こんにちわ。
2010年、平城遷都1300年で、奈良は沸き立っていた。そのとき、ぼくらは、2泊3日の旅行で正倉院展となんと南都七大寺を巡っている。あの頃、ぼくらは若かった(笑)。七大寺とは、法隆寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、薬師寺、そして大安寺である。
その名刹、大安寺の仏像さんがこぞって(でもないが)東博に来られている。特別企画として本館の11号室(仏像の部屋)で、楊柳観音菩薩立像等7体の仏像が展示されている。いずれも奈良時代(8世紀)制作の重要文化財である。ほかに弘法大師坐像、大安寺伽藍縁起并流記資財帳(複製)、飛鳥・奈良時代の瓦の出土品も並ぶ。
さて、大安寺とは。ぼくの日誌をひも解いてみると、こう書かれている。ここは、日本最古の寺のひとつで飛鳥時代に栄えたという。そして平城遷都に伴い、当地に移り、奈良時代筆頭寺院として、”仏教大学”的役割を果たしたという。鑑真を日本に呼んできた、普照や栄叡も大安寺の僧であった。現在は小さな規模になってしまっているが、南都七大寺に選ばれる名刹なのだ。
本展は写真撮影可能で、カタログ(冊子)もいただける。以下、マイ写真と大安寺のサイトも利用させてもらいながら、記録しておこう。
さらに付け加えると、国家によって造営された日本最初の国立寺院である。前身寺院は、国家の寺院のなかでも最も重要であることを意味する大官大寺という名で、その後、8世紀初めの平城京遷都に伴って現在の地に移され、やがて大安寺と呼ばれるようになった。中国、インド、ベトナムなどから来日した著名な僧侶たちが住んで教えを伝えるなど、国際色豊かな環境で多くの優秀な僧侶たちを育てた仏教研究の中心拠点として栄え、日本仏教の興隆に重要な役割を果たした(本展公式サイトより)。
では、仏像さんを拝観しましょう。すべて榧(かや)の一木造りで重要文化財。
玄関口に四天王立像のトップを飾るのがこれ。
多聞天立像(奈良時代・8世紀)頭に兜を、眉を逆立て、上歯で下唇を噛み、激しい忿怒の形相を示す姿は力強さにあふれている。左足を軸に、右膝を曲げて岩座に立ち動勢の強い像(大安寺サイトより、以下同様)
では、以下、ほかの四天王立像を。
持国天立像(奈良時代・8世紀)右手を上にかざし、左手を腰にあて、左に小首をかしげて岩座に直立。他の三像より像高も高く、顔は大ぶりで鼻も高く、目を少し瞋らし口を固く結んでいる。静的でしかも憂いをふくんだ表情。
増長天立像(奈良時代・8世紀)持国天と同様、真正面を向いて直立しているが、右膝にやや動きがある。顔は丸く、引き締まった表情で瞋目し、厚い肉付けをもつ両頬、一文字に結んだ口元など力強い忿怒相を示すが、むしろもの静かな感じを与える像。
広目天立像(奈良時代・8世紀)増長天に似て堂々たる体躯で、顔を少し右に向け、体を左に開いて身構えて岩座に立つ。口を開き、歯をあらわす忿怒相は他像にない特徴。全体の作りや腰から足にかけては増長天によく似ており、この両像は一連の作と考えられている。
居並ぶ四天王。入り口のガラスの向こうに1体。
そして、右側の壁には。
楊柳観音菩薩立像(奈良時代・8世紀) 手に柳の枝を執るので、こう呼ばれています。おそらく柳葉が風になびくように衆生の願いを聞きたまうということであると思われます。又、楊枝など口内を清浄にすることから、病魔の侵入を防ぎ健康を保つ。口業を清浄にする等の願いが込められてきた。着衣に彩色模様が残る。
聖観音立像(奈良時代・8世紀)聖観音は、いわゆる変化観音とは区別している。正観音ともいい、一般に観音といえばこの観音を指す。お顔はやや下つぼまりになっていて、静かな温容であり、いかにも聖観音と呼ぶのにふさわしい静謐な姿である。
一番奥におわします仏像さんは。
不空羂索観音菩薩立像(奈良時代・8世紀) 六観音の一つで、一般に三目六臂の形相だが、その他いろいろな異形の表現もある。本像は、頭上に高い単髷をつけ、丸い大きい顔に力強い慈眼を表し、高い鼻の下には引き締まった口もとを示している。体部には胸飾りもなければ、石帯も見られない。極めて簡素な像で、台座までを一材で彫り出している。
大安寺ではこのような配置。不空羂索観音が中心になっている。
ぼくが2010年に参拝したときには、平城遷都1300年記念として、本尊の十一面観音を特別公開していた。馬頭観音立像(重文)は秘仏で、3月のみ公開される。この二点はさすがに東博にはお出ましにはならなかった。
空海も若いとき、このお寺で学び、晩年には別当を務めたという。
弘法大師坐像(江戸時代、18世紀)
ほとんど忘れていた、仏像さんに再会できブラボーだった。
では、良い午後を。