。小津作品の最高傑作といわれる三部作、「晩春」「麦秋」「東京物語」のいずれも、原節子さんと共に、主役を演じています。自分の隠れていた才能を引き出してくれた小津監督を、神様のように、尊敬していたそうです。監督のことを、回りの人は「おっちゃん」と呼んでいて、奥さんもそうでしたが、彼は、どんなときでも「小津先生」と呼んでいたそうです。・・・奥さんは、笠智衆さんのことを、笠(りゅう)さんと呼んでいたそうですが、彼は奥さんのことを、名前では呼ばず、ウーとか、オーとか、それでも返事のないときは、オイコラと呼んでいたそうです。・・・因みに我が家では、互いに、むかしから、○○ちゃんです。ただ、外では、ワイフは私のことを、○○さんとか、シュジン(囚人(涙)、酒人(汗)、私有人(奴隷;滝の涙))とか言っているようです・・
下着のパンツをはいたことがなく、いつも、ふんどしだったそうです(明治の人ですね)。大岡越前が、何を言いやがる、これを見よと、ぱっと証拠の巻物をひろげるような感じで、長いふんどしを、部屋いっぱい投げ、締めていたようです。食べ物では太刀魚などの煮魚が好きで、また、だご汁や摺ったとろろいもも大好きでした(熊本の義父も好きでした)。娘さんが二人おりましたが、嫁に出す日は映画のように、しんみりはしていなくて、さばさばしていたようです。(うちの親父もそうでした)
「撮影のときは、真っ白な状態でいく」とよく人に言っていたそうですが、そんなことはなく、よく台詞の練習をしていたそうです。大船の離れ山に住んでいた頃には、元の離山(今は崩されて、三菱の工場になっている)のてっぺんで、岡本に移ってからは、近くの高台の神社で、大きな声で、納得いくまで研究していたそうです。さすが、名優ですね、見えないところで、努力されていました。
今日、散歩がてら、その神社にまで足を伸ばしてみました。神明神社とかかれた表札を掲げた鳥居の向こうに長い石段が続いていました。73段上りきると、小さなお社があり、その前は木に囲まれた小さな広場になっていました(写真)。人家は、この山の下にしかありませんし、道も今、登ってきた階段だけです。閉ざされた、静かな、とても落ち着く場所です。ここなら、どんな大きな声を出しても、どこからも文句はでないでしょう。
しばらく、その日みた「晩春」のお父さん役や寅さんシリーズの御前様役の姿を思い浮かべ、佇んでいました。そのとき一瞬、小さなお社の向こうから、笠智衆さんの、誠実そのものの、あの独特の声が聞こえたような気がしました。
笠徹さんは現在、大船で悠々自適の生活を送られています。目元が笠智衆さんにとてもよく似ています。でも、お父さんと違って(笑)、流ちょうに、またユーモアたっぷりにお話しされ、予定の1時間があっという間に過ぎました。
よく、笠智衆さんは家庭でも、映画の中の雰囲気に似ているのですかと聞かれるそうです。ほとんど同じだそうです。不器用な方で、自分の性格に合う役しかできないそうです。口癖が「自然が一番」だそうで、役も地でできるものを好んだそうです。俳優はNOと言わない、とよく人には言っていたそうですが、実際は、役をもらったあと、台本を読んで、気にいらない役であると、「具合が悪い(仮病)」と言って、よく断ったそうです。断り役は当時、映画会社に勤めていた、息子の徹さんにさせていたそうです。
熊本県天水町のお寺の次男として生まれ、僧職を継ぐつもりで、東京の仏教関係の大学に入りましたが、途中で、松竹蒲田撮影所のニューフェース試験に合格し、俳優の道に入ります。大部屋生活が長く続きましたが、この時代がとても楽しかったと言っていたそうです。このとき、脚本部にいた、しいのはなみさんと出会い、結婚しました。楽しかったはずですね(笑)。
小津監督に出会い、笠智衆さんの才能は花開きます。小津作品の最高傑作といわれる三部作、「晩春」「麦秋」「東京物語」のいずれも、原節子さんと共に、主役を演じています。自分の隠れていた才能を引き出してくれた小津監督を、神様のように、尊敬していたそうです。監督のことを、回りの人は「おっちゃん」と呼んでいて、奥さんもそうでしたが、彼は、どんなときでも「小津先生」と呼んでいたそうです。・・・奥さんは、笠智衆さんのことを、笠(りゅう)さんと呼んでいたそうですが、彼は奥さんのことを、名前では呼ばず、ウーとか、オーとか、それでも返事のないときは、オイコラと呼んでいたそうです。・・・因みに我が家では、互いに、むかしから、○○ちゃんです。ただ、外では、ワイフは私のことを、○○さんとか、シュジン(囚人(涙)、酒人(汗)、私有人(奴隷;滝の涙))とか言っているようです・・
下着のパンツをはいたことがなく、いつも、ふんどしだったそうです(明治の人ですね)。大岡越前が、何を言いやがる、これを見よと、ぱっと証拠の巻物をひろげるような感じで、長いふんどしを、部屋いっぱい投げ、締めていたようです。食べ物では太刀魚などの煮魚が好きで、また、だご汁や摺ったとろろいもも大好きでした(熊本の義父も好きでした)。娘さんが二人おりましたが、嫁に出す日は映画のように、しんみりはしていなくて、さばさばしていたようです。(うちの親父もそうでした)
「撮影のときは、真っ白な状態でいく」とよく人に言っていたそうですが、そんなことはなく、よく台詞の練習をしていたそうです。大船の離れ山に住んでいた頃には、元の離山(今は崩されて、三菱の工場になっている)のてっぺんで、岡本に移ってからは、近くの高台の神社で、大きな声で、納得いくまで研究していたそうです。さすが、名優ですね、見えないところで、努力されていました。
今日、散歩がてら、その神社にまで足を伸ばしてみました。神明神社とかかれた表札を掲げた鳥居の向こうに長い石段が続いていました。73段上りきると、小さなお社があり、その前は木に囲まれた小さな広場になっていました(写真)。人家は、この山の下にしかありませんし、道も今、登ってきた階段だけです。閉ざされた、静かな、とても落ち着く場所です。ここなら、どんな大きな声を出しても、どこからも文句はでないでしょう。
しばらく、その日みた「晩春」のお父さん役や寅さんシリーズの御前様役の姿を思い浮かべ、佇んでいました。そのとき一瞬、小さなお社の向こうから、笠智衆さんの、誠実そのものの、あの独特の声が聞こえたような気がしました。