気ままに

大船での気ままな生活日誌

数学の王さま

2006-12-18 22:51:49 | Weblog
先月、熊本市の図書館脇に建っている「星の王子様」の碑をながめているとき、ふと、ある大数学者のことを思い出していました。誰でも知っている(そうでもないかな)ガウスです。

ガウスは当時の(18世紀初頭)数学のあらゆる分野の基礎を築いた天才で、みんなから「数学の王さま」と呼ばれていました。もちろん、ひざまづくぐらいの尊敬の念で、そう呼んでいたのですが、私は、「星の王子様」がそのまま大人になったような人なのでそう呼ばれた、みたいな感じをもっているのです。

その理由は、この王さまが、数学者であるのに、小惑星などの星が大好きで、死ぬまで望遠鏡を離さなかったこと、とか、恋人(奥さんになる人)へのラブレターが少年のように純真であること、世間の栄達には全く興味を示さず、小さな大学町から一歩も外に出なかったこと、など、「星の王子様」的と思ったからです。

王さまが世間で有名になったのは24才の時でした。当時、ケレスという小惑星が発見されましたが、日の出のちょっと前に姿を現わすだけでしたので、その軌道の計算が誰も出来ませんでした。王さまは、それを明らかにして世間をアッと言わせたのです。

王さまは、昼も夜も研究三昧という頃に、美しい女性ヨハンナに出会います。聖母のような愛情のあふれているまなざしでながめられているだけでも、うれしくなる、と友人にのろけています。そして、こんなラブレターを書きます。

わたしには、お金もなければ栄光もありません。しかし、あなたへの愛にあふれている真心があります。この真心が、ほんものであるかどうか、受け入れていただくねうちがあるかどうか、ためしていただきたいのです。・・・あなたを、こころから愛していることは、いうまでもありませんが、わたしもまた、愛されてこそ、一緒になってしあわせになれるのです。これで秘めた思いをすべてうちあけました。いまは、ご返事を首を長くして待っているだけです。

王さまは、そのあとの時代の数学の発展の基礎となる発見を山のようにしていますが、自分の業績を世間に示すための唯一の手段である、論文をほとんど書きませんでした。それどころか、すごい発見の下書きも惜しげもなく捨ててしまったようです。でも優れたお弟子さんがたくさん集まり、のちに、彼らによって、王さまと呼ばれるまでになったのです。

王さまは、74才になっても望遠鏡を覗いていました。当時の新しい惑星、海王星を観測したかったからです。なぜなら、この海王星は、天王星の軌道が計算どおりになっていない、別の惑星によって変動しているにちがいない、という仮定から生まれた、仮想どおりに実在した星だったからです。

王さまは、若いとき、星で有名になり、数学の教授のとき、天文台長も兼ね、晩年も望遠鏡を離しませんでした。そして、一生離れなかった、ドイツのゲッチンゲンという小さな町で眠りにつきます。

夜空の星を眺めていると、気の遠くなるような、不思議な気持ちになりますね。何万年前発せられた光が今、この地球に届いている、そんなことを考えるだけでも、敬虔な気持ちになります。一生、星を見続けていた数学の王さまは、やっぱり星の王子様だったと、私は思うのです。

・・・・・・
星の王子様のおかげで、私の本箱に眠っていた、「大数学者」(小堀憲著)を久しぶりに起こしてしまいました。







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茅ヶ崎一里塚から歩く

2006-12-17 13:37:39 | Weblog
茅ヶ崎は私の好きな街のひとつで、よく訪れます。街歩きだけではなく、烏帽子岩を横に見ながら、海岸沿いを江ノ島入り口まで、てくてく歩いたことも何度かあります。今回は、茅ヶ崎一里塚を起点に、東海道を東へ、西へ、2日かけて歩いてみました。

茅ヶ崎駅北口を出て、少し歩くと東海道に出ます。交差点の横に一里塚の碑があります。「日本橋から14里、慶長9年(1604年)設置、当時は茅ヶ崎の地名はなく、南湖、高砂の名で知られていた」という案内が記されていました。

まず、東へ向かいます。嬉しいことに、すぐ松並木の緑が目に入ります。東海道松並木の名残です。それは、一里塚から八王子神社付近まで続き、一旦とぎれ、本村(ほんそん)地区で、また現れます。ここは大きな木が多く、幹回りが2メートルを越すようなものが、何本もありました。案内によると、その大きさの松の樹齢は400年にもなるそうです。ということは、江戸時代からの松ということです。山本周五郎ではないですけど「松の木は残った」ですね。この地区の歩道を整備して、松並木プロムナードをつくる計画があるようです。是非実現して欲しいと思います。

この辺は、松林とか赤松とか松の名がつく地名が多いです。昔から松が多かったのでしょうか。松林中学を過ぎて、小和田(どこかで聞いた名ですね)に入ると、松並木はとぎれます。そして、赤松歩道橋付近で、また松並木が現れます。ここでも、幹回り2メートル以上の大きな松の木を何本もみかけました。きっと江戸時代も、この辺りには松が多かったにちがいないと思いました。

帰り途に寄った辻堂の図書館で、江戸時代に描かれた、この地区の絵図を見つけました。やはり、そうでした。すぐ先に大山詣の道が分岐していますが、その分岐点からこの地点までの街道の周辺に松の木が、たくさん描かれていました。しかし、そこから東方向(今まで歩いてきた道)の街道沿いには、ところどころに描かれている程度でした。当時の東海道沿いも、松がずらりと途切れなく並んでいるというわけではなかったようです。

藤沢市との境界標識のところまで来ますと、突然、松並木が途絶えてしまいました。むかし、一軒家にいた頃、隣の奥さんが、歩道のイチョウの葉の掃除をするとき、定規ではかったように、境界線きっちりに掃除していたのを思い出しました(雪かきもそうでした、とてもいい奥さんでしたが、こういうことだけは、きっちりしたい性格のようです、苦笑)。市役所間の縄張り争いがあるのかも知れませんが、協力して欲しいですね。

茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿との間にあり、旅籠はありませんが、茶屋(立場茶屋)がありました。この辺りでも、東海道と大山詣での旅人のために、二軒の茶屋があり、その跡地に「二つ谷(家)」と刻まれた石碑が建っていました。歩き疲れたので、私もここの、まぼろしの茶屋で休憩することにしました。娘さんにお茶を入れてもらったつもりで、自動販売機で買ったお茶をいただきました。そして、あと一息と、辻堂駅に向かったのでした。

・・・・・・・
翌日、今度は西に向かいました。期待した松並木はほとんどありませんでした。途中で円蔵寺、大六天神社を覗き、さらに、歩いて行くと、南湖入り口の標識がみえてきました。この辺りの地名は茶屋町です。ここに茶屋が5,6軒あったということです。平塚宿に入る手前の、馬入川(相模川)が大雨などで、川留めになると、旅人は茶屋で泊まらざるをえなくなり、その数が、多いときで200~300人になったそうです。また、大名たちの為には、本陣、脇本陣に匹敵する臨時の宿も用意されていたようです。そういえば、由緒ありげな旧家をいくつか目にしました。江戸時代、茅ヶ崎で一番の繁華街はここだったのです。現在の加山雄三通り、サザン通りに相当しますね。当時の茅ヶ崎一の人気者といえば、大岡越前でしょうか(茅ヶ崎の浄明寺にお墓があります)。とすると、当時この道は、岡ちゃん通りとか、越前がに食べほうだい通り、とか呼ばれていたでしょうか。

ここからしばらく、左側に冨士山がみえるという道を歩きます。「左冨士」は、東海道では、ここと静岡の吉原の2カ所しかないそうです。安藤広重の版画、東海道53次の中に「南湖の左冨士」として描かれています。その日は、残念ながら、曇っていて、確認することができませんでした。鳥井戸橋の脇にその左冨士の碑が建っていました。

その碑の反対側に、鶴嶺八幡宮の鳥居が見え、そこから始まる参道の両脇には、なんとも素晴らしい松並木がどこまでも続いていました。一キロあまりの参道に、ほぼ切れ目なく、松の緑を見ることが出来ます。源義家ゆかりの由緒あるお宮ですが、この八丁松並木は、正保年間(1644ー48)に社殿を再建された、朝恵上人によて、つくられたそうです。多くは、二代目、三代目の松でしょうが、江戸時代からのものと推定される、太い幹の松も見かけました。昔の東海道の松並木をほうふつとさせる見事な景観でした。

松並木をゆっくり歩き、十分堪能した後、平塚に向いました。途中、鎌倉時代の旧相模川の橋脚遺構を見学し、馬入橋を渡り始めました。その頃には、少しは雲が切れてきましたが、まだ、冨士山は、左側にも、右側にも、その雄姿のかけらもみせてはくれませんでした。





  



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ふたりの怪物

2006-12-15 09:27:22 | Weblog
今朝の報道によると、松坂大輔投手のボストン・レッドソックスへの入団が決まったようです。良かったですね。あれほどの力量のある投手ですから、世界のトップリーグで力を試したいと思うのはごく当たり前のことで、早く夢を実現させてあげたいと思っていました。

松坂投手は、横浜高校時代から、甲子園15連勝、決勝戦でノーヒットノーラン等、圧倒的な力を示し、平成の怪物と呼ばれていました。「平成の」の形容詞をつけられたのは、それ以前に、もっとすごい怪物がいたからです。そうです、江川卓さん(以後敬称略)です。なんと、高校時代にノーヒットノーランを9回、完全試合2回ですよ。今日は、このふたりの怪物の比較をしたいと思います。

江川は、世間(プロ球団)の無理解により、スタートが5年遅れてますから、わずか9年間でプロを引退します。松坂投手は今年で8年で、ほぼ同じ期間ですので、通算成績である程度、力量の比較ができます。まず勝敗ですが、江川:135勝72敗、松坂:108勝60敗;奪三振は、江川:1366、松坂:1355;防御率は、江川:3.02、松坂:2.95です。よく似た数値で、ほぼ互角ですね。100勝1番乗りは、松坂(191試合目)が、これまで最短の江川(193試合)を2試合だけ早く到達しました。また、二人とも、最多勝、奪三振、防御率のタイトルを1~数回とっていて、これも、ほぼ互角です。両者のトータルの力量は同程度といって良いでしょう。

では、全盛期の比較ではどうでしょう。江川の全盛期は、1980年代前半で、81年に20勝6敗で、最多勝など投手5冠を獲得しています。また84年のオールスターでは、江夏の9連続奪三振には及びませんでしたが、8連続奪三振を達成しています。一方、今が全盛期の松坂は、今年連続奪三振をねらいましたが、遠く及びませんでした。全盛期比較では、江川の方が上でしょう。

経済力では比較になりません。松坂の圧勝です。西武入団後、堤オーナーの特別なはからいで、年俸はうなぎ昇りでしたし、今回の契約も6年70億円という巨額です。一方、江川は、当時の、ろくでもない(私みたいに;涙)球団管理者により、不当に年俸を抑えられてきました。私がよく覚えているのが、20勝あげた翌年も19勝しているのですが、そのときの年俸更改のことです。連続20勝前後という、文句なしの成績に対し、なんと、現状維持だったのです。選手のやる気をなくす、全くあきれた査定でした。それ以後、江川が投球に手抜きを始めた、と私はみています(私は、はじめから手抜きの名人ですが;汗)。

江川の全盛期は、ちょうど私も一番仕事がのっていた頃です。張り切っていて、得意の絶頂期でした(汗)。夜帰宅してから、ビールを飲みながら、テレビで江川の奪三振ショーをみるのが何よりの楽しみでした。いけいけ、いいぞ、よし、と声をあげていました。

松坂ボストン入り決定のニュースで、全盛期が私と同じ時代の、もうひとりの怪物のことをふと思い出してしまいました。

ーーーーーーーーーーーーー


江川は1955年生まれで、松坂が1980年生まれです。ちょうど25年の開きです。ちょうど、その間に、桑田真澄投手がいます。1968年生まれです。ふたりの怪物とも関係があるのですよ。江川が引退を決意したのは、次代のエース桑田に開幕投手を奪われたからです。その年にきっぱり引退しています。一方、松坂は、高校時代から、桑田の熱烈なフアンで、背番号も同じ18をもらっています。西武に入りましたが、巨人に入る可能性もありました。長島監督は、最後の最後まで、上原ではなく、松坂指名を考えていたようです。松坂がもし巨人に入っていたら、桑田も、江川のように余力を残して、そっとグローブを置いたはずです。

(写真は松坂投手も、思い出のある横浜球場です)







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小津安二郎の晩春

2006-12-14 09:05:05 | Weblog
小津安二郎監督を偲ぶファンの集い、麦秋忌の第二部で、小津監督の記念碑的作品「晩春」が上映されました。昭和24年の作品で、その後、「麦秋」「東京物語」と続く、いわゆる小津調映画の原点となるものです。広津和郎の「父と娘」原作で、脚本も小津が野田高悟と共同で担当しています。原節子、笠智衆が主演です。

円覚寺での茶会のシーンから始まり、がらんとなった北鎌倉の家の内部の描写で終わる、二時間弱の、この映画は、父と娘のシンプルなストーリーからなっています。なのに、ひとときも飽きさせず、時には笑わせ、時にはしみじみとした情感で観客の胸を熱くします。

大学教授の笠智衆は、27才の娘、原節子と北鎌倉で二人暮らしです。父は娘の婚期が遅れているのは、自分のせいではないかと考えています。一方、娘は、現在の父との落ち着いた暮らしを気に入っていて、あえて新たな生活に踏み出すことに躊躇しています。もちろん、ひとりになる父の暮らしも心配です。そんなとき、父の妹、杉村春子が娘の縁談をもってきます。同時に、父にも再婚の話しが持ち上ります。

父が再婚すると聞いて、不機嫌になる娘。少し冷た過ぎる、恐いような目を父に向けていました。私が監督なら、もう少し穏やかな目にします(笑)。本当にお父さん、再婚するのと、問いただす娘。にっこりうなずく父。娘がいると、再婚のじゃまと言外に匂わします。そして、ついに娘は見合いの相手と結婚することを決意します。

娘の結婚を前にして、二人で京都に旅をします。宿での会話。私、お父さんと暮らしている毎日が、自分に合っているよう、とても楽しかった、結婚しても、それ以上の充実した暮らしができるかどうか心配(意訳)。父は諭します。二人で、新しい生活を作り上げていくことが結婚だ、その創造の過程にこそ、苦しみもあるが、楽しみも詰まっているのだ(意訳)。父と娘の互いを思いやる気持ちがしみじみと伝わるシーンです。

結婚式が終わり、父は、娘の親友、月丘夢路とお茶を飲みます。お父様、本当に再婚なさるの、私反対、しないでしょ?と問いただす月丘。にっこりとうなずく父。観客はここで初めて、父が娘の結婚を促すために、うそを言っていたことを知ります。父親の愛の深さが染みわたってくるシーンです。そして、父親の心象風景として、娘のいなくなった、がらんとした自宅の室内風景が、ラストシーンで流れます。

ストーリーだけではなく、映像でも会話でも、まるで俳句のように、シンプルになっています。余計なことは全部、そぎ取ると言った感じで出来ています。すると、それをみている客の心も、余計な思いや迷いが放たれ、非常に簡素な、あるいは空の状態になってきます。その結果、通常では、それほどおかしいと思わない会話でも無性におかしく感じ、他方、しみじみした情感も一層強まります。

例をあげてみましょう。杉村春子が笠智衆に話しかけます。・・・ねー、兄さん、紀子ちゃん(原節子)がしぶっているのは、相手の名前が気に入らないのかしら、熊五郎なんてね、確かいやよね、身体が毛むくじゃらみたいだし。なんて呼んだらいいのかしらなんて考えるとね、くまごさん?それとも、熊さん、でもこれでは八つあん熊さんみたいだしね、そうだ、くーさんがいいわ・・・たしかに面白い会話ではありますが、通常なら、うふふ程度ですよね。ところが映画館では、あははは、と声を出した笑いになります。観客の感受性が高まった状態になっているのでしょう。

お客におみやげをもたせて帰さなければいけない、が口癖だった小津さんの作品らしく、考えさせることが沢山つまった映画でした。

ーーーーーーーーーー
翌日(12月12日)が小津安二郎監督の命日でした。その日、円覚寺のお墓に参りました。偶然その時間に、10数人のグループの方々がお参りをしていました。Y氏を見かけましたので、大船撮影所の関係者だということがすぐ分かりました。墓石の前には、お花とお酒(出羽桜と千本桜でした、お好みの銘柄だったのでしょうか)が供えられていました。そして墓石には、シンプルを好まれた監督らしく、究極のシンプル、「無」の字が、深く刻まれていました。
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笠智衆さんの素顔

2006-12-12 17:02:37 | Weblog
小津安二郎監督ファンの集い、第三回麦秋忌が鎌倉で開かれていましたので、覗いてきました。プログラムの第一部で、笠智衆さんのご長男の笠徹さんによる「父を語る」と題した講演がありました。名優、笠智衆さんの素顔を知ることができました。

笠徹さんは現在、大船で悠々自適の生活を送られています。目元が笠智衆さんにとてもよく似ています。でも、お父さんと違って(笑)、流ちょうに、またユーモアたっぷりにお話しされ、予定の1時間があっという間に過ぎました。

よく、笠智衆さんは家庭でも、映画の中の雰囲気に似ているのですかと聞かれるそうです。ほとんど同じだそうです。不器用な方で、自分の性格に合う役しかできないそうです。口癖が「自然が一番」だそうで、役も地でできるものを好んだそうです。俳優はNOと言わない、とよく人には言っていたそうですが、実際は、役をもらったあと、台本を読んで、気にいらない役であると、「具合が悪い(仮病)」と言って、よく断ったそうです。断り役は当時、映画会社に勤めていた、息子の徹さんにさせていたそうです。

熊本県天水町のお寺の次男として生まれ、僧職を継ぐつもりで、東京の仏教関係の大学に入りましたが、途中で、松竹蒲田撮影所のニューフェース試験に合格し、俳優の道に入ります。大部屋生活が長く続きましたが、この時代がとても楽しかったと言っていたそうです。このとき、脚本部にいた、しいのはなみさんと出会い、結婚しました。楽しかったはずですね(笑)。

小津監督に出会い、笠智衆さんの才能は花開きます。小津作品の最高傑作といわれる三部作、「晩春」「麦秋」「東京物語」のいずれも、原節子さんと共に、主役を演じています。自分の隠れていた才能を引き出してくれた小津監督を、神様のように、尊敬していたそうです。監督のことを、回りの人は「おっちゃん」と呼んでいて、奥さんもそうでしたが、彼は、どんなときでも「小津先生」と呼んでいたそうです。・・・奥さんは、笠智衆さんのことを、笠(りゅう)さんと呼んでいたそうですが、彼は奥さんのことを、名前では呼ばず、ウーとか、オーとか、それでも返事のないときは、オイコラと呼んでいたそうです。・・・因みに我が家では、互いに、むかしから、○○ちゃんです。ただ、外では、ワイフは私のことを、○○さんとか、シュジン(囚人(涙)、酒人(汗)、私有人(奴隷;滝の涙))とか言っているようです・・

下着のパンツをはいたことがなく、いつも、ふんどしだったそうです(明治の人ですね)。大岡越前が、何を言いやがる、これを見よと、ぱっと証拠の巻物をひろげるような感じで、長いふんどしを、部屋いっぱい投げ、締めていたようです。食べ物では太刀魚などの煮魚が好きで、また、だご汁や摺ったとろろいもも大好きでした(熊本の義父も好きでした)。娘さんが二人おりましたが、嫁に出す日は映画のように、しんみりはしていなくて、さばさばしていたようです。(うちの親父もそうでした)

「撮影のときは、真っ白な状態でいく」とよく人に言っていたそうですが、そんなことはなく、よく台詞の練習をしていたそうです。大船の離れ山に住んでいた頃には、元の離山(今は崩されて、三菱の工場になっている)のてっぺんで、岡本に移ってからは、近くの高台の神社で、大きな声で、納得いくまで研究していたそうです。さすが、名優ですね、見えないところで、努力されていました。

今日、散歩がてら、その神社にまで足を伸ばしてみました。神明神社とかかれた表札を掲げた鳥居の向こうに長い石段が続いていました。73段上りきると、小さなお社があり、その前は木に囲まれた小さな広場になっていました(写真)。人家は、この山の下にしかありませんし、道も今、登ってきた階段だけです。閉ざされた、静かな、とても落ち着く場所です。ここなら、どんな大きな声を出しても、どこからも文句はでないでしょう。

しばらく、その日みた「晩春」のお父さん役や寅さんシリーズの御前様役の姿を思い浮かべ、佇んでいました。そのとき一瞬、小さなお社の向こうから、笠智衆さんの、誠実そのものの、あの独特の声が聞こえたような気がしました。








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歯石の教え

2006-12-11 10:25:32 | Weblog
秘湯巡りに出かける前の日に奥歯が急に痛くなり、近くの歯医者さんにみてもらいました。当面、応急処置をして、旅行から帰ってから、もう一度詳しくみてみようということになりました。

二度目の診察により、痛みのあった奥歯は歯周病のためであること、また他の歯も軽い歯周病にかかっていると言われました。抜く必要はなく、また、歯全体も年齢の割にしっかりしているので、これからケアーを十分にしていけば良い、そして出来れば、すでになくなっている奥歯のあとに、人工の歯を2本ほど、インプラントとという方法で埋め込めば、85才ぐらいまで、それで不自由しないでしょうと言われました。あまり歯医者さんにはかかったことはありませんでしたが、これを機会に、長期戦でお願いしようと思いました。

歯科衛生士の方が、差し当たって、歯石をとっておきましょう、これは歯周病の悪化の原因にもなりますから、と言って、私の口の中をのぞき込みました。「○○さん、いつも、右の奥歯で咬んでいませんか」の質問がありました。そうです、右が咬みやすいので、でも何でわかるんですか、と聞きますと、「歯石が右側の歯にはほとんどないですが、左側にいっぱいありますから」えっ、どうしてですかと尋ねますと、「咬んでいる方に重点的に唾液が行き渡り、それがお掃除してくれて、歯石をつくらせないのです」とのことでした。

面白いものですね。人間の器官は、普段使わないところには、余計な力を差し向けけないように調節しているのですね。唾液線は、用をたしていない奥歯には、お掃除用の唾液を回していなかったのです。働かない歯は、歯石を貯めて、早く歯周病になって抜かれてしまえ、と言っているようですね。こわいですね。

ということは、この調節機能は、口の中だけでなく、あらゆる器官がもっていると考えた方がいいですね。頭の細胞も使わないと、どんどん減っていく言います。身体の、あちこちの器官も休ませてはいけないということです。今後、目を光らせて、なるべく使うようにしようと思いました。

もっと、大きなところでは、最近の社会も歯石がいっぱい溜まってきている状態かもしれませんね。学校へ行かない子や勤めにつかない若者が多いのも、「唾液」が十分社会のすみずみまで回っていないということでしょうか。

「見てください、これが歯石です」との声に、目を向けますと、白い紙の上に、少し黒っぽくなった石灰の固まりのようなものが数個ありました。大部分は粉状にして除去しますが、いくつか目にみえる形のものを見せてくれたのです。ちょっと前まで、私の身体の中に一緒に暮らしていたこの歯石がいとおしくなりました。供養したいので、貰えませんかと言おうと思ったのですが、あきれた顔をされそうなので、止めました。

帰り道、ちょっと反省しました。食事の際、口の両側で平等に咬んでいてあげれば、左側の奥歯に歯石が溜まることはなかったはずだ、そうすれば、今日のように、歯石に惨めな思いをさせることはなかった、と思いました。また左奥歯の立場を考えると、また気の毒だ、唾液を奥さんだとすると、数年間、奥さんにかまってもらえなかったことになる、ふてくされて歯石という愛人を囲うのも無理がないかもしれない、とも思いました。

今日からは、左の奥歯にも、十分唾液を回してあげ、二度と奥歯にやけをおこさないようにさせたいと思います。小さな歯石にいろいろ教えられた一日でした。

(写真は雪の歯石、つららです、先日の鶴の湯の旅館で撮りました)

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乳頭温泉郷 鶴の湯

2006-12-09 12:35:07 | Weblog
鷹ノ湯からマイクロバスで乳頭山麓の鶴の湯に向かいます。すっかり晴れ上がり、車窓から見える雪景色は素晴らしく、誰もみな、沈黙して、ただただ眺めるばかりでした。秋田杉の緑の葉に、まるでクリスマスツリーのように、ふんわりと乗かっている雪、落葉樹の枯れ枝には、早春のこぶしのように咲き乱れる雪の花、ときどき、風に揺れ、舞い落ちる雪、風花のように懐かしい、たわわの赤い柿の実が雪景色にあざやかなこと、近くの禿山を覆う雪は、恥ずかしそうに、てかてか光っている、遠くの奥羽山脈の山々が銀色に輝き、神々しい、そんな、多彩な雪景色が次々現れ、飽きさせませんでした。

途中、角館の旧家で昼食をとり、地元の主婦の方から、いろり端で角館の歴史物語を聞きました。秋田藩の殿様、佐竹氏は、もともと常陸の国(茨城県)を治めていましたが、関ヶ原の戦いのとき、あいまいな態度をとったため、家康から北国への配置換えを命ぜられたそうです。佐竹氏は、自分の弟、芦名氏(常陸の江戸崎城主)に角館を治めさせたそうです。これに関連して、茨城県民の笑い話として、こういうのがあります。茨城県に美女がいないのは、佐竹氏が、そのとき美女をみな秋田に連れて行ってしまったからだというのです。私も現役時代は茨城でしたので、弁明しますが、私の地元採用の秘書の方は女優の小雪似の美人でしたよ。・・・でもお父さんは秋田出身と言っていたっけ(汗)・・

雪に埋もれた鶴の湯温泉に到着しました。入り口の、すぐ右側に、時代を感じさせる、茅葺きの本陣と呼ばれる宿泊施設が目に入ります。その昔、湯治にこられた藩主の佐竹氏の警護のためにここに詰めていたという、350年前のたたずまいがそのまま残っています。部屋の中を覗くと、懐かしい、いろりがあり、ランプが下がっていました。私達が泊まる部屋は、新本陣という棟で、ここは少し現代的で、蛍光灯で、暖房もあります。でも自家発電のため、どの棟にもテレビはありません。

ここの温泉の目玉は、なんと言っても、混浴露天風呂です。人気露天風呂の全国1位だそうです。すぐそちらに向かいます。ワイフは混浴は、ちょっと様子をみてからと、女性専用の露天風呂や白湯、黒湯の温泉はしごをすると出かけました。

脱衣所は男女別々です。裸になって外に出ると、乳白色の温泉をたっぷり湛えた広々としたお風呂(こんな広い露天風呂は初めてですね)が目に入ります。入ってどっぷり浸かります。首だけが出る、ちょうど良い深さです。下は砂利になっていますが、そこから、ぶつぶつとお湯が湧き出ている箇所がいくつもあります。湧き水のようです。そこに座ると、熱くて気持ちがいいです。

ぬるめの湯で、長湯ができます。まだ3時過ぎだったせいか、3人ほどの男客だけでした。のんびりと、広い浴場のあちこちを移動したり、雪景色を眺めたりしていました。そのとき、突然、きゃきゃという女性の声が聞こえてきました。二人ずれが入浴してきたのです。明るい昼間には来ないかと思っていたので驚きました。でも考えてみると、乳白色の湯なので、首から下はなにも見えませんので、安心なのです。タオルを頭に載せた、ふたつの首が、あひるのように、こちらに近づいてきます。どちらも二十代の若い女性でした。ついてますね。ひとりは、細身の(肩が少しみえるので推測がつきます)小雪似の美人でした。もう一人の人は、肉付きのよい健康美の、藤山直美のような、ぎょろっとした目の人でした。二人は、男性の目を気にせず、くつろいでいました。

もちろん、夜にも入りました。夜は、首の下はもちろんですが、暗い照明しかないので、首の上も分かりません。これなら女性も安心して入れます。ワイフも入りました。暗闇の中で、女性のおしゃべりばかりが聞こえ、まるで女湯に間違って入ってしまったのではないかと錯覚しました。ふと夜空を見上げると、いざよいの月が、こうこうと私を照らしていてくれました。

朝風呂は雪の中でした。途中で元気な若い女性陣が入ってきましたので、つい長風呂になってしまいました。どうもこのとき湯冷めをしたらしく、帰ってから風邪をひいてしまいました。昨日は1日、おとなしくしていました。







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雪見の露天風呂 鷹の湯

2006-12-08 12:16:30 | Weblog
県境の長いトンネルを抜けると雪国であった、どこかで聞いたフレーズですね。でも本当なのです。正確にいうとこうです。東北新幹線の古川駅から、私達の「秘湯を巡る旅」のグループを乗せたマイクロバスは、鳴子温泉を横にみて、いくつものトンネルを越えて、最後の長いトンネルに入ります。その途中に、宮城県と秋田県の県境の標識がみえました。そのトンネルを抜けると、それまでも雪景色だったのですが、急に積雪量が目立ち、いかにも雪国という感じになったのです。

鷹の湯温泉は、秋田県の秋の宮温泉郷に位置する、渓流沿いの一軒宿で、何と1200年の歴史があります。行基上人が発見し、その後、鷹がこの湯で傷を癒していたという伝説から鷹ノ湯と呼ばれるようになりました。明治18年に、小山田さんが温泉宿をつくり、現在まで続いている秘湯なのです。

3時すぎに旅館に着き、私は、真っ先に、川辺りの野天風呂を目指しました。雪道で足下のこともあるし、明るいうちが良いと思ったのです。一応、混浴ですが、女性は勇気がいるようなところです。ワイフは別の女性専用露天風呂に向かいました。

誰もいませんでした。川岸の砂利を掘って岩で囲いをした、野趣あふれる野天風呂です。簡易な脱衣所で裸になり、そこの温泉に入ります。ちょうどいい温度です。筒から、どくどくと熱い湯が流れ込んでいます。落ち葉がひっかりましたが、足を思いきっり伸ばし、前の景色を眺めます。瀬音ゆかしきといった感じの渓流が目の前を流れます。滝の音も快く響きます。そして、なによりも、素晴らしい雪景色に圧倒されます。渓谷になっていますので、雪をたっぷり、のせて思いっきりお化粧した木々たちが、覆い被さるように、私ひとりのお客にサービスしてくれます。こんな雪景色の中で野天風呂に入った経験は初めてです。長く生きてきましたが、いろいろ知らない世界があるのですね。

早朝は、旅館に隣接した露天風呂に入りました。ここからも、息を飲む景観が広がっています。その夜、雪が降りましたので、その新雪が、一層、渓谷の木々たちの美貌にみがきをかけます。そして、何と、私の好きな、月が、それも満月が西の空にくっきりとその姿をみせてくれました。早朝の月ですから、白っぽい、謙虚な月です。しばらく、日本の美の代表、雪と月を交互にみて、透明な、無味の水のような、温泉を口に含んだりして楽しんでいました。五感で楽しみました。そのときも、お風呂は、偶然、私ひとりでした。月は私が立ち去る頃、役目は済んだわ、とばかり雲に隠れました。可愛いもんですね。

そして、私達は次の秘湯、鶴の湯に向かったのでした。


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汀女さんの江津湖

2006-12-04 21:45:17 | Weblog
その日は、小春日和のとても気持ちの良い日でした。熊本県立図書館の裏庭の「星の王子様」の碑を見学したあと、川沿いを江津湖方面に向かって歩き始めました。

バナナのように生い茂る芭蕉園を横にみながら、歩いているとき、ふと、ワイフが自慢そうに、中村汀女さんは、自分の高校(旧高等女学校)の先輩で、江津湖畔の出身なのよ、と言っていたことを思い出しました。あれほど著名な女流俳人なら、きっとこの湖畔に彼女の句碑があるはずだと思いました。私は割と勘がいいのです。やはり、すぐにその碑が目の前に現れました。

「つつじ咲く 母の暮らしに 加わりし」の句がしっかりと刻まれていました。年老いたお母さんが、お一人で永くここに住まわれていて、遠方から汀女さんは、たびたび、訪れています。ワイフの子供の頃の記憶によると、貞女さんが帰郷するたびに、地元の熊日新聞が、報道していたそうです。この句もそのときので、帰郷14句のひとつだそうです。お母さん思いで、母恋い俳人の異名もあります。案内板に、この碑は、はじめ対岸の生家の前にありましたが、生誕100年を期にここに移設しました、とありました(生家は取り壊されたようです)。

女学校を卒業し、すぐの頃、自宅の廊下を拭いているとき、ふと振り返った庭に咲いている菊がぽつんと咲いているのに気づき詠んだ句、「吾に返り 見直す隅に 寒菊紅し」が認められ、虚子の門下に入ります。虚子の娘さんの星野立子さんと一緒に勉強したようです。才能があったのですね、すぐにホトトギスの同人になり活躍をはじめます。大蔵省勤務の人と結婚したあと、全国あちこちに転勤します。一時、休んだときもありましたが、確か、横浜の野毛の官舎に来てから再開したと、なにかで読んだことがあります。野毛公園にも句碑があり、「蕗のとう、思い思いの夕汽笛」と刻まれています。

句碑をあとにして、水鳥の遊ぶ、きらめく湖を見ながら、またイチョウやメタセコイア、落葉樹の紅葉を楽しみながら、先に進みました。この辺りは、昨日の記事で頂いた、かよさんのコメントのように、湧き水の多いところです。神水の泉というのを見つけました。ここでおいしいお水を、長生きしますようにと、いただきました。前日訪ねた、水前寺公園の中にも「神水」の泉があり、それが長寿の水とも呼ばれていたのを思い出したからです。ワイフがよく、熊本のお水は日本一おいしいと自慢していますが、これだけ湧き水が豊富なところですから、信用しても(笑)いいかもしれませんね。

江津湖は、二つの湖がひょうたんのようにつながった形をしていますが、もう一方の湖のほとりを、さらに歩いていきますと、動植物公園の前に出ます。驚いたことがあります。ここまで来る間、7つか8つの句碑(歌碑もあったかもしれません)を見つけたことです。素人の私には、知らない方ばかりのでしたが、きっと江津湖にゆかりのある方ばかりなのでしょう。こういう美しいところに住むと、みな詩人になるのでしょうか。もちろん、汀女さんの存在が大きかったでしょう。みなさん、汀女さんの背中をみて、必死に追いかけてきたのだと思います。

清らかで、豊かな水をたたえ、暖かく包み込むような、江津湖が、中村貞女さんのお姿そのものにみえた1日でした。

・・・・・・


汀女さんの旧宅に近い世田谷区立羽根木公園の中にも句碑があります。 私は月が大好きですので(今夜の月も満月に近い、いい月でしたね)、この句が気に入りました。ワイフの高校の同級生は、この近くに住んでいて、毎朝、偉大な先輩の句碑にお参りする(笑)のを日課としているそうです。
  
   外にも出よ ふるるばかりに 春の月 (汀女)
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星の王子様

2006-12-03 11:51:22 | Weblog
先日、法事で熊本に行ったときに、ひとりで、水前寺公園から江津湖周辺を歩きました。そのとき、県立図書館のそばで、「星の王子様」の碑はこちらです、という案内板を見つけました。えっと思いました。サン・テグジュベリが熊本と、どういう関係があるのだろうと、わくわくした気持ちでその碑の前までたどり着きました。

その碑には、こう記されていました。「星の王子様 内藤濯文学碑」。翻訳者の方が熊本ゆかりの人だったのです。説明文に、内藤氏は明治16年7月7日熊本市生まれ、昭和28年初版で、50年間で600万部、内藤氏生誕120年とサン・テグジュベリ没後60年を期に記念碑を設立、とありました。日付をみると2005年11月27日とあります。まだ出来て1年の新しい碑でした。

その碑には、「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを 忘れずにいる おとなは いくらもいない」という有名な訳文が刻まれていました。そして、内藤氏自身の、「いずこかに かすむ宵なり ほのぼのと 星の王子の 影とかたちと」の和歌も添えられていました。

熊本から帰って、本箱を探しましたら、「星の王子様」は残っていました。「残っていました」というのは、私は、昨年の定年退職と引っ越しを機に、蔵書の8割ぐらいを整理しましたので、愛着のある本だけが残っているというわけです。岩波少年文庫版で、昭和45年12月32刷のものでした。

40年代後半というと、私は社会人になっており、まだ独身でした。そのころの世間は、何かと騒々しかった印象があります。学生運動はまだ燃えさかっていましたし、どの職場でも組合活動が盛んで、動員で集会などにも行ったものでした。そんな中、いろいろ考えることもあったのでしょう。ふと、この本を買っていたのでした。

星の王子様は、家の大きさくらいの小さな惑星に、バラと一緒に住んでいましたが、ちょとしたいさかいが元で、他の星めぐりをすることになります。家来がいないのに威張りくさっている王様の星、誰もが自分をほめてくれると思いこんでいるうぬぼれ男の星、星の数を帳簿に記入して、自分の所有物だと主張する実業家の星、街灯を決めた時間につけたり消したりしている点灯夫の星、(これはあまり書きたくないのですが)酒を飲む自分が恥ずかしいといって飲み続ける飲み助の星、等々の星を巡り、地球に到着し、砂漠の真ん中で遭難している飛行士と出会います。おとなって、ほんとにへんだな、おかしいな、と王子様は、旅をつづけながら、むじゃきに思います。

昨日、鎌倉の図書館で、偶然、内藤濯(あろう、と読むそうです)さんのご子息の内藤初穂さんの書かれた「星の王子の影とかたち」という本を見つけました。いろいろなことが分かりました。内藤濯さんは名門の医家の四男として熊本城下で生まれ、幼少年期を過ごし、大学ではフランス文学を専攻し、パリにも留学されたようです。大学の先生を退職し、なんと70才になって、石井桃子さんの紹介で、この本を翻訳したそうです(すごい、勇気がでる(笑))。鎌倉にもお住まいになったことがあり、94才で亡くなられ、鎌倉霊園に眠られているそうです。童話に造詣の深い、美智子様も愛読され、皇太子妃の頃、はじめに紹介しました内藤濯さんの和歌に曲をつけて下さったそうです。生前、内藤さんは、折にふれ、愛唱されていたそうです。

現役時代は、星の王子様になりたくっても、なかなかなれません。へんだな、おかしいなと思っても、組織で決めたことだから、しょうがない、と流されてきました。自分でそう決めたこともあります。でも、今は違います。へんだな、と思うことはする必要がありません。これからは、おとなって、ほんとにへんだな、おかしいなと言われないようにしたいと思います。でもお酒だけは別ですよ。



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