気ままに

大船での気ままな生活日誌

妙本寺の海棠に想う

2007-04-13 09:33:40 | Weblog
写真をごらんください。私は鎌倉比企が谷の、妙本寺の本堂の数段の石段を上がりきったところに座っています。そして、柵に囲まれた、もう盛りを過ぎて、はらはらとピンクの花びらを散らしている海棠をみています。もう手前の八重桜が、そろそろ見頃を迎えようかとしています。

もう、7~80年前に、小林秀雄と中原中也が、ここに座って、あの海棠をみていました。でもこの、今の海棠ではないことは、小林の「中原中也の思い出」から知ることができます。小林は、中也が亡くなったあとも、中也と一緒にみた、ここの名木を毎春のようにみにきています。ある年、例年になく見事な、でも少し小ぶりな、華やかなピンクの花を枝という枝に余すことなく、つけたそうです。それはそれは名木に恥じない見事なものだったそうです。ところが、翌年、突然、枯死してしまったそうです。あれが死に花だったかと小林は述懐しています。今、私がみている海棠は、その名木の子供なのです。でも同じ場所で、名木の命をつないでいます。

小林が中也の”情人”を奪い、その後、彼女と同棲生活に入りましたが、彼女に振り回され、うまくいかず、小林も中也も苦難の日々を送ります。月日が流れ、互いに別の女性と結婚し、落ち着いた、8年後にここで、久し振りの再会をしているのです。

ふたりは、名木の海棠の花の散るのを黙ってみていました、ちょうど今頃でしょうか。「花びらは死んだような空気の中を、まっすぐに間断なく、落ちていく・・あれは散るのではない、散らしているのだ、ひらひら、ひらひらと散らすのだ。きっと順序と速度も決めているに違いない」などと思いながら、小林はうす紅色の花びらの散りゆくさまを見つめていました。中也が突然、もういいよと立ち上がります。何もしゃべりませんでしたが、でも、ふたりの間に、聞こえないことばが交わされました。この日がふたりの”和解”というか区切りの日だったのです。

そのあと、中也は昭和12年、30才の若さで夭折しますが、それまで小林は、同じ鎌倉に住む中也と家族ぐるみでつきあいます。また、中也の最もよき理解者となります。彼の死後、「夭折したが、彼は一流の叙情詩人であった、横文字詩集の影響を受けて詩人面した馬鹿野郎どもから、いろいろな事を言われながら、日本人らしい立派な詩をたくさん書いた・・時代病や政治病の患者が充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの叙情の深さが必要であったか、その見本のひとつを掲げておく」と雑誌「手帖」に追悼文を書いています。そして、「六月の雨」と題した、叙情的な詩を末尾に紹介しています。中也は未発表の詩を小林に預けてなくなりました。小林の尽力で、のちにそれらは、詩集「在りし日の歌」として発刊されたのでした。

私は海棠の見頃には、必ず海蔵寺とこのお寺を訪れます。今年は、帯状疱疹という思いがけない病にかかり、しばらく歩けず、見頃を逸してしまいました。でも、おかげで、小林と中也がみた、薄紅色の花びらがはらはらと散る時期に訪れることができました。それと、ちょっと、付け加えておきますが、家に帰って、小林秀雄さんの本を読み直してみましたら、ふたりが座っていたのは、アップした写真の、左下にちょこんとある、石の上でした。右の方にも同じような石がありますので、それぞれの石に、右近の桜、左近の橘のように座っていたのでしょうね。

・・・
帰りに寄った、駅裏口の本屋さんで、雑誌”太陽”が、中原中也生誕100年記念特集号を出しているのを知りました。

コメント
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