うつくしい横須賀・衣笠の藤と葉山のツツジ鑑賞に挟まれて、うつくしいとはいえない、むしろその対極の美術展を観てきた。神奈川近代美術館・葉山館で開催されている”立ちのぼる生命/宮崎進展”。
ぼくは宮崎進の作品を少なくとも意識して鑑賞したことはない。展覧会に入る時点で、ちらしも観ていなかったので、どんな絵を描く人なのか知らなかった。”立ちのぼる生命”というタイトルから、生命賛歌の、明るい絵を想像してしまうが、そうではない。第一会場から始まって、どの会場にも暗い色調の抽象画ばかりが並んでいる。それも、コーヒー豆が入っていたような古い麻袋をひきさいて、絵の中に混入させたような絵。いったい、なんていう絵だと、はじめは思う。
しかし、宮崎進のシベリア抑留体験がこの絵画表現の原点となっていることを知ってから、それぞれの絵が何かを訴えてくる。おぼろげながらも分かるようになる。彼の言葉が、最後のコーナーでパネル展示されている。何かを描くというより、ここにあるすべてが、私そのものである。私はうまく整理され、均衡をつくるより全体が何かを表現するような仕事をしたい。また、こんな言葉も。シベリアの悲惨な生活は写実的に描くことでは絶対に表現できない、そんな思いから、シミだらけのぼろ布のコラージュ手法をとったのだとも。
”花咲く大地”という作品が三点セットで並んでいる。はじめ画題をみる前は血の色かと思った。そうでなくて、花の色であった。シベリアの、鉄のように凍りついた大地に、春がくると、一斉に湧き出るように真っ赤な花が咲くのだという。生命なぞ、あるはずもないと思わせるような、こんな死んだような大地から。この震えるような嬉しさは、最少限の食料をもらい、過酷な強制労働の中、やっと生き抜いてきた者でなくては分からないという。そんな嬉しさが込められた絵なのだ。まさに”立ちのぼる生命”なのだ。
ぼくらのような平和ボケの世代では、十分、宮崎進の感じていることが伝わらないと思うが、たまには、こういう言葉に耳を澄まし、こういう絵に目をこらすことも必要だと思った。
。。。。。
花咲く大地
泥土(中国の荒涼とした大地)よくみると、悲惨な風景が浮かんでくる。2004年サンパウロ・ビエンナーレ出品作品。
頭部(炭のように塗られた木材で)
横たわる
1922年、徳山市に生まれ、現在は鎌倉のアトリエで仕事。1967年、安井曾太郎賞受賞。