山田さんは、その日のことをとてもよく覚えています。昭和29年の4月、よく晴れた暖かい日でした。大船駅を降りて、松竹通りを歩いています。目の前には、しゃれたジャケットを着た40才ぐらいの男の人と、春らしい柄のワンピースの若い女性が、談笑しながら、歩みを進めています。ふと振り向いた顔をみますと、よく知られた俳優さんでした。大学を卒業したばかりの若い山田さんは、これから、こんな素敵な人たちと一緒に仕事ができるんだ、と、とても晴れがましい気持ちで胸がいっぱいになりました。
山田さんは、松竹の助監督試験に合格し、その日、大船撮影所に採用手続きにきたのでした。当時、映画産業は全盛期でしたから、俳優さんは、もちろんのこと、映画監督になりたいという人もたくさんいました。わずか6人の助監督の募集に3000人もの応募がありました。山田さんがあとで聞いた話ですが、この試験に落ちた人の中に、のちに有名作家となられた五木寛之さんや遠藤周作さん、そして、今、都知事をしていばっている石原さんもいたそうです。そういう難関を突破でき、この日を迎えることができたことを、とても誇らしく、嬉しく思っていました。
監督さんから助監督の仕事は、どのスタッフの仕事にもあてはまらない用事を処理することだと言われました。いろいろありました。弁当やお茶を配ったり、機嫌の悪くなった女優さんをおだてたり、監督さんもときには怒鳴りたいときがあるので、その怒鳴られ役になったり、撮影の見物人にもう少しうしろに下がってください、とか、ありとあらゆる雑用をやりました。山田さんは、こういう仕事をやっている中で、映画監督という仕事は、俳優やスタッフの人たちの人間関係をじょうずにつくっていくことが、なによりも重要であることを知るようになります。
もちろん演出についても、勉強しますが、新米の頃はわからないことばかりでした。あの人は芸がうまい、とよく聞きますので、どこがうまいのか、その人に尋ねますと、うまいからよくない、一流になれないと言います、ますます山田さんは、分からなくなります。「芝居が書けていない」これも分かりませんでした。また、ある監督が、映画の一場面のテスト映写のとき、せりふの音が十分出ていないと、皆の前で録音技師を責めました。あとで、その技師は居酒屋で、山田さんにこう言います。聞こえないのは、演出が悪いからだ、演出がよければ、聞けない声も聞こえる、無声映画でも声のない声がよく聞こえるじゃないか、俺は言い訳はしないが、このことは君も覚えておけ、その言葉が若い山田さんの心に染みました。
また、こんなこともありました。ある監督が、ある場面のカメラポジションに悩んでいました。誰が見ても最適な位置と思いましたので、山田さんはその理由を尋ねました。「このポジションだと、あの右の階段が写らないんだよな、あの階段は、小道具さんが時間をかけて、こってつくっているんだ、それが、このアングルでは入らないんだ、どうしたらそれを入れられるか、考えているんだ」。監督はこういう心遣いも必要なんだ、ということを山田さんは心にしっかり刻んだのでした。
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すでにお気づきのように、「山田さん」とは寅さんシリーズで有名な山田洋次監督のことです。昨日、鎌倉商工会議所青年部主催で、鎌倉女子大の講堂で開催された、山田監督の講演「鎌倉と私」をもとにちょっと脚色して紹介してみました。私は寅さんシリーズはもちろんのこと、幸せの黄色いハンカチ、遙かなる山の呼び声、キネマの天地、など山田監督の作品はほとんど観ている監督のファンです。今回、直接お話をお伺いして、話しぶりやその内容から、まるで寅さんのように、心の温かい人だということがよく分かりました。ますますファンになりました。
・・・・・
次回は、ポスト修行時代を紹介したいと思います。
山田さんは、松竹の助監督試験に合格し、その日、大船撮影所に採用手続きにきたのでした。当時、映画産業は全盛期でしたから、俳優さんは、もちろんのこと、映画監督になりたいという人もたくさんいました。わずか6人の助監督の募集に3000人もの応募がありました。山田さんがあとで聞いた話ですが、この試験に落ちた人の中に、のちに有名作家となられた五木寛之さんや遠藤周作さん、そして、今、都知事をしていばっている石原さんもいたそうです。そういう難関を突破でき、この日を迎えることができたことを、とても誇らしく、嬉しく思っていました。
監督さんから助監督の仕事は、どのスタッフの仕事にもあてはまらない用事を処理することだと言われました。いろいろありました。弁当やお茶を配ったり、機嫌の悪くなった女優さんをおだてたり、監督さんもときには怒鳴りたいときがあるので、その怒鳴られ役になったり、撮影の見物人にもう少しうしろに下がってください、とか、ありとあらゆる雑用をやりました。山田さんは、こういう仕事をやっている中で、映画監督という仕事は、俳優やスタッフの人たちの人間関係をじょうずにつくっていくことが、なによりも重要であることを知るようになります。
もちろん演出についても、勉強しますが、新米の頃はわからないことばかりでした。あの人は芸がうまい、とよく聞きますので、どこがうまいのか、その人に尋ねますと、うまいからよくない、一流になれないと言います、ますます山田さんは、分からなくなります。「芝居が書けていない」これも分かりませんでした。また、ある監督が、映画の一場面のテスト映写のとき、せりふの音が十分出ていないと、皆の前で録音技師を責めました。あとで、その技師は居酒屋で、山田さんにこう言います。聞こえないのは、演出が悪いからだ、演出がよければ、聞けない声も聞こえる、無声映画でも声のない声がよく聞こえるじゃないか、俺は言い訳はしないが、このことは君も覚えておけ、その言葉が若い山田さんの心に染みました。
また、こんなこともありました。ある監督が、ある場面のカメラポジションに悩んでいました。誰が見ても最適な位置と思いましたので、山田さんはその理由を尋ねました。「このポジションだと、あの右の階段が写らないんだよな、あの階段は、小道具さんが時間をかけて、こってつくっているんだ、それが、このアングルでは入らないんだ、どうしたらそれを入れられるか、考えているんだ」。監督はこういう心遣いも必要なんだ、ということを山田さんは心にしっかり刻んだのでした。
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すでにお気づきのように、「山田さん」とは寅さんシリーズで有名な山田洋次監督のことです。昨日、鎌倉商工会議所青年部主催で、鎌倉女子大の講堂で開催された、山田監督の講演「鎌倉と私」をもとにちょっと脚色して紹介してみました。私は寅さんシリーズはもちろんのこと、幸せの黄色いハンカチ、遙かなる山の呼び声、キネマの天地、など山田監督の作品はほとんど観ている監督のファンです。今回、直接お話をお伺いして、話しぶりやその内容から、まるで寅さんのように、心の温かい人だということがよく分かりました。ますますファンになりました。
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次回は、ポスト修行時代を紹介したいと思います。