気ままに

大船での気ままな生活日誌

南禅寺界隈

2006-11-13 18:53:46 | Weblog
京都3日目は、荷物をホテルに預け、南禅寺方面に向かいました。南禅寺の天授庵の庭園のもみじがそろそろ、見頃かもしれないと思ったからです。4,5年前にワイフが、周囲の紅葉がまだ早い時期にそこを訪れたとき、見頃だったというのです。

平安神宮の前あたりまで、バスで行き、そこから歩きました。南禅寺に近づくと、豆腐料理のお店が目立ってきます。山形有朋の別邸だった、無りん庵というところに出ました。有朋自身が設計したという、池を中心としたすばらしい庭園があり、以前一度、入ったことがあります。今日は入らず、先に進みます。

えっ、ここだったけ、と思いました。「瓢亭」小さなの看板が目に入りました。創業が天保年間という老舗の懐石料理のお店です。私は一度だけ、20年も前になるでしょうか、利用したことがあるのです。京都の国際学会に来られた、アメリカの大学の先生方5人をご招待したのです。日本側は、先生方に以前お世話になった私を含め3名でした。10数種類のお料理が順々に出てきて、慣れない味にとまどい、まだ続くのという顔をしながら、それでも楽しそうに食べていらした姿が思い浮かびます。その先生方も現在はみな、リタイアされ、音信も不通になりました。時の流れを感じます。

南禅寺の山門には、修学旅行生がたむろしていました。周囲のもみじは、まだまだで、緑葉が優勢でした。お目当ての天授庵に入ってみました。たしかに、ワイフが言っていたように、三門近くの紅葉より、少し先を行っていました。大分色づいていました。赤あり、赤みの緑あり、緑あり、十人十色のもみじ葉もいいですね。広い庭園に、私ひとりです(ワイフは歩き疲れたと言って、山門のところで休んでいます)。こんなぜいたくあるでしょうか。もう10日も経てば、人人人でいっぱいになるはずです。

天授庵は今回、初めてですが、とてもすばらしい庭園だと思いました。日本庭園の良さをここに、全部詰め込んでしまったかのような印象です。方丈前の東庭は苔も配した枯山水の石庭で、背景にモミジが植えられています。方丈の縁台に座り、しばらく、無我の境地になり、お昼は何を食べようかなと考えます。

そこを離れ、南庭に入ります。南北朝時代の特徴をもつらしいです。大小の出島で輪郭に変化をもたせた池を見ながら、回遊路を進みます。色づいたモミジがあちこちで艶やかなこと、うしろの緑の竹林のすがすがしいこと、道ばたの幾種類もの苔の緑色のグラデーションのたおやかなこと、松の緑のさわやかなこと、滝の音の涼しげなこと ・・・本当によく作られている、目に優しい、耳にも軽やか、・・・ひょとすると、これを作った庭師は、五感で感じる庭をつくったのではないだろうか、という仮説が突如浮かんできました。

そうに違いない、と検証してみました。視覚は問題なく合格です。聴覚は今聞こえている滝の音、それに、竹林のさやさや、落ち葉のかさこそ、少し前では、秋の虫のりーんりーん、早朝には鳥のさえずりも聞こえるでしょう。十分合格です。次は触角です。回りを見渡し、触ってみます。まず足下の苔、ビロードのようで、うっとり。サルスベリの木、つるつるして気持ちいい。松の幹、ごわごわして刺激的。ぎざぎざの葉っぱの植物、ちくちくして痛がゆい。これだけ楽しめれば十分合格です。

次に嗅覚です。いろいろ匂いをかいでみました。松ヤニの香りが個性的、苔だって鼻を近づければ、かすかな香り(土の香りかな)。今はもう秋、花もいない庭です。でも、ちょっと前にはキンモクセイの花の香りがあったでしょう、春には、梅の花だって素敵な香りです。嗅覚もまあ合格と言っていいでしょう。

さて、問題は、味覚です。ナンテンの赤い実がみえました。実をかじってみました。甘くもなく、しょっぱくもなく、無味でした。でも、精進料理に馴染んだ方の舌には美味に感じるかもしれない、豆腐だって無味ではないでしょうか。お茶の木もあった、葉っぱを咬めば、お茶のかすかな味がするだろう、お茶の実はあめ玉代わりになめればいい、道に落ちている松ぼっくりやどんぐりだって、ちょっと咬めば、苦み走ったいい味かもしれない。それに春には、竹林にタケノコがある、生でだって食べられる、タケノコの皮に梅干しをはさんでなめたっていい、池の滝の水も味があるかもしれない、そう思ってなめてみた、枯れた味がした、上流に落葉がいっぱい浸かっていた。修行を積んだ人なら、養老乃瀧になるかもしれない、銘酒、上善水如だ。味覚もお情けの合格でしょうか。

やはり、この偉大な造園師は5感で味あう庭園を造っていたのでした。すごいです。満足して山門(本当は三門と書くのですが、それでは感じがでないので勝手に変えました)に戻りますと、ワイフは、のんきにいねむりをしていました。

ここから銀閣寺までの、疎水沿いの哲学の道を、ふたりで、高尚な話しをしながら、1時間ほどかけて歩きました。京都のおみやげは、満月の阿闍梨餅にするか、百万遍かぎやのときわ木にするかという高尚な議論のすえ、結局、ばらの阿闍梨餅を5個買うことに決定しました。私は別に、伏見の月桂冠の五合瓶を1本買いました。




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正倉院展

2006-11-12 11:18:09 | Weblog
京都のホテルを早く出て、奈良国立博物館に9時半前には着きました。この時間ですと、並ばずに入れました。去年は失敗しましたので、早起きしたのです。

春の二月堂のお水とりと並んで、秋の正倉院展は奈良の二代行事のひとつになっています。8世紀の中頃の宝物が、同じ倉の中で今日まで保存され続けているのは、世界でも正倉院だけだそうです。9000点にも及ぶ宝物の中の一部を毎年、奈良国立博物館で展示しているのです。今年の第58回展では、68点の宝物が展示されました。1250年も前の宝物はどれも、光り輝いていますが、ここでは全部を紹介することが出来ませんので、私の好みで、数点選んでみました。

七条刺納樹皮色袈裟:
聖武天皇が仏門に入られたときに身につけた袈裟です。まず、緑、茶、紫、赤、青、黄などのいろいろな形の絹の平布を重ね縫いをして7枚の長方形の布をつくります。それらをつなぎ合わせて袈裟にしたものです。全体の色合いが、とても気に入りました。落ち着いた茶色系をベースに、しぶい緑色の布が効果的に配されています。回りの縁取りは茶色の帯状の布でしたが、その布にも細かい模様がていねいに入れてありました。うしろで、これはパッチワークじゃない?、とか、細かいていねいな縫い目だ、とかの声が聞こえました。専門の人がみるとまた違う見方があるでしょう。

緑瑠璃十二曲長杯:
まず色が気にいりました。あざやかな緑色が輝いていました。いつまでも、みとれていたい色です。長径が20cmぐらい、短径が10cm程度の盃で、ふちに12のカーブ(十二曲)がみられます。よくみると、うさぎの模様が彫られています。

磁皿(二彩の皿):
35cmぐらいの大皿で、深緑と白の模様が気に入りました。中央の卍の緑の模様も面白いです。これに、相模湾の地魚お刺身盛り合わせを5人分くらい載せ、これをつまみに、前述の緑瑠璃十二曲長杯に並々ついだ、新潟銘酒、上善如水をいただきたいと不謹慎なことを想像しました。

ここまで書いてきて、私のお気に入りは、どうも特定の色に引き寄せられていることに気づきました。緑色系です。たしかに緑は好きです。うちの絨毯もカーテンも緑系ですし、愛用の座椅子(茶色のソファーには座らず、マンションに移ってからもこれ専門です)の色も緑です。そういえば、元キャスターの鎌倉山にお住まいの宮崎緑さんも好きです。トークショーにも行き、彼女が「私の好きな標語があります。鎌倉の緑を大切にしましょう、です」と言ったので、最近、鎌倉の風致保存にも関心を持ち始めました。

献物を、納める箱、のせる台、包む風呂敷みたいなもの、すべてが、それぞれ、ていねいに、心をこめて、作られているのには驚きました。ひとつひとつが、第一級の芸術品でした。

正倉院には、古文書も1万点ぐらいあるそうです。展示物の中では、日本最古の戸籍というのがありました。大宝2年のもので、なにかの文書の裏に書かれていました。当時は紙が大切だったのですね。名前、年齢、間柄などがきれいな文字で書かれていました。

「初出場」と赤い文字で書かれたカードが前に置いてある、展示品も時々、見ました。そういう宝物は嬉しそうな、恥ずかしそうな顔をしていました。正倉院の1万点近い宝物歌手にとっては、毎年の正倉院展出場は、紅白歌合戦に出場するようなものなのですね。連続何回出場とかいうカードも置いてもらえると面白いですね。正倉院の五木ひろし(連続出場)とか、小林幸子(どはで)とか、沢田研二(人気者のカムバック)とかの、あだ名がつき親しまれるかもしれませんね。

とても楽しい正倉院展でした。

ーーーーーーーーーー

午後は奈良公演を散歩しました。結構赤い紅葉が目立ちました。ナンキンハゼがたくさんあり、それが早々紅葉しているのです。奈良に来ると必ず立ち寄る、三月堂の仏像さんたちも拝観しました。16体もの国宝、重文の仏像がある中でも、月光菩薩が一番好きで、いつも、80%ぐらいの視線をそちらに向けています。

本物の正倉院もこの時期は、近くで見られるので、そこも見学していきました。建物自身もとても風格がありました。来年もまた、来ますね、と言って別れました。


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京都散歩は面白い

2006-11-11 17:59:20 | Weblog
2泊3日で京都に行ってきました。主な目的は、奈良の正倉院展の見学なのですが、泊りは、やはり京都にしました。京都駅から奈良まで、近鉄特急で30分で行きますので、京都泊で十分なのです。

小田原から、ひかりに乗って京都駅に到着したのは、お昼ちょっと前でした。駅構内の老舗「松葉」の出店でニシン蕎麦を食べました。甘いニシンの棒煮を咬み、蕎麦を絡ませごくんと飲み込むと、ああ京都に来たなという感じがします。荷物もあるので、すぐ宿泊先にバスで向かいます。鴨川沿いにある、荒神橋近くのお気に入りのホテルです。荷物を預けて、早速、夕方まで散歩に出かけます。

ホテルの庭から直接、鴨川の河原に出ると、そこは車と人でいっぱいの町なかとは一線を画する、京都のやさしい自然が目の前に広がっていました。河原は広々とどこまでも続き、開放感があります。優しく、穏やかに流れる川の浅瀬には、白さぎが十数羽ゆったりとたむろし、その少し先の流れには鴨の群れが気持ちよさそうに浮かんでいます。向こう岸の川端通りの桜並木は桜もみじで染まり、その先の京大キャンパスのバックには東山三十六峰がなだらかな稜線で連なっています。その中に大文字焼きの山もみえます。川の上流の方に目をやると、遠くに幾重もの山並みが、まるで東山魁夷の日本画のようにほのぼのとした山影をみせています。

ふたりで川辺を三条大橋に向かって歩き始めます。まるで夏みたいな気候です。小夏日和と言いたいくらいです。次の橋のたもとに、「女紅場跡」の石碑を見つけました。名前から遊郭の跡地かと想像してしまいましたが、まじめな、京都府立第一高等女学校の創立当初の名前だそうです。案内によると、明治5年創立、我が国最初の高女のようです。さすが京都ですね。現在の鴨沂高校だそうです。たしかタイガースの沢田研二もここの出身だよ、と私が言ったら、あなたは、つまらないことをよく知ってるね、とワイフにバカにされました。因みにワイルドワンズの植田くんは私の高校の後輩です。

三条大橋につきました。ここは、旧東海道のゴール地点です。最近旧東海道の宿場町にこっているので、感慨深くながめました。橋のたもとに、弥次さん喜多さんの像がありました(写真)。ここから、旧東海道方面には向かわず、反対の三条通りに進みます。途中、池田屋騒動跡地とか佐久間象山、大村益次郎遭難の地とか、幕末の歴史舞台の跡を通り過ぎて行きます。

この通りは、旧東海道の入り口ということで、江戸時代からにぎわっていましたが、明治に入ってからも、重点的に整備され、多くの近代建築物が建てられたようです。当時の、日銀京都支店、日生ビル等の洋館が、現在もいくつも残っていて、歴史を感じさせてくれます。また、和紙、美術、茶道具などの伝統を感じさせるお店や画廊も多く、文化の香り高い通りといった印象です。歩き疲れたので、老舗のイノダコーヒー本店で「アラビアの真珠」というブレンドをいただきました。香り、こく、酸味が絶妙で、おいしかったです。喫茶店も多いです。これも文化の通りらしいですね。

麩屋町(ふやまち)通りに入ると、有名な老舗の和風旅館が並んでいました。300年の歴史を誇る俵屋、川端康成さんも激賞した、もてなしの柊屋(ひいらぎや)、炭屋旅館などです。一度は泊まりたい宿ですが、お値段も相当高そうです。そこを抜けて、広い通りを右に曲がり、市役所の横から寺町通りに入ります。落ち着いたクラシカルな商店街が続いています。どのお店も店構えからして風格があります。すぐ、古本屋さんの尚学堂が目に入りました。店頭に出している古本の種類が違います。古文書みたいなものなのです。京大の先生あたりをターゲットとしているのでしょうか。さすが、京都と思いました。

村上開新堂というお店に目がとまりました。みただけでは、何のお店か分かりません。ワイフは詳しいです。好事福廬(こうじぶくろ)というお菓子で有名だそうです。蜜柑をくりぬいて、中身をゼリーにし、さらに味付けして、蜜柑の皮で包むという洋菓子だそうです。池波正太郎が紹介して有名になったそうです。今日は買いませんでした。私は、村上春樹の村上朝日堂と何か関係があるお店かと思いました。ワイフにバカにされるので、それは黙っていました。

まだまだ面白いお店がたくさんあったのですが、あと一つだけ紹介して終わります。そのお店は藤原定家、あの「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」の歌人です、の住居跡にありました。古梅園という筆、墨、硯のお店でした。店内のはり紙に度肝を抜かされました。・・・「お花すみ」として親しまれている「紅花すみ」は230年のベストセラーです・・・230年です、すごいことですね。その日も何人ものお客さんが、すみを買っていました。観光客ではない地元の人です。京都の文化の底力を感じました。

「秋の夕暮れ」になりましたので、鴨川べりの「苫屋」に向け、帰りを急ぎます。御所の横の道を抜けて、右に折れたところに、クラシックな校舎が建っていました。数名の女高生がたむろしている校門の前を行き過ぎるとき、表札の校名が目に入りました。あの高校でした。「女紅場」は、ここに移っていたのでした。

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次回に正倉院展の紹介をしようと思います。













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保土ヶ谷宿を歩く

2006-11-07 15:14:12 | Weblog
川崎の実家で、母と昼食を楽しんだ後、横須賀線で大船に向かいました。横浜を過ぎた頃、急に、旧東海道保土ヶ谷宿のあたりを歩きたくなりました。

昨日、大磯宿場まつりをみて、その数日前には藤沢宿あたりを散策しています。また、江戸時代、日本橋を出発した旅人は通常、戸塚宿を最初の宿にするが、女性や身体が弱い人は、その手前の保土ヶ谷宿に泊まると、ある講義で聴いたばかりでした。そんなこんなで、保土ヶ谷駅で降りてしまいました。自由気ままな行動を好む私には、何処ででも降りれる、スイカはとても役だっています。

もちろん予備知識ゼロです。それに、保土ヶ谷駅は何十年も前に友人と中学時代の先生を訪ねて以来、一度も降りたことはありません。出口の方面案内の地名に見覚えのあるのが、ありました。権太坂(ごんたざか)です。お正月の箱根駅伝でよく耳にする坂道です、ということは東海道はこちらということです。とにかく、そちらに向かって歩きます。まるでガード下商店街のような、私好みのレトロな東口商店街を抜けていきます。

そのうち、道はY字の分かれ道になりました。左の方に坂道がありそうでしたので、そちらに進みました。2,3分歩いても、東海道らしい雰囲気は出てきません。すぐ引き返しました(私はそういう嗅覚はするどいのです)。分岐点に戻り、右側の道に入ったとたん、本陣跡の案内板を見つけました。この通りが旧東海道だったのです。地図のない旅、いいですね。ちょっとした、こんな発見でも、死ぬほど(うそです)嬉しいです。

1601年に小田原北条ゆかりの軽部家が本陣になったそうです。なんと現在もこの地に、子孫の軽部氏が住んでおられます。すごいです。通用門はそのままだそうで、往時の雰囲気が出ています。ここを皮切りに旅籠屋が続いていたはずですが、それに代わって、現在はマンションがいくつも建っています。現代の旅籠屋、ビジネスホテルはどこにもありません。

歩みを進めると、今度は、脇本陣藤屋跡の案内板が現れます。本陣に次ぐ格で、この宿場に2つあるようです。現在は、ペコちゃんのフジヤ営業所になっています(うそです)。建坪が119坪、部屋数が14室、間口が6間半(11.8m)、奥行きが 32.7m だったそうです。私が京都の定宿にしている老舗和風旅館、俵屋ぐらいでしょうか(また、うそです)。

さらに行くと、見逃してしまいそうな、目立たない銅板の案内図があります。見えにくい文字ですが、重要な情報が記されていました。当時の東海道筋に並ぶ、旅籠屋の名前、位置、それに建物の外見まで描かれているのです。本陣から始まり、薪屋、沼津屋、尾張屋、脇本陣藤屋・・・・という具合に続きます。旅籠屋が69軒、茶屋が33軒あったそうです。

想像力のたくましい私には、これだけの情報があれば十分です。マンション群はみな、1階が大戸、蔀、2階は全面出格子の表構えの旅籠屋に変わっています。かばんを持って歩いている背広姿のビジネスマンは、合羽からげて三度笠の旅人です。スーパーの袋を下げて歩いてくる主婦は旅籠屋の飯盛り女です。若づくりで、厚化粧の中年三人組は花魁(おいらん)道中です。タクシーは早駕籠、トラックは牛車です。しばらく、ぼーっと、白日夢をみていました。

また、気を取り直して、歩きはじめます。脇本陣の水屋跡地の案内がでてきました。ここは、現在消防署になっています。水と消防ですか、うまくなっていますね(これは本当です)。その先の、旅籠屋本金子跡地の横道を入ると、今井川という小さな川が流れていて、周辺は静かな住宅地になっていました。向こう側は小高い丘になっていて、見晴らしのよさそうなマンションが建っています。また、白日夢をみます。川の両側には、茶屋が並んでいます。保土ヶ谷出身の原節子似の女旅芸人が腰掛け、(ワイフの好きな)栗羊羹を食べながらお茶を飲んでいます。あちらでは、やはり保土ヶ谷出身のおすぎとぴーこ似のふたりの岡っ引きが、(私の好きな)さんまの塩焼きをさかなに昼酒を楽しんでいます・・・・

外川神社近くの上方見附(京都方面からの宿場の入り口という意味)跡地まで歩き、Uターンしました。途中で大きなお寺がありましたので、飯盛り女のお墓があるかどうか、裏の広い墓地をしっかり調査したのですが、とうとう見つかりませんでした。藤沢宿のようなのは特別なのでしょうか。

保土ヶ谷宿の旧東海道に松並木を再生させようというプロジェクトが立ち上がっているそうです(ポスターを見ました)。是非実現させてください。そのとき、また訪れ、今日以上の、すばらしい白日夢をみたいと思います。








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大磯宿場まつり

2006-11-06 08:21:27 | Weblog
東海道大磯宿場まつりがあるというのでワイフと出かけました。大磯駅を降り、歩き始めてすぐに、目の前の高台にある、修復中の洋館前の人だかりに気がつきました。

そのなかの人に話しを聞きますと、この洋館は以前フレンチレストランでしたが、それがつぶれて、しばらく空き屋になっていましたが、不動産屋さんが買いとり、マンションにしようとしたらしいです。それで地元の方々が、この洋館を残そうと、反対運動を起し、結局、イタリアンレストランに再生することになり、その修復状況をみにきたということでした。私はフレンチレストラン時代に食事をしたことがありますので、閉店後どうなってしまうのか、気になっていたところでした。大磯町の玄関口の美しい景観が守られ良かったと思います。地元の皆さんの町を守ろうという強い気持ちが伝わってきます。

お祭りは、東海道松並木が少し残っている、山王町の旧東海道で行われていました。予想通り、人人人の大混雑でした。押されるように進んでいくと、大磯国府太鼓や津軽三味線の音色、バイオリンによる懐かしい曲、落語家のはなし等が、次々と耳に飛び込んきます。出店もいっぱいです、みな江戸時代の町人の扮装をして、売っています、ほとんど、地元の商店が出店していますので、味は一流です。カツサンド、焼きそばのおいしかったこと。ときどき、旅装束のお侍や新撰組装束の若い衆(?)が街道を歩いてきます。

12時からは、花魁道中がやってきました。みなそちらに殺到します。ミス大磯みたいな美女が花魁役をするのかと期待していましたが、むかしの美女で、厚化粧でごまかしていました(笑)。多くのお付きを従え、しゃなりしゃなりと行進してきました。観衆も笑いながらカメラを向けていました。大磯商店街の皆さんの、町をみんなで盛り上げていこうとする気持ちが、伝わってきました。


お祭りの案内役の人に聞きましたら、この辺り一帯は江戸時代の宿場町ですが、鎌倉時代では、ここから平塚寄りの化粧坂にかけてが宿場町だと教えてくれました。鎌倉の武士たちが、馬で飛ばしてここに泊まり、遊んでいったらしいです。曾我兄弟は、ここで待ち伏せし、かたきと出会うのを待っていたそうです。虎御前はここの遊女で、お兄さんの方と恋仲になったということです。説明して下さった方は、大磯ガイドボランテイア協会の人でした。会の研究成果である「曾我兄弟と虎御前の史跡を訪ねて」という資料を買いました。ここでも町の観光のために頑張っている人がいました。

お祭りの熱気に少し疲れましたので、近くの延台寺で虎御前の供養塔と遊女のお墓(先日、藤沢宿の遊女の墓の紹介をしましたが、ここにも小規模のものがありました)にお参りし、人家を抜けて海辺に出ました。

大磯海岸は「今はもう秋、誰もいない海」ではなく、サーファー、浜遊びの家族連れ、岸壁の釣り人が目に入りました。でも、もう夏の賑わいはなく、間違いなく静かな秋の海でした。





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我孫子ウオーキング

2006-11-05 09:22:29 | Weblog
JR東日本主催の駅からハイキングに参加しました。今回のテーマは「手賀沼周辺の史跡とジャパンバードフェスティバル」です。我孫子駅を出発して、船戸の森、武者小路実篤屋敷跡、手賀沼公園、手賀沼親水広場、鳥の博物館、志賀直哉邸跡を経て駅に戻る、約10.5 kmのコースです。ちょうどジャパンバードフェスティバルが手賀沼のほとりで開催されていて、それにも参加するかたちになり、ウオーキングだけではなく、鳥の祭典まで楽しめるという有意義な大会となりました。

私は、少し前まで常磐線沿線に住んでいましたので、この辺りは馴染みがあります。でも、せいぜい、駅周辺と手賀沼公園ぐらいまでの行動半径でしたから、今回もコースの多くは初めて歩く道で、とても楽しみにしていました。

街の賑わいを抜けると、うっそうとした船戸の森に入ります。カオノキ、エノキ、クヌギ、シラカシ、ケヤキ等の樹木が、優しく迎えてくれます。そして、今回のお目当て、武者小路実篤が大正5~7年に住んでいた屋敷跡に出ます。現在は企業の所有になっていて、中には入れませんでした。門に我孫子山荘の文字がみえ、当時の様子が彷彿されます。その頃は、白樺派の志賀直哉、柳宗悦、バーナードリーチもこの地に居を構え、互いに親好を結び、切磋琢磨していたということです。梅原龍三郎や岸田劉生もここを訪れたそうです。

私は学生時代には、実篤の本を良く読み、馬鹿正直に、どこまでも誠実に、懸命に生きる小説の主人公の生き方に共感したものでした。真理先生、馬鹿一万歳、おめでたき人などの書名が頭をよぎりました。この道より我生かす道なしこの道を行く、の実篤の有名な言葉も自分流に解釈して、座右の銘にしたものです。

手賀沼ふれあいラインを歩き、手賀沼公園に到着すると、そこではジャパンバードフェスティバルが催されていました。野鳥に関する国内最大規模のイベントで、毎年ここで開かれているようです。この我孫子は、鳥の博物館はありますし、その裏には山階鳥類研究所もあり、鳥研究のメッカなのでしょう。野鳥探索や自然保護の市民団体等が活動報告したり、鳥のグッズの販売や、船上バードウオッチング、バードカービングのコンクールなどが行われていました。鳥好きなら誰でも参加できる楽しいあつまりでした。お昼になっていたので、会場で、きのこの混ぜご飯、けんちん汁、焼きそばを買って、ふたりで半分ずつ食べました。

午後、歩き始めてしばらくして、志賀直哉の邸宅跡に到着します。離れの一室が残っているだけです。敷地内はなにもありませんが、自由に入れるようになっています。武者さんは、毎日のようにここに、話しに来ていたようです。すぐ下に(ここは高台になっているのです)白樺文学館があり、そこにも入場してみました。ちょうどバーナードリーチ展をやっていました。民芸館でもみたような、落ち着いた感じの作品が沢山並んでいました。バーナードリーチは、この少し先に住居を構えていた、柳宗悦の庭で窯をつくり、創作活動をしていたそうです。

鎌倉の路地によく似た坂道を上ると旧柳宗悦邸に出ます。現在は別の方の所有ですが、りっぱな家と庭が垣根越しにみることができます。隣の敷地が、嘉納次五郎宅の跡地で、そこは自由に入れます。高台ですので、眼下に、手賀沼が一望できます。当時は、前方になにもなく、さらに良い景色だったでしょう。夕陽がとても美しかったらしいです。そんな夕陽をみながら、若き日の白樺派の人々が目を輝かし、夢を語っていたのでしょう。

無事ゴールに到着しました。ワイフがお腹がすいたというので、レストランで、ワイフはスパゲテーとアイスコーヒー、私は中生とポテトフライをいただきました。とてもおいしかったです。10キロ歩いて、重めの身体が軽くなったと感じていましたが、ここの休憩でまた、元に戻ってしまいました。



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文化の日に

2006-11-03 21:33:10 | Weblog
今日は文化の日です。めったに見られない宝物を拝ませてもらおうと、風入れの円覚寺をふたりで訪ねました。

舎利殿の拝観も出来るということで、まず、そちらから見学です。お寺の人が、分かりやすく説明してくれます。唐様式の特徴が随所にちりばめられているということで、県下では唯一の建造物の国宝に指定されたということです。まず特徴の第一は、屋根の「こけらぶき」です。樹齢300年ぐらいのサワラの木をナタで切って、うすい板をつくり、それを屋根にふくそうです。20~30年は、もつそうです。ところが、今、この条件に合ったサワラの木があまりないそうです。なにしろ樹齢300年の木ですからね。前回も材料が足らず、屋根の半分しか修復できなかったそうです。文化財の維持には、自然環境を含めた総合的な国の力というか、幅広い分野のバックアップが必要なのですね。目先のことばかり考えていると、国の文化は滅びますよと言っているようでした。

下駄箱で靴を預け、宝物風入れをしている方丈に上がります。人人人でいっぱいです。国の重要文化財が目白押し、まさに宝の山です。まず、私の目を引いたのが、足利義満の額筆の三幅です。桂昌、普現、宿龍の文字が、それぞれの額に、太く、大きく書かれています。素朴な、暖かい感じの、武者小路実篤のような字です。高校生のグループが俺にも書けそうな字だと言って通り過ぎていきました。字は人を表わすと言いますから、こういう観点で、歴史の人の書をみていくと面白いです。

この春に近くの大学の生涯学習センターで古文書のお勉強も少ししましたので、その関係の展示品も、興味深く拝見させてもらいました。円覚寺は、各種書状、寄進状など沢山の貴重な古文書を保存していて、そのときの教材にも使われていたのです。

掛け軸の徳川家康像、夢窓国師像、達磨像、西行が富士山を眺めている図、応挙の虎図、雪舟の山水図など人並みに押されるようにして見ていきます。十分理解できないまでも、長い歳月を経た作品に、直に接するというだけで十分満足です。絵の中の人が何か語りかけてくるような気がします。

下駄箱のところで、私の靴が見つかりません。黒いジャガーの運動靴です。どうしたんだろうとよく探すと、すぐ近くに黒いジャガーが見つかりました。ほっとして、取り出すと、ちょっと違います。私のは、昨日買ったばかりの新品です。それに引き替えこちらは、履き古し、それに大きさまで違います。私のは25.5、これは24.5です。この持ち主が間違えて、はいていったに違いありません。少し歩けばわかるはずなのに、と悔しくなりました。5分ほど待っても来ませんでしたので、ぎゅうぎゅうのその靴を履いて円覚寺を出ました。

建長寺の風入れも見学の予定でしたが、これ以上歩くと、足にまめが出来そうだし、人混みも予想以上でしたので、ここで止めて、家に帰ることにしました。帰宅して、靴を履き替え、近くの鎌倉芸術館の鎌倉市民文化祭に行きました。華道展では、いろいろの流派のものが展示され、それぞれの特徴が良く分かり、面白かったです。東山源氏千家古流(ずいぶん長い名前ですね、3つくらいの流派が合併したのでしょうか)の作品がシンプルで気に入りました、とくに冬芽だけのコウリヤナギの作品は、枝の曲線美がすばらしかったです。大ホールでは、鎌倉市民合唱祭をやっていました。最後のアンサンブル・ボウという合唱団の、「叱られて」は心にしみる歌声でした。身近な文化もなかなか良かったです。

ジャガーの黒い運動靴のおかげで、遠い古い文化と身近な文化を同時に楽しむことができました、文化の日に。









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神田藪で憩う

2006-11-02 18:18:44 | Weblog
虎ノ門での用事が済んで、お昼は、久しぶりに神田須田町の神田藪蕎麦にしました。お店に入ると、「いらっしゃ~~い」と、大奥の「上様、おなりぃ~」みたいな調子の、語尾を長~くした、女の人の声が、迎えてくれました。いつも満員で、席待ちの小部屋で待つことが多いのですが、今日は、平日の午後1時過ぎということもあって、いくつか席が空いていました。座敷席の一番奥の隅の席に陣取りました。全体を見渡せる最高の席です。居酒屋でもカウンターの一番奥の席は、だいたい通が座ります。

こういう落ち着ける席に座ると、ゆっくりしたくなります。と言うことは、お酒をいただくということです。もともと、昔から、お蕎麦屋さんはお酒を飲むところなのです。若くして亡くなりましたが、蕎麦通の杉浦日向子さんは、蕎麦屋で昼酒して、そのあと、ほろ酔い加減で街をぶらつくのが、最高の贅沢だと言っておられました。私もその気持ちがよく分かりま~す。

熱燗1本と、つまみは、焼き海苔と板わさを頼みました。おちょう~し、いーぽ~ん、やきのり~、・・と、厨房に伝える、通し声が心地よく聞こえてきます。菊正とそば味噌がすぐにきました。ちびちび始めていると炭火焼きの焼き海苔がきました。昔から、蕎麦屋のつまみの定番ですが、私がこれを頼むようになったのは最近のことです。結構、お酒に合いますよ。

ひとりで、話し相手もいないので、ぐるりと回りを見渡し、お客さんウオッチングです。平日ということもあって、仕事関係のグループが多いです。

私の横には黒っぽいスーツを着た、キャリアウーマンらしい3人組が、暖かいそばを食べながら、なにやら、ひしひそ話をしていました。ひとりの人が、こんど来た人ダメね、服装が派手だし、言葉使いもなってないわね、と言っているのが聞こえました。話し相手の、深津絵里似の女性はいかにもそうね、と言った顔でうなずいていましたが、もう一人の「芋たこなんきん」の主役に似ている人は、一応うなずいていますが、目を見ると、何つまらないことを言って、という目でした。目は口ほどに物を言います。

その向こう側の席では、20代のサラリーマンが二人で飲んでいました。一人が聞き役専門で、もうひとりが、酔った顔をして、とうとうと偉そうなことをしゃべり続けていました。聞き役は冷静で、時計をみながら、そろそろ出ようかと言って、立ち上がりました。聞き役の方が偉くなると思いました。

さすが、日本を代表するお蕎麦屋さんです。外国人も何組かいます。韓国語をしゃべっているカップルも近くにいました。韓国語だということぐらい分かります。ワイフの好きな、テレビの韓ドラの韓国語がよく私の耳に入るからです。ワイフは、現役時代はテレビではニュースしか見なかったのですが、仕事を止めてからは、韓ドラにすっかり、はまってしまいました。冬ソナなんか、いろいろのテレビ局を渡り歩いて、3巡目です。それに、題名が春夏秋冬シリーズとかいうのがあって、それも全部見ています。友達の元キャリアウーマンも好きらしく、電話で盛り上がっています。身体は重めになりましたが、頭は軽めになったようです。

つまみがなくなってきましたので、セイロ1枚とお酒をもう1本頼みます。せーろーいちま~い・・の声が響き渡ります。この美声がBGMのように、時々流れてきて、何とも優雅な雰囲気を醸し出しています。広々としたお座敷、そして庭木や笹の緑も、ゆったりした気分にさせてくれます。お蕎麦も日本酒のつまみになります。フランスパンとワインの関係と似ていますね。おいしいお蕎麦をすすり、お酒を楽しみ、のどかな、贅沢な午後が過ぎていきます。

ありがとうぞんじま~す の声に送られ、お店を出ます。この辺り一帯は、戦災に遭わず、多くの老舗がむかしのまま残っていて、ぶらぶら散歩も楽しいです。鳥料理のぼたん、あんこうの伊勢源、洋食の松栄亭、蕎麦の松屋、汁粉屋の竹むら等が狭い三角地帯に軒を並べています。味のトライアングルですね。

ほろ酔い加減で、次の目的地、上野の国立博物館に向かいました。


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夕方に、幻想的な光と邦楽の音色に包まれた、国立博物館を訪れました。「光彩時空」と題し、雪、月、花、時空をテーマに本館、平成館、東洋館などがライトアップされ、箏曲のライブ演奏もありました。構内の木々も赤くライトアップされ、まるで紅葉をみるようでした。本物の月も良かったですよ。人工の紅葉の向こうの夜空に、少しふくらんだ(ワイフのような)半月が、私を忘れないでねと、こうこうと輝いていました。
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小林秀雄さんのモーツアルト論

2006-11-01 07:27:13 | Weblog
私は小林秀雄さんの本が好きです。内容はよく理解できなくても、心に響く文章がところどころに散りばめられているからです。その文章をまた、目で追い、朗読してみたいために何度も読み返すのです。たとえていえば、クラシック音楽のある一節だけが好きで、それを聴きたいために、そのレコード(CD)を何度もかけてみるのとよく似ています。

私の好きな文章がたくさんちりばめられている小林さんの作品は、「モーツアルト」、「徒然草」、「西行」がベスト3です。今日は、生誕250周年記念で演奏会の多い、「モーツアルト」の中から、いくつかの文章を紹介しましょう。それぞれについてはコメントしません。音楽と同じです。それぞれの人の感じ方でいいのです。

・・・・・
「確かに、モーツアルトのかなしさは疾走する。涙はおいつけない。涙の裡(うち)に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなしい」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家はモーツアルトの後にも先にもいない」

「ワグネルの曖昧さを一途に嫌ったニイチェは、モーツアルトの優しい黄金の厳粛を想った。ベートーベンを嫌い又愛したゲーテも又モーツアルトを想ったが、彼はニイチェより美について遙かに複雑な苦しみを嘗めていた。」

「僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていたとき、突然、このト短調シンフォニーの有名なテーマが頭の中に鳴ったのである。僕がこの時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとかそういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。とにもかく、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった・・・」

「僕は、その頃、モーツアルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が表れている奇妙な絵であった。モーツアルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつむきになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重まぶたの大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている・・・ト短調シンフォニーは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いない、僕はそう信じた。何という沢山の悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では言い現わし難いものがある。」

「構想は、あたかも奔流のように鮮やかに心の中に姿を現わします。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることはできません」

「音楽の代わりに、音楽の観念的解釈で頭をいっぱいにし、自他の音楽について、いよいよ雄弁に語る術を覚えた人々は、大管弦楽の雲の彼方にモーツアルトの可愛らしい赤い上着がちらちらするのを眺めた」

「天才とは努力しうる才だ、というゲーテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである・・・」

「モーツアルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたということであった・・・」

・・・・・
これらの文章を読むと、まるで、モーツアルトの音楽を聴くようです、私には。
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