昨日は、ぽかぽか陽気の,春のような日でした。空気も澄んでいて、これなら富士山もきれいにみえるだろうと、大船からモノレールで江ノ島に向かいました。江ノ島に渡る橋の上から、予想したとおりの、流れるような稜線の美しい真っ白な富士をみることが出来ました。ただ、前景の湘南海岸の海が、前日の大雨のせいか、濁流のような土色で、おまけに荒い波が打ち寄せていました。やはり、富士には青い静かな海が似合うようです。
別のアングルでも見てみたいと、江ノ電に乗って、稲村ヶ崎に向かいました。素晴らしい光景が待っていました。やわらかな曲線の七里ヶ浜に区切られた海の向こうに、緑の江ノ島が浮かんでいるように見えます。そして、その右側には雪に覆われた富士の嶺が、箱根や丹沢の山々を従えながら、ひかり輝いています。ここから見る、江ノ島と富士山の位置関係が、構図的にちょうど良く納まっています。鎌倉○景(数字は忘れました)に入るはずですね。冨士の頭に少し雲がかかり、それが厚くなったり、薄くなったり、途切れたり、と、短時間に変幻自在に動くのが面白くて、ずいぶん長い時間、目が冨士に釘付けになっていました。
ここ稲村ヶ崎は、ほんとに小さな岬ですが、ここにまつわる歴史を語る石碑がいくつもあります。入り口付近には、「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」という石碑とそれに関連した明治天皇の歌碑が建っています。先日の由紀さおりさんのデナーショーの中でも歌われた唱歌「かまくら」の中にも出てきます・・・七里ヶ浜の磯ずたい 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜじ 古戦場・・・。
そして、海側には、あの逗子開成中学生のボート遭難を語る碑とブロンズ像が、建っています。明治43年(1910)1月23日のことでした。その日は、寒く、風もありましたが、生徒たちは、予定通り逗子と江ノ島の往復航海を実行に移したのでした。江ノ島までは無事の航海でしたが、帰りの航路で、七里ヶ浜にさしかかったときに、突風がきて遭難します。懸命の救助活動にもかかわらず、12名の犠牲者が出てしまいました。その中で、とくに涙を誘った遺体がありました、小学生の弟をしっかり抱きしめていた中学生の姿でした。ここに建っているブロンズ像は、弟を抱いて、手を振り、必死に助けを求めている姿です。「真白き富士の嶺」は、私達の世代では誰でも知っている唱歌です。以前、ここを訪れた修学旅行生は、この像の前で、必ずこの歌を歌ったそうです。今の子は、この遭難事件のことを知っているのでしょうか。
丘の上に登ると、コッホ博士の記念碑がありました。なつかしいです。学生時代、「微生物の狩人」が好きで、わくわくして読みましたが、とくに、パスツールとコッホのところは、何度も読みかえしたものでした。パスツールが動の人なら、コッホは静の人という印象でした。この二人は、微生物学界の両横綱といったところです。コッホは結核菌やコレラ菌の発見で有名ですが、近代細菌学の基礎をつくった大先生です。明治41年に、お弟子さんだった北里柴三郎博士が日本に招待し、その時、一緒に鎌倉も見物しました。コッホは、このあたりから見た富士山をとても気に入られたようです。
こちらに引っ越してきてから、はじめてこの岬を訪れました。春風のような浜風に吹かれながら、富士山と江ノ島と七里ヶ浜と青空、の素晴らしい景観を堪能しました。そして、同時に、過去のいくさ、悲話、大博士のことなどに思いを馳せ、いつまでも、いつまでも佇んでいました。
志賀直哉の名作「城の崎にて」をまねて、このタイトルを「稲村ヶ崎にて 」としゃれてみました。でもこれでは、かっこつけすぎですね、やっぱり「真白き富士の嶺」あたりが無難でしょうか。それとも、「ひま親父のお富士さん追っかけ日誌、稲村ヶ崎編」ぐらいが妥当なところでしょうか。ご判断を仰ぎたいと思います。
・・・・・・・・・・・・
真白き富士の嶺
作詞 三角錫子
作曲 ガードン
真白き富士の嶺 緑の江ノ島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に
捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も波も 小さき腕に
力も尽き果て 呼ぶ名は父母
恨みは深し 七里ヶ浜
別のアングルでも見てみたいと、江ノ電に乗って、稲村ヶ崎に向かいました。素晴らしい光景が待っていました。やわらかな曲線の七里ヶ浜に区切られた海の向こうに、緑の江ノ島が浮かんでいるように見えます。そして、その右側には雪に覆われた富士の嶺が、箱根や丹沢の山々を従えながら、ひかり輝いています。ここから見る、江ノ島と富士山の位置関係が、構図的にちょうど良く納まっています。鎌倉○景(数字は忘れました)に入るはずですね。冨士の頭に少し雲がかかり、それが厚くなったり、薄くなったり、途切れたり、と、短時間に変幻自在に動くのが面白くて、ずいぶん長い時間、目が冨士に釘付けになっていました。
ここ稲村ヶ崎は、ほんとに小さな岬ですが、ここにまつわる歴史を語る石碑がいくつもあります。入り口付近には、「稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」という石碑とそれに関連した明治天皇の歌碑が建っています。先日の由紀さおりさんのデナーショーの中でも歌われた唱歌「かまくら」の中にも出てきます・・・七里ヶ浜の磯ずたい 稲村ヶ崎 名将の剣投ぜじ 古戦場・・・。
そして、海側には、あの逗子開成中学生のボート遭難を語る碑とブロンズ像が、建っています。明治43年(1910)1月23日のことでした。その日は、寒く、風もありましたが、生徒たちは、予定通り逗子と江ノ島の往復航海を実行に移したのでした。江ノ島までは無事の航海でしたが、帰りの航路で、七里ヶ浜にさしかかったときに、突風がきて遭難します。懸命の救助活動にもかかわらず、12名の犠牲者が出てしまいました。その中で、とくに涙を誘った遺体がありました、小学生の弟をしっかり抱きしめていた中学生の姿でした。ここに建っているブロンズ像は、弟を抱いて、手を振り、必死に助けを求めている姿です。「真白き富士の嶺」は、私達の世代では誰でも知っている唱歌です。以前、ここを訪れた修学旅行生は、この像の前で、必ずこの歌を歌ったそうです。今の子は、この遭難事件のことを知っているのでしょうか。
丘の上に登ると、コッホ博士の記念碑がありました。なつかしいです。学生時代、「微生物の狩人」が好きで、わくわくして読みましたが、とくに、パスツールとコッホのところは、何度も読みかえしたものでした。パスツールが動の人なら、コッホは静の人という印象でした。この二人は、微生物学界の両横綱といったところです。コッホは結核菌やコレラ菌の発見で有名ですが、近代細菌学の基礎をつくった大先生です。明治41年に、お弟子さんだった北里柴三郎博士が日本に招待し、その時、一緒に鎌倉も見物しました。コッホは、このあたりから見た富士山をとても気に入られたようです。
こちらに引っ越してきてから、はじめてこの岬を訪れました。春風のような浜風に吹かれながら、富士山と江ノ島と七里ヶ浜と青空、の素晴らしい景観を堪能しました。そして、同時に、過去のいくさ、悲話、大博士のことなどに思いを馳せ、いつまでも、いつまでも佇んでいました。
志賀直哉の名作「城の崎にて」をまねて、このタイトルを「稲村ヶ崎にて 」としゃれてみました。でもこれでは、かっこつけすぎですね、やっぱり「真白き富士の嶺」あたりが無難でしょうか。それとも、「ひま親父のお富士さん追っかけ日誌、稲村ヶ崎編」ぐらいが妥当なところでしょうか。ご判断を仰ぎたいと思います。
・・・・・・・・・・・・
真白き富士の嶺
作詞 三角錫子
作曲 ガードン
真白き富士の嶺 緑の江ノ島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に
捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋の海原
風も波も 小さき腕に
力も尽き果て 呼ぶ名は父母
恨みは深し 七里ヶ浜