おはようございます。
京都の智積院は紅葉のときに何度か訪ねていて、そのとき長谷川等伯一派の国宝・障壁画などを所蔵する宝物館も覗いている。それらが、今、六本木のサントリー美術館(1月22日閉幕)に来ているというので、はせ参じた。京都・智積院の名宝/抒情と荘厳(等伯プロデュース国宝障壁画一挙公開)という展覧会名である。
智積院というと長谷川等伯・久蔵父子の国宝の楓図と桜図。久蔵は桜図を描いたあと、24才の若さで夭折。等伯がそのあと楓図を描いた。東博の国宝・松林図屏風も久蔵亡きあとのもので、悲しい思いが描きこまれている。もちろん、本展でもこの楓図と桜図が並んで展示されている。撮影禁止なので、智積院での写真を載せたい。宝物館では撮影禁止だったが、楓図と桜図の精密復元図が、名勝庭園を望める部屋に置かれ、撮影が可能であったのだ。
また、先日、”ぶら美”で本展の紹介をしていたので、それらの映像も使わせていただいた。これで等伯プロデュース国宝障壁画一挙公開が可能となった(笑)。
本展の章立ては次のようになっている。
第1章 空海から智積院へ
第2章 桃山絵画の精華 長谷川派の障壁画
第3章 学山智山の仏教美術
第4章 東アジアの名品集う寺
第5章:智積院の名宝が結んだ美
やはり、第2章が本展の要であるので、ここを中心に記録しておきたい。作品の解説文は主として智積院のものを使わせていただいた。
第2章 桃山絵画の精華 長谷川派の障壁画
秀吉は天正19年(1591)に3歳で夭折した息子・鶴松(棄丸)の菩提寺として、京都・東山の地に祥雲禅寺を建立したが、長谷川等伯一門がここの障壁画を任された。のちに徳川政権の元で、智積院は祥雲禅寺の伽藍とともに障壁画群を拝領し、火災や盗難などを逃れ、今日まで守り伝えてきた。等伯一派によって描かれたこれら障壁画は、桃山時代を代表するものであるとともに、日本が世界に誇り得る第一級の絵画と評されている。
以下、智積院での写真。
楓図、桜図が並ぶ部屋。
国宝・楓図(長谷川等伯)「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げたといわれる。桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっぱいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されている。 息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる。等伯55歳の時の作品(智積院・解説)。
国宝・桜図(長谷川久蔵)金箔をふんだんに使った絢爛豪華な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現している。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようだ。久蔵が25歳の時の作といわれている。しかし、残念なことに久蔵はこの翌年亡くなる(智積院・解説)。
以下の写真は”ブラ美”のテレビ画像より。
国宝・松に黄蜀葵(とろろあおい)図(等伯)寺外初公開とのこと。高さ3メートルを超える巨大な障壁画、サントリー美術館でなくては飾れない。過去の火災等によって一部消失したために、襖絵から床貼付に改変されたもの。上段は別の襖絵を持ってきているという。
国宝・松に秋草図(等伯)左に芙蓉、右にムクゲの花、中央にすすき。
国宝・雪松図(等伯)つい江戸時代の丸山応挙の国宝・雪松図と比べてしまう。こちらの方は雪はずっとと少ない。
十六羅漢図屛風(等伯)1609(慶長14年)等伯の最晩年71歳の作。翌年没する。
長谷川一派がよく用いたモチーフがあちこちに描かれているという。羅漢さんの表情も豊か。
”智積院の名宝が結んだ美”というコーナーで堂本印象の障壁画が並ぶ。お寺の襖絵としてはずいぶん華やかで印象深い(笑)。原谷苑の枝垂れ桜を見に行ったとき、途中の立命館大学前の堂本印象美術館に立ち寄ったことがある。
婦女喫茶図(堂本印象)
松桜柳図(堂本印象)柳、桜など長谷川派を意識して作成したのではと山田五郎さんたちは言っていた。
以下各章の代表作を。
第1章 空海から智積院へ
弘法大師像一幅 室町時代 文安元年(1444)
第3章 学山智山の仏教美術
重要文化財・孔雀明王像 一幅 鎌倉時代 14世紀
国宝・金剛経(部分) 張即之 一帖 南宋時代 宝祐元年(1253)
第4章 東アジアの名品集う寺
第5章:智積院の名宝が結んだ美
あとは、ユーチューブで見てもらいましょう。
サントリー美術館「京都・智積院の名宝」
昨日の相撲(6日目)
貴景勝、全勝・阿炎をひきずり落とし1敗で並ぶ。今日は翠富士戦。
豊昇龍、翠富士に惜敗。今日は阿炎戦。佳境の中盤戦。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!