数日前、吉野の桜と西行について記事にしましたが、その翌日は連想ゲームのように、大磯の鴫立庵のことを紹介しました。まだその連想ゲームが断ち切れず、今日も西行の話題になってしまいました。
西行が鎌倉を訪れたときに、頼朝に銀製の猫を贈り物としてもらいましたが、それを遊んでいる子供にあげてしまったという有名な話があります。今日ふと、その季節はいつだったのだろうか、と気になって調べてみました。もし今頃の時期なら、当時の鎌倉の山々の山桜を観ていたかもしれないと思ったのです。
「吾妻鏡」という史書は、いうなれば鎌倉幕府の日記帳です。その日に起こった事件や出来事をこまめに記載していますので、それを調べれば簡単に分るのです。
今頃ではありませんでした、夏の暑い盛りでした。よくよく考えてみれば、今頃に西行が鎌倉に来るわけがないですね。吉野山に籠もって、桜三昧のはずですね。文治2年(1186)の8月15日の終戦記念日(笑)に鎌倉を訪れています。以下にその幕府日記帳を要約してみます。
「頼朝が鶴岡八幡宮の参拝の帰路、路上で徘徊している一人の老僧をみつけました。名を聞くと、あの西行法師だといいます。頼朝は法師を屋敷に招き、夜中まで歓談しました。兵法と歌の道について教えを請いますが、法師は出家したときに家伝の兵法書も捨て、今はそういう知識はない、また歌の奥義などというものもない、ただ、心に感ずるまま、31字に書き連ねるだけ、とすげなく答えました」
そして翌日の日記帳です。「西行法師は、引き留められましたが、それには応じず、退出しました。頼朝は銀製の猫を贈り物として西行に与えましたが、門を出るとすぐに、通りで遊んでいた童子にそれを与えて、すたすたと去って行ってしまいました。西行法師の今回の旅は、重源上人の願いにより、東大寺の再建勧請のために奥州に向かうためだということで、その途中で八幡宮に寄られたとのことです。ちなみに西行法師は陸奥守秀衡公の一族です」
この文章だけだと、西行が頼朝に会った理由がよく分りませんが、ほかの本によると、西行は奥州の秀衡に貢金をお願いに行くのですが、その邪魔をしないでくれというお願いに行ったのだそうです。そしてその保証の確約がとれ、10月には秀衡からの砂金450両が無事京に到着したのです。西行にとっては、始めから、銀の猫はたいして意味がなかったのです。
私は、別の観点から、西行の行動をブンセキしてみました。15日の頼朝に対する、西行のすげない応対や、翌日、これ見よがしに(結局分って日記に書かれるほどですから)せっかくの高価なおみやげを子供にあげてしまう、こういう行動は明らかに頼朝を嫌っている証拠です。
頼朝を嫌っていた理由はすぐ分りました。「吾妻鏡」という日記帳をめくっていると、この文治2年に、こんな事件が起きているのです。4月8日に”静の舞”が八幡宮の舞殿で行われています。”しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな 吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき”と義経を慕って歌い、頼朝の怒りを買い、静御前は幽閉されます。そして、7月29日、静御前、男子を出産しますが、その子は将来の争いの種になるという理由で由比ヶ浜に沈められます。
西行が訪れたのは、その2週間後となります。当然、そういう情報は耳に入っていたでしょう。それ以前にも、平家追討に功績のあった人気者の義経に冷たい仕打ちをしている情報ももちろん耳にしているでしょう。こんな冷酷非情な頼朝を良く思うはずがありませんね。
所期の目的を達した西行は、苦々しい思いを抱き、さっさと鎌倉をあとにしたのだと思います。鎌倉市民としては、西行さんに、大磯の”鴫立つ澤”のような名歌を残して欲しかったですが、当時の鎌倉には、そんな歌を詠む雰囲気はなかったのでしょう。
・・・・・
写真は、佐助川に架かる「裁許橋(さいきょばし)」です。付近に幕府の門注所があり、訴訟を裁許(判決)したことから名付けられという伝えがあります。門注所は、現在の鎌倉市役所と御成小学校の辺りにあったようです。一方、むかしは西行橋(さいぎょうばし)だったのが、「さいきょばし」になったという伝えもあります。この橋で頼朝に呼び止められ、名を尋ねられたというのです。八幡様にお参りし、門注所に寄って出てきたときに西行をみかけた、この説の方が面白くていいですね。
私はもちろん、誰がなんと言っても、”西行橋”ですよ。今日も鎌倉図書館の帰り道に”西行橋”に寄って、西行さんと話してきましたよ。ただ、橋のかかっている”今小路”は、鎌倉時代と同様、今も結構賑い、車も多く橋の上でゆっくりできないのが、ちょっと残念ですね。
西行が鎌倉を訪れたときに、頼朝に銀製の猫を贈り物としてもらいましたが、それを遊んでいる子供にあげてしまったという有名な話があります。今日ふと、その季節はいつだったのだろうか、と気になって調べてみました。もし今頃の時期なら、当時の鎌倉の山々の山桜を観ていたかもしれないと思ったのです。
「吾妻鏡」という史書は、いうなれば鎌倉幕府の日記帳です。その日に起こった事件や出来事をこまめに記載していますので、それを調べれば簡単に分るのです。
今頃ではありませんでした、夏の暑い盛りでした。よくよく考えてみれば、今頃に西行が鎌倉に来るわけがないですね。吉野山に籠もって、桜三昧のはずですね。文治2年(1186)の8月15日の終戦記念日(笑)に鎌倉を訪れています。以下にその幕府日記帳を要約してみます。
「頼朝が鶴岡八幡宮の参拝の帰路、路上で徘徊している一人の老僧をみつけました。名を聞くと、あの西行法師だといいます。頼朝は法師を屋敷に招き、夜中まで歓談しました。兵法と歌の道について教えを請いますが、法師は出家したときに家伝の兵法書も捨て、今はそういう知識はない、また歌の奥義などというものもない、ただ、心に感ずるまま、31字に書き連ねるだけ、とすげなく答えました」
そして翌日の日記帳です。「西行法師は、引き留められましたが、それには応じず、退出しました。頼朝は銀製の猫を贈り物として西行に与えましたが、門を出るとすぐに、通りで遊んでいた童子にそれを与えて、すたすたと去って行ってしまいました。西行法師の今回の旅は、重源上人の願いにより、東大寺の再建勧請のために奥州に向かうためだということで、その途中で八幡宮に寄られたとのことです。ちなみに西行法師は陸奥守秀衡公の一族です」
この文章だけだと、西行が頼朝に会った理由がよく分りませんが、ほかの本によると、西行は奥州の秀衡に貢金をお願いに行くのですが、その邪魔をしないでくれというお願いに行ったのだそうです。そしてその保証の確約がとれ、10月には秀衡からの砂金450両が無事京に到着したのです。西行にとっては、始めから、銀の猫はたいして意味がなかったのです。
私は、別の観点から、西行の行動をブンセキしてみました。15日の頼朝に対する、西行のすげない応対や、翌日、これ見よがしに(結局分って日記に書かれるほどですから)せっかくの高価なおみやげを子供にあげてしまう、こういう行動は明らかに頼朝を嫌っている証拠です。
頼朝を嫌っていた理由はすぐ分りました。「吾妻鏡」という日記帳をめくっていると、この文治2年に、こんな事件が起きているのです。4月8日に”静の舞”が八幡宮の舞殿で行われています。”しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな 吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき”と義経を慕って歌い、頼朝の怒りを買い、静御前は幽閉されます。そして、7月29日、静御前、男子を出産しますが、その子は将来の争いの種になるという理由で由比ヶ浜に沈められます。
西行が訪れたのは、その2週間後となります。当然、そういう情報は耳に入っていたでしょう。それ以前にも、平家追討に功績のあった人気者の義経に冷たい仕打ちをしている情報ももちろん耳にしているでしょう。こんな冷酷非情な頼朝を良く思うはずがありませんね。
所期の目的を達した西行は、苦々しい思いを抱き、さっさと鎌倉をあとにしたのだと思います。鎌倉市民としては、西行さんに、大磯の”鴫立つ澤”のような名歌を残して欲しかったですが、当時の鎌倉には、そんな歌を詠む雰囲気はなかったのでしょう。
・・・・・
写真は、佐助川に架かる「裁許橋(さいきょばし)」です。付近に幕府の門注所があり、訴訟を裁許(判決)したことから名付けられという伝えがあります。門注所は、現在の鎌倉市役所と御成小学校の辺りにあったようです。一方、むかしは西行橋(さいぎょうばし)だったのが、「さいきょばし」になったという伝えもあります。この橋で頼朝に呼び止められ、名を尋ねられたというのです。八幡様にお参りし、門注所に寄って出てきたときに西行をみかけた、この説の方が面白くていいですね。
私はもちろん、誰がなんと言っても、”西行橋”ですよ。今日も鎌倉図書館の帰り道に”西行橋”に寄って、西行さんと話してきましたよ。ただ、橋のかかっている”今小路”は、鎌倉時代と同様、今も結構賑い、車も多く橋の上でゆっくりできないのが、ちょっと残念ですね。