気ままに

大船での気ままな生活日誌

弘前の武家屋敷

2011-05-11 08:46:23 | Weblog

弘前城は築城400年を迎えている。北辺の外様大名にすぎない津軽氏が4万7千石という家格をはるかに超えた、10万石クラスの城を築いたのか(築けたのか)、それにはこんなわけがある。以下は東北新幹線の座席の前にあったトランベール4月号から仕入れた情報である。

戦国末期、北奥羽の広大な地を治めていたのは南部氏であったが、内乱に乗じ、(初代)津軽為信が謀略をめぐらし闘い、津軽を支配下においた。機をみるにも敏で、時の権力者、家康に近づき地盤を固めた。為信は、蝦夷地の脅威をあおり、北の守りの要として築城の重要性を訴えていた。城は二代目、信牧(のぶひら)のとき、1611年に完成するが、そのすぐあと、家康の養女、満天姫(まてひめ)が御輿入れする。家康公認の築城だったのだ。

現在も、その城下町の面影を辿ることができる。北門の亀甲門が当時の表門(追手門、現在は反対側にある)で、藩の重臣たちはこの周辺に住んだ。仲町の入り口に、元武家屋敷の、大きな石場家住宅がすぐ目に入る。その横から、”武家屋敷町”に入るが、屋敷の地割りは当時のままだそうだ。サワラの生垣も江戸時代からそうだったとのことだ。新たに建てられた家も、武家門、黒塀にしたりして風情を残している。岩木山も望める。

この一画に、移築したものを含め、三つの武家屋敷が保存してある。町内の西端に、藩医をつとめた旧伊東家と旧梅田家が並んでいる。築約200年の旧岩田家は、ここから5、6分ほど歩いた東端にある。そこでは、当時の生活用品が展示されている邸内も見学できる。庭では家庭菜園などもやっていたらしい。慎ましい藩士の生活がうかがわれる。

弘前は三度目だが、はじめて、ここを訪れた。そのあと、寺町や洋館を巡ることになるのだが、これまで、桜ばかりに目を奪われていたことを、弘前の町にあやまりたい気持ちになった。

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石場家住宅

侍町の町並


旧梅田家

旧岩田家

 

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