ぼくは岡本太郎はしばらく食わず嫌いでいた。数年前、茅ヶ崎市立美術館で”岡本太郎のまなざし&湘南の原始美術展”を観てから、好意をもつようになった。彼が縄文土器や土偶などに惹かれ、これこそ原始芸術だと、ご自身で撮られた写真も展示されてあったからだ。ぼくも、考古学フアンでもあるから、共感を憶えたのだった。
だから、彼の作品の、大阪万博の”太陽の塔”をはじめ、多くのオブジェは好きである。よくみれば土偶風であり、原始芸術と繋がっているような気がするのだ。ただ、抽象的な絵画は、ただ、ごてごてしていて、むしろニガテの部類に属していた。でも、ぼくも、この5年ほど、何でもみてやろう精神で、いろいろのジャンルのもの観ているうちに、以前では見向きもしなかったシュルレアリスムの絵もいいと思うようになっているから、理解の”基準値”はかなり下がってはきているのだ。
”生誕100年/岡本太郎展”を観て、これら、見向きもしなかった抽象絵画も、いいと思うのが、いくつも出てきた。今回の目玉のひとつでもある”明日への神話”。メキシコのホテルに依頼されて制作した大作(5.5メートルx30メートル)だが、事情によりホテルに飾られず、倉庫に眠っていたのが発見され、お里帰りしたという代物だ。現物は井の頭線渋谷駅とJRの連絡通路に飾られてあり(このあと、写真を撮りにいった;汗)、ここではその最終下絵が展示されている。第五福竜丸の被曝事件をテーマにしている。中央に巨大な骸骨、そして焼かれる人々。核の脅威を主題とした”燃える人”もその近くに展示されていた。もしご存命なら、今回のフクシマ原発には、目を剥いて激怒されたことだろう。平和の仮面をつけた、実は悪魔の核施設である原発は許されるべきではない。自然災害だけでなく、テロ、戦争も”想定外”にしているのだろうか。人類はそんな”高等な”動物ではありません!。
そして”反世界”。ぼくはこの言葉をきくと、天文学や物理学に関心をもっていた高校生時代をなつかしく思い出す。当時、ぼくらの世界とは、反対の、反物質からつくられる”反世界”が存在し、反物質からできた反自分もいるという仮説は、とてもロマンチックで、魅力的だった。岡本太郎もこの説を知っている。あらゆる存在が目にみえ、手にふれるだけの存在なら空しい。その裏側に強力にそれを支え、また引き合うアンチの要素がなければ空しい。日常の裏側に潜む、もうひとつの世界を可視化する。まさに反世界をこじわけてのぞいてやろうというイメージの絵だった。
太陽の塔の内部もすさまじかった。40億年の地球のあゆみそして生命の進化。単細胞生物からはじまる巨大な生命の樹(系統樹)も太郎風にアレンジされて、輝いていた。ぼくらはこの系統樹の先っぽの小枝にとまっている儚い一生物にすぎない。おまえら、えらそうなこと言うな、と太郎もぼくも叫んだ(汗)。
岡本太郎は既存の芸術に対決して生涯、戦った。だから、この展覧会の、7章のテーマにすべて”対決”という言葉が入っている。
会場を出るときに、岡本太郎の”激しい”言葉の入った、くじをひいて、二コリと笑って、渋谷駅の連絡通路の”明日への神話”に向った。そして、その巨大な絵の前で、しばらく佇んでいた。
明日の神話
中央の骸骨部分