気ままに

大船での気ままな生活日誌

周防正行監督は面白い

2007-04-14 18:21:27 | Weblog
周防正行監督の作品は、10年ぐらい前の海外出張の帰りの飛行機の中で初めて観ました。「Shall we ダンス?」です。きまじめな役所広司とおかしな竹中直人の絶妙な演技に、思わず、何度も吹き出してしまいました。思い出し笑いがしばらく続いた、本当に面白い映画でした。その周防監督が、10年ぶりに映画をつくったというので藤沢の映画館に観にいきました。

「それでもボクはやってない」です。えっ、これが、「Shall we ダンス」や、「四股ふんじゃった」(これも面白かったです)の周防監督の作品?と思うほど、笑いの全くない、”暗い”映画でした。最後くらい、ハッピーエンドにと願いましたが、主人公(加瀬亮)の痴漢えん罪は晴れず、懲役3月の判決で幕を閉じます。

封切り前にはよく監督やら主演俳優が宣伝のために、テレビに出ますが、その何かの番組で、周防監督は、日本の刑事裁判はおかしい、みんなに知らせたい使命感でこの映画をつくったというようなことを述べていました。

たしかにそういう映画でした。まるでドキュメントのような、”クローズアップ現代”のような、映画らしくない映画でした。でも監督の使命は十分伝わりました。刑事裁判のいいかげんさ、というか、とくに物証の少ない痴漢えん罪の判決の困難さ、がよく分かりました。裁判に持ち込んでも、無罪を勝ち取る可能性がほとんどないという現実には驚きましたし、疑わしきは罰せずという言葉の意味の重さも再認識しました。

この映画をみて、ボクは周防監督は面白い、と思いました。次ぎの作品がとても楽しみです。周防監督を松坂投手に例えれば、”ダンス”と”四股”で、外角低めの変化球で振らせ、”それでもボクは”は、打者の胸元への強速球のボール球でのけぞらしたところだと思うのです。次ぎの作品では、何を投げて、三振させるのでしょうか、おそらく、近めを意識させたあとは、幅広いストライクゾーンで見逃し三振を狙うのではないかと思います。

どんな作品だって?びっくりするような、ジャイロボールみたいな、面白い娯楽作品だと思いますよ。私の予想では、周防監督の初めての監督作品「変態家族の兄貴の嫁さん」に近い作品になると思います。初心に帰ると言いますからね。

周防監督は小津安二郎監督を学生時代から尊敬していて、監督第一作はぜひ、小津作品のリメイクでと、「晩春」の続編をつくったのです。晩春では、原節子がお嫁入りするところで終わるのですが、この作品は、もし原節子の嫁入り先が変態家族であったら、どういうことになるかというピンク映画なのです。この映画が完成した時、周防監督は、円覚寺の小津監督のお墓に参り、どうもすみません、こんな結末にしてとお詫びしたそうです。

第一作の「変態家族」は、僅かな予算で、そしてごく短期間で完成させたそうです。著名な監督となった周防監督の次回作には、同様なテーマでも、相当の予算もつくでしょうし、じっくり時間もかけられます。役所広司や竹中直人等の大物俳優の出演もあります、若いとき、やりたかったけど出来なかったことを思い切りやるでしょう。「変態家族」のリメークでアカデミー賞総なめするような、すばらしい娯楽作品をつくって欲しいと思います。

・・・・・
藤沢にはふたつの映画館がありました。そのひとつ、藤沢オデヲン(写真)が、この3月で閉館となりました。私は映画館のデパートみたいなのより、街の小さな映画館の方がずっと好きです。散歩がてら、ちょっと映画をみたりするのは、楽しいものです。さようなら藤沢オデヲン。










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妙本寺の海棠に想う

2007-04-13 09:33:40 | Weblog
写真をごらんください。私は鎌倉比企が谷の、妙本寺の本堂の数段の石段を上がりきったところに座っています。そして、柵に囲まれた、もう盛りを過ぎて、はらはらとピンクの花びらを散らしている海棠をみています。もう手前の八重桜が、そろそろ見頃を迎えようかとしています。

もう、7~80年前に、小林秀雄と中原中也が、ここに座って、あの海棠をみていました。でもこの、今の海棠ではないことは、小林の「中原中也の思い出」から知ることができます。小林は、中也が亡くなったあとも、中也と一緒にみた、ここの名木を毎春のようにみにきています。ある年、例年になく見事な、でも少し小ぶりな、華やかなピンクの花を枝という枝に余すことなく、つけたそうです。それはそれは名木に恥じない見事なものだったそうです。ところが、翌年、突然、枯死してしまったそうです。あれが死に花だったかと小林は述懐しています。今、私がみている海棠は、その名木の子供なのです。でも同じ場所で、名木の命をつないでいます。

小林が中也の”情人”を奪い、その後、彼女と同棲生活に入りましたが、彼女に振り回され、うまくいかず、小林も中也も苦難の日々を送ります。月日が流れ、互いに別の女性と結婚し、落ち着いた、8年後にここで、久し振りの再会をしているのです。

ふたりは、名木の海棠の花の散るのを黙ってみていました、ちょうど今頃でしょうか。「花びらは死んだような空気の中を、まっすぐに間断なく、落ちていく・・あれは散るのではない、散らしているのだ、ひらひら、ひらひらと散らすのだ。きっと順序と速度も決めているに違いない」などと思いながら、小林はうす紅色の花びらの散りゆくさまを見つめていました。中也が突然、もういいよと立ち上がります。何もしゃべりませんでしたが、でも、ふたりの間に、聞こえないことばが交わされました。この日がふたりの”和解”というか区切りの日だったのです。

そのあと、中也は昭和12年、30才の若さで夭折しますが、それまで小林は、同じ鎌倉に住む中也と家族ぐるみでつきあいます。また、中也の最もよき理解者となります。彼の死後、「夭折したが、彼は一流の叙情詩人であった、横文字詩集の影響を受けて詩人面した馬鹿野郎どもから、いろいろな事を言われながら、日本人らしい立派な詩をたくさん書いた・・時代病や政治病の患者が充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの叙情の深さが必要であったか、その見本のひとつを掲げておく」と雑誌「手帖」に追悼文を書いています。そして、「六月の雨」と題した、叙情的な詩を末尾に紹介しています。中也は未発表の詩を小林に預けてなくなりました。小林の尽力で、のちにそれらは、詩集「在りし日の歌」として発刊されたのでした。

私は海棠の見頃には、必ず海蔵寺とこのお寺を訪れます。今年は、帯状疱疹という思いがけない病にかかり、しばらく歩けず、見頃を逸してしまいました。でも、おかげで、小林と中也がみた、薄紅色の花びらがはらはらと散る時期に訪れることができました。それと、ちょっと、付け加えておきますが、家に帰って、小林秀雄さんの本を読み直してみましたら、ふたりが座っていたのは、アップした写真の、左下にちょこんとある、石の上でした。右の方にも同じような石がありますので、それぞれの石に、右近の桜、左近の橘のように座っていたのでしょうね。

・・・
帰りに寄った、駅裏口の本屋さんで、雑誌”太陽”が、中原中也生誕100年記念特集号を出しているのを知りました。

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伝説のはじまり ダイスケ対イチロー

2007-04-12 16:34:58 | Weblog
待ちに待った、松坂対イチローの世紀の対決が今日みられました。いよいよ新しい伝説の始まりです。

片や、鳴り物入りでレッドソックスに入団、早くも大リーグ屈指の投手と呼び声の高い、松坂投手。そして、一方は、大リーガー7年目、首位打者2回、6年連続の200安打、オールスター出場、ゴールドグラブ賞選出、そして最多安打記録、MVPと輝かしい実績をもつ、イチロー選手。

こんな、すごい日本人同士のライバル対決は、これまで、みたこともないし、これからも100年ないでしょう、空前絶後といっていいと思います。

その究極の、歴史的なライバル対決の始まりをライブで観戦できるということは、大変な幸運なのです。もし、私が現役なら、この日は絶対、年休ですね、どんな大事な仕事があっても、午前中は休みますね。のこのこ、この時間に会社に行っているような奴は、日本人じゃないですね(笑)。

第一球は剛速球のストレートでいって欲しかったですね。カーブでした。でも第一打席はPゴロで打ち取り、松坂の勝ち。第2打席もセンターフライで松坂。第三打席は封印していたフォークで三振で、また松坂の勝ち。第4打席もセカンドゴロで、4-0で押さえ込みました。4-1なら引き分けにしますが、4-0で歴史的第一ラウンドは松坂の勝ちになりました。

松坂はどうもイチローに精力を使いすぎたのか、城島にも2塁打2本打たれるなどして3失点、全体にはピッリとしませんでした。でもそんなことはどうでも良いことです。勝ち負けは時の運、今日だって、ヘルナンデスにあれだけ投げられれば、勝てませんよ。城島のリードも冴えてましたね。

今日の試合は勝ち負け関係なしです。宿命のライバル対決の始まりをみただけで十分、価値のある試合でした。

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鎌倉の西行

2007-04-11 18:27:36 | Weblog
数日前、吉野の桜と西行について記事にしましたが、その翌日は連想ゲームのように、大磯の鴫立庵のことを紹介しました。まだその連想ゲームが断ち切れず、今日も西行の話題になってしまいました。

西行が鎌倉を訪れたときに、頼朝に銀製の猫を贈り物としてもらいましたが、それを遊んでいる子供にあげてしまったという有名な話があります。今日ふと、その季節はいつだったのだろうか、と気になって調べてみました。もし今頃の時期なら、当時の鎌倉の山々の山桜を観ていたかもしれないと思ったのです。

「吾妻鏡」という史書は、いうなれば鎌倉幕府の日記帳です。その日に起こった事件や出来事をこまめに記載していますので、それを調べれば簡単に分るのです。

今頃ではありませんでした、夏の暑い盛りでした。よくよく考えてみれば、今頃に西行が鎌倉に来るわけがないですね。吉野山に籠もって、桜三昧のはずですね。文治2年(1186)の8月15日の終戦記念日(笑)に鎌倉を訪れています。以下にその幕府日記帳を要約してみます。

「頼朝が鶴岡八幡宮の参拝の帰路、路上で徘徊している一人の老僧をみつけました。名を聞くと、あの西行法師だといいます。頼朝は法師を屋敷に招き、夜中まで歓談しました。兵法と歌の道について教えを請いますが、法師は出家したときに家伝の兵法書も捨て、今はそういう知識はない、また歌の奥義などというものもない、ただ、心に感ずるまま、31字に書き連ねるだけ、とすげなく答えました」

そして翌日の日記帳です。「西行法師は、引き留められましたが、それには応じず、退出しました。頼朝は銀製の猫を贈り物として西行に与えましたが、門を出るとすぐに、通りで遊んでいた童子にそれを与えて、すたすたと去って行ってしまいました。西行法師の今回の旅は、重源上人の願いにより、東大寺の再建勧請のために奥州に向かうためだということで、その途中で八幡宮に寄られたとのことです。ちなみに西行法師は陸奥守秀衡公の一族です」

この文章だけだと、西行が頼朝に会った理由がよく分りませんが、ほかの本によると、西行は奥州の秀衡に貢金をお願いに行くのですが、その邪魔をしないでくれというお願いに行ったのだそうです。そしてその保証の確約がとれ、10月には秀衡からの砂金450両が無事京に到着したのです。西行にとっては、始めから、銀の猫はたいして意味がなかったのです。

私は、別の観点から、西行の行動をブンセキしてみました。15日の頼朝に対する、西行のすげない応対や、翌日、これ見よがしに(結局分って日記に書かれるほどですから)せっかくの高価なおみやげを子供にあげてしまう、こういう行動は明らかに頼朝を嫌っている証拠です。

頼朝を嫌っていた理由はすぐ分りました。「吾妻鏡」という日記帳をめくっていると、この文治2年に、こんな事件が起きているのです。4月8日に”静の舞”が八幡宮の舞殿で行われています。”しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな 吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき”と義経を慕って歌い、頼朝の怒りを買い、静御前は幽閉されます。そして、7月29日、静御前、男子を出産しますが、その子は将来の争いの種になるという理由で由比ヶ浜に沈められます。

西行が訪れたのは、その2週間後となります。当然、そういう情報は耳に入っていたでしょう。それ以前にも、平家追討に功績のあった人気者の義経に冷たい仕打ちをしている情報ももちろん耳にしているでしょう。こんな冷酷非情な頼朝を良く思うはずがありませんね。

所期の目的を達した西行は、苦々しい思いを抱き、さっさと鎌倉をあとにしたのだと思います。鎌倉市民としては、西行さんに、大磯の”鴫立つ澤”のような名歌を残して欲しかったですが、当時の鎌倉には、そんな歌を詠む雰囲気はなかったのでしょう。

・・・・・
写真は、佐助川に架かる「裁許橋(さいきょばし)」です。付近に幕府の門注所があり、訴訟を裁許(判決)したことから名付けられという伝えがあります。門注所は、現在の鎌倉市役所と御成小学校の辺りにあったようです。一方、むかしは西行橋(さいぎょうばし)だったのが、「さいきょばし」になったという伝えもあります。この橋で頼朝に呼び止められ、名を尋ねられたというのです。八幡様にお参りし、門注所に寄って出てきたときに西行をみかけた、この説の方が面白くていいですね。

私はもちろん、誰がなんと言っても、”西行橋”ですよ。今日も鎌倉図書館の帰り道に”西行橋”に寄って、西行さんと話してきましたよ。ただ、橋のかかっている”今小路”は、鎌倉時代と同様、今も結構賑い、車も多く橋の上でゆっくりできないのが、ちょっと残念ですね。




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越路吹雪ショー

2007-04-10 12:02:44 | Weblog
数日前の朝日新聞の文化欄に掲載されていた、越路吹雪さんの特集記事を読みながら、久し振りに彼女のシャンソンも聴いてみたいなと思っていました。それが、うまい具合に昨晩もう実現しました。NHKの「蔵出しエンターテイメント」の番組で、1976年の「越路吹雪、愛そして」が放送されたのです。

45分の番組でしたが、えっ、もう終わりなの、と言ってしまったほど濃密な、感動あふれるショーでした。「バラ色の人生」から始まり、夫君作曲の「ちょっとおたずねします」などを経て、後半は、アダモの「夢の中に君がいる」、「サン・トワ・マミー」、「ろくでなし」、「ラストダンスは私に」と名曲が続きます。越路さん独特のふるえるような、情感込められた歌声に魅了されます。「ラストダンス」がラストソングかと思わせておいて、流し目で次ぎのメロデーを呼びます。残っていました、名曲中の名曲「愛の讃歌」です。この歌を聴いていると、本当に越路さんはこの歌が一番好きなんだなと感じます。もちろんそれまでの歌もすばらしいのですが、この歌は越路さんにとっても特別なのだという感じが素人の私にも伝わってきます。それだけ聴き手にも深い感動を与えるのでしょう。

直接関係ないことなのですが、先週みた歌番組で春日八郎さんが「逢いたかったぜ」を本当に気持ちよさそうに歌っていましたが、春日さんの、おそらく自分のベストソングは別れの一本杉やお冨さんではなく、それで、越路さんのそれは「愛の讃歌」なんだと思います。

私が、越路吹雪さんに関心を持ち始めたのは、若いときの愛読書のひとつであった、草柳大蔵さんの「実力者の条件」シリーズで、越路さんのエピソードの数々を知って以来だと思います。今も私の本棚にありますので、開いてみますね。

舞台だけみていると、すごいしっかりした姉御肌の女性にみえますが、日常生活はひどいらしいですよ、なにも出来ないらしいです(笑)。ご主人の内藤さんまであきらめの境地に入って「とにかく珍しい動物を飼っていると思っています」と話していたそうです。

29才のとき、単身でパリに行きますが、ホテルの予約もしていなくて、そのときパリに滞在していた、小林秀雄さんと今日出海が身元引受人になって、自分のホテルに泊めてあげたそうです。そこでも面白いエピソードがあります。夜、部屋の外にあるトイレに行って、自動ロックされてしまった部屋に戻れないと言ってネグリジェ姿で今さんのドアをノックしたそうです。ホテルの人に開けてもらってなんとか収まりました。そして数時間後、またノック。またやっちゃたと、今度は泣き顔の越路さんがドアの外にいたそうです。

そのパリで、越路さんは藤浦洸さんにエディット・ピアフのリサイタルに連れていってもらいます。舞台をはねてからの彼女の興奮ぶりがたいへんだったそうです。劇場を囲む森の中で「アレンジよ、これからはアレンジよ」と、腕を振ったり、足を上げたりしながら叫んでいたそうです。まるで月に向かって吠えているようだった、と藤浦さんは語っていたそうです。先日の新聞の特集では、この日の出来事を越路さんの日記からと、こう紹介しています、「ピアフを二度聞く、語ることなし、私は悲しい、夜、ひとりで泣く、悲しい、淋しい、私には何もない、何もない、私は負けた、泣く、初めてパリで」。この若き日の、パリの一日が、その後のシャンソン歌手としての大成に大きな意味をもつことになります。そしてピアフの「愛の讃歌」が越路さんのベストソングになるのです。

越路さんは、語るようにシャンソンを歌いたい、そのためには日本語訳で、と早い時期から考えていたようです。そして、現在も91才でお元気な、岩谷時子さんが、すばらしい日本語訳をつけてくれて、越路さんの希望に添った、日本のシャンソンが出来上がったのです。

越路さんは若いときの日記に、「七十才まで、私は歌を歌おう、七十才にならなければ歌えぬ歌があるはずだ」と書き付けていたそうです。56才の若さでお亡くなりになりましたが、今もご存命であれば、”80才の愛の讃歌”をしみじみと聴いてみたかったです。






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ふたつの桜並木

2007-04-09 19:39:49 | Weblog
鎌倉八幡さまの段葛の桜並木はもうほとんど葉桜になっていたよ、とお茶会から帰ってきたワイフが教えてくれました。それにしても、私の家の近くの砂押川沿いのソメイヨシノの桜並木は、たいしたもんだと思います。まだまだ十分花をつけています。もちろん柔らかい若葉も大分開いてはきましたが、それも、山桜風味でなかなかいい味を出しています。

鎌倉とわが大船、いくらも離れていないのに、同じソメイヨシノで何故こんなに違うんだ、と誰でも思いますよね。

開花が向こうの方が早かったのではないかって?とんでもございません。うちが先です。私が綿密な調査をしています。むしろこちらが2~3日は早いです。3月19日に初めての開花1輪をみつけています。早く開いて、遅くまで咲き続ける、このエネルギーはいったい、どこからくるのでしょうか。段葛と砂押川の、ふたつの桜並木の”比較研究”をしてみました。

ふたつの桜並木の相違点をあげてみましょう。1)段葛の桜並木は両側が車道で中央が歩道;砂押川の桜並木は両側が歩道で、中央が川 2)段葛の人出は砂押川のおそらく100倍ぐらい 3)段葛は夜桜見物仕様になっているが砂押川は街灯だけ4)段葛の桜は神主さんの心が、一方、砂押川の桜は松竹の女優さんの心が染みこんでいる(昭和11年に大船松竹撮影所落成記念樹として植えられた)・・こんなところでしょうか。

まず、1)です。誰がみても段葛に負担が多いですね。車の排気ガスと人の廃棄ガス(笑)で、いつもハナをつまんでいます。これじゃハナもすぐ落ちるわけですね。冗談を抜きにしても、この環境の違いは大きいでしょうね。また、中に川が流れていることは有利に働くでしょう、たぶん昼間気温も低く、ハナモチもいいでしょう。ハナモチならないって?

2、3)これも段葛が不利です、桜だって人と同じだと思うのです、これだけの人が往き来すれば、それだけで人疲れするでしょう、それに無理な夜間勤務も疲れますね。夜中まで明るく提灯を灯されて、これでは、ゆっくり眠むれませんね、睡眠時間が足りなかったのでしょう。

4)は精神論の比較です。これは華やかな花の時期をどう評価するかという、評価基準の違いですね。神主さん桜は、華やかな花の期間を重視しません。むしろ、目立たない、わび・さびに通じる、葉桜の方を高く評価します。従って、少しでも早く葉桜へ移行しようと考えるのです。一方、女優さん桜は、少しでも長く華やかな花の時代を続けたいと考えます。葉桜になることは現役引退を意味するのですから、そう考えるのは無理ありません。こういう桜自身の、意気込みというか、やる気というか、精神的なものも、桜のハナモチに影響しているのだと思われます。

というわけで、砂押川沿いの桜並木は、段葛の桜並木よりも、環境的にも、精神的にも、いずれにおいても優位に立っています。これらが、砂押川の桜がまだまだ元気に頑張っていてくれてる理由だと思うのです。

・・・・・
写真は今日の砂押川の桜です。まだまだでしょう。エライさくらです。

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鴫立庵

2007-04-08 18:15:43 | Weblog
昨日、吉野の桜に思いを馳せているとき、西行のいくつかの桜の歌を思い出しました。桜の歌もいいですが、西行の歌といえばやはり、「鴫(しぎ)立つ澤」でしょうか。

心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ澤の秋の夕暮れ

西行のような高度の感性がなくても、自分の身の丈の感性で、この歌から、秋の夕暮れの”あわれ”を十分感じることができます。

私は鴫の群れが澤を一斉に飛び立つ風景をみたことがありませんが、多分、こんなふうなのかと思ったことがあります。それは京都の鴨川の土手を、荒神橋から上流に向かって歩いているときに、途中で何十羽もの白鷺が川縁で羽根を休めているのを目にしました。数羽程度の白鷺なら、いつも、近くのいたち川でみていますが、こんなに群れている白鷺をみたのは初めてでした。その白鷺の群れが突如、一斉に羽音をたてて飛び立ったのです。その静から動の鮮やかな景観の変化、そしてまた、飛び立ったあとの静かな川辺の風景、とても印象に残る風景でした。もしこれが晩秋の夕暮れであったならば、さらに感慨は深まったことと思います。

「鴫立つ澤」の歌は、大磯の漁港にほど近い場所で作られたといいます。その場所に、鴫立庵が江戸時代につくられ、現在に至っています。小田原の俳人、崇雪が草庵を結んだのが始まりだといいます。京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。

この鴫立庵を私は何度も訪れています。西行時代の風景を望む方が無理ですが、鴫立庵入り口のそばを流れる小川に架かる小さな橋に腰をかけ、できる限りの想像力を駆使して、澤を飛び立つ鴫の風景を追いかけたものでした。

白州正子さんの祖父の方がこの隣りに住んでいて、白州さんは子供の頃、週末ごとに訪れては、すぐ近くの浜辺や、となりの鴫立庵の庭で遊んでいたそうです。その頃の風景は今と違って、自然もたっぷり残っていたでしょうが、その付近で鴫をみたことが一度もなかったそうです。私は、西行は、別のところの風景を歌ったのではないか、あるいは想像の風景ではないかとも、思っています。そんなことはどうでもいいことだと思います。やっぱり歌の中では鷺や鶴では、リズムが悪いし、ここでは鴫しかありませんね。

白州正子さんはのちに「西行」を著わすほど、西行に思い入れを強めるようになります。小林秀雄さんも「西行」の名評論を残しています。西行が縁で(笑)、小林秀雄さんの娘さんが白州家にお嫁入りしました。そのご子息が白洲信哉さんで「小林秀雄、美と出会う旅」を編集しています。白州信哉さんの友人に茂木健一郎さんがいます。茂木さんは脳科学者でかつ文筆家でもあります。「脳と仮想」で第4回小林秀雄賞を受賞しています。数ヶ月前、近くのレストラン「ミカサ」でかつめしを食べているのを目撃しましたよ。仕事で大船に来ていたのでしょうか。今日、選挙を終えてから、私も、ここでかつめしを食べました。ワイフはチキンライスにオムレツがのっている、オムライスを食べました。おいしかったですよ。

西行の代表作とも言われる、”鴫立つ澤”の歌枕が、私が気軽に訪れることができる、近場の大磯の地にある幸運を嬉しく思います。また、足の痛みがひいたら訪れ、西行さんと桜談義でもしたいと思います。
・・・・
写真は鴫立庵から、歩いてすぐの、白州正子さんも子供の頃遊んだ大磯の海岸です。以前訪れたときに、鴫立庵の写真を撮っていたはずなのですが、見つからないので、これにしました。





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吉野の桜を想う

2007-04-07 18:06:30 | Weblog
ぼくは数日前から療養中なのですが、本当は今日あたり、吉野の山で山桜をみているはずなのです。こちらに越してきてから、ぼくはすっかり山桜のフアンになってしまい、今年は是非、日本一の山桜の山、吉野山を訪ねようと、もう年明けすぐから計画していたのです。

吉野山の桜といえば、西行法師がすぐ思い浮かびます。ぼくは和歌をやるわけではないのですが、むかしから西行さんが好きで(桜好きの”同類”と思ったのでしょう)、西行さんが桜の季節になると籠もったという吉野山に、花の季節に是非一度と、思っていたのです。

それが、突然の帯状疱疹(ほうしん)で、ほうしん変更せざるを得ず、ぼくは、ほうしん状態になり、しんぼうして療養に専念しなければならなくなったわけです。

それで、ぼくは仕方なくなく今日は、先月、鎌倉西口の本屋さんで見つけた、全国の桜の名所を網羅し、写真もとてもきれいな「大人の桜旅」という本を開いて、吉野の桜をみているのです。上千本から蔵王堂を望む景色なんか息を飲むような美しさです。シロヤマザクラの花は白く小ぶりで、赤い若葉も一緒に開き、それで山が薄紅色に染まるらしいです。来年こそぜひ実物をみなければという気持ちがむらむらとわいてきました。そしてそのときは、奥千本の向こうの西行庵も訪れたいと思いました。

そして次ぎに、ぼくは、西行さんの吉野山の桜の和歌を声をあげてよんでみたのでした。桜を想う気持ちがひしひしと伝わってきて、ほんとうに西行さんの心はぼくと同類だと思いました。

何となく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山
春になる桜の枝は何となく 花なけれどもむつまじきかな

吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりけり
花見ればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける

春風の花を散らすと見る夢の さめても胸のさわぐなりけり
吉野山谷へたなびく白雲は 峯の桜の散るにやあるらん
ならひありて風さそふとも山桜 尋ぬるわれを待ちつけて散れ

もろともにわれをも具して散りぬ花 憂き世をいとふ心ある身ぞ

願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃

・・・
写真は、今日、昼すぎに散歩した、近所のお寺の山の、山桜です。吉野の山のミニミニミニ版です。

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松坂大輔 鮮烈デビュー

2007-04-06 17:10:54 | Weblog
松坂がやってくれました。メジャーデビュー戦先発で、7回を投げ、10奪三振の快投、見事勝利投手になりました。ほんとうにおめでとう。

夜明け前の3時に起き出し、リビングの床暖房のスイッチを入れ、テレビの前に座りました。松坂の出番前の投球練習の様子が映し出されていました。アナウンサーが、今日のカウフマン・スタジアムの気温は2℃だ、と言っていました。松坂の指先が冷たそうです。練習中も何度もこすっていました。私はちょっと不安になりました、この寒さでまともな投球が出来ないのではないか、まして応援のない適地での登板だ、いったん崩れたら、大量点が・・そして、しかめっつらをして降板する松坂のトホホの姿が一瞬悪夢のように頭をよぎったのでした。

でも、先行のレッドソックスが1点を先取してくれ、少し気持ちが楽になります。そして、その裏、松坂登板。最初の球はストレート、思った通りでした、打者は振り遅れのファール、いいぞ、・・しかし3球目はねらわれてセンター前に運ばれる、・・あれどうした、不安になります。そして3番打者には四球、で1,2塁・・トホホ・・しかし4番バッターを併殺打に仕留めます。ほっ。

本当に投手を応援するのは疲れますね。自分がまるで投手になったように、一球、一球力が入ってしまいます。今、帯状疱疹の療養中なのに”これじゃ身体にいいわけないね、分っちゃいるけどやめられない”ですね。植木等さんも草葉のかげで笑っているでしょう。

ピンチを脱して、私もほっとしました。そして、松坂もじょじょに調子を上げていきます。4回裏は圧巻でしたよ。2、3、4番の主軸を連続三振です。どうだという顔で引き上げる松坂に私も大きな拍手を送ったのでした。そのあと、ホームランで1点とられたりしましたが、7回もぴしゃりと抑え、勝ち投手の権利をもって、リリーフへバトンタッチ。ベンチに戻る松坂にチームメートがお祝いムードで出迎えます。

そして、最終回です。レッドソックスの守護神パペルボン登板。松坂はアイシングを終え、もうベンチに戻っています。アップした写真はそのときのです。もう勝利を確信している顔ですね。私もゆったりした気分で観戦してました。そのときには3点差ありましたからね。

パペルボン、さすがです、3人を簡単に仕留め、レッドソックスの勝ち!松坂、勝利投手決定!。今度は本当の祝福を、オルティス、ラミレスら、チームメート全員から受けていました。好リードした名捕手バリテックからは初勝利記念のボールをもらっていました。

今ここに名前を出した選手は、松井のいるヤンキースの敵将みたいな連中ばかりですから、去年までは私が一番憎々しげに思っていた連中なのです。現金なものですね、今は彼らがとても頼もしい武将のようにみえますよ。うふふ。

夜が明けて、東側の窓から日が射してきました。私の心も朝日が射し晴れ晴れとした気持ちです。それに、なんだか、下肢の”ずきん”痛みが軽くなっています。松坂鮮烈デビューでぼくの身体の中の免疫軍団が突如目を覚まし、それに驚いた”帯状疱疹”ウイルス軍団が、戦略会議を開き、どうも”退場方針”を固めたようです。しめしめ。

松坂の次回登板はボストンで、イチローとの対決になります。今日以上の興奮で、免疫軍団にさらなる強力な援軍を送れそうです。

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としより若くみえる

2007-04-05 16:48:16 | Weblog
私の母は先月誕生日を迎えて、82才になりました。実際の年より大分若くみられというのが母の自慢です。「とても80才代にはみえない、どうみても70才ちょとよ」とよく言われるそうです。

その驚いたような賞賛の言葉を聞きたくて、母は、聞かれもしないのに、よく自分から自分の年を相手の人に教えます。お墓参りにはよくタクシーで一緒に行くのですが、運転手さんに話しかけ、この賞賛の言葉をもらっているのを、私は何度も目撃しています。

身内が言うのも何ですが、確かに母は見かけも体力も、10才は若いのではないかと思います。年をとるとあまりお化粧や身繕いに気をかけない人が多いですが(うちのワイフは早くも・・・汗)、母は結構、毎朝こまめにお化粧をしていますし、ちゃんとした服装で外出します。また、何百とある鉢植えの花や地植えの植物の世話もひとりでしていますので、それが結構体力の維持に役立っているようです。

気分も若いです。晩酌のお酒1合は欠かせませんし、友達とカラオケに行けば、藤あやこの演歌も歌います。そんなわけで、孫以外の人から”おばあさん”と呼ばれるのを極度に嫌います。家の修理に来ていた大工さんが一度、母への電話で、その言葉を使ってしまい、しばらく出入り禁止にされていました。また、市の高齢者のための憩いの施設でお風呂に入ったり談笑したりすることも、年寄りくさくなると言って今でも行きません。

母をみていると、女性はいくつになっても若くみられたい、という願望があることがよく分かります。たしかに、女性に対し、”お年より5才は上に見えますわ、ほんとうに素敵、わたしあこがれちゃう”なんて誉め言葉はありませんもんね。

一方、男性はむしろ年相応にみられる方を好むのではないかと、私は思っています。というのは、私も、母の(父もそうでしたが)遺伝で、年より5~10才ぐらい若くみられてしまいます。お若いですねと言われても、嬉しく思ったことはありません、むしろばかにされたように感じます(笑)。

現役時代、転勤してきた5才も下の後輩が廊下であっても挨拶もしないので、こいつはどうゆうやつだと思っていましたら、あとで懇意になって、彼が言うには、自分より若いと思っていた、だそうです。この類のことがよくあり、メリットよりデメリットの方が多かったように感じます。よく髭を生やしたり、髪を長くしたりしている人の多くは、若くみられたくないと思っている童顔系の人ではないかと私はにらんでいます。というのは、私もそういう理由で髭を生やし始めたことがあったのです、すぐ止めましたけど。

還暦過ぎれば、若くみられた方がいいのでは?と思われる方もおられるでしょうが、そんなことありませんよ。60才以上割引の床屋さんでけげんな顔されたり、シルバー割引の映画だってを免許証を偽造しているのではとしげしげみられたり、いいこと全くありませんね。

村上春樹さんがなにかのエッセイで書かれていましたが、作家というのは昼に、町をぶらぶらすることが多く、あるとき、よく寄るお店のおばさんに「早く、いい職がみつかるといいのにね」と言われ、自分がそういうふうにみられているんだと、愕然としたそうです。私も、マンションの管理人さんや、近くの酒屋さんのおじさんから、きっとあの人はリストラされて、いつもぶらぶらしているのだろうな、かわいそうに、なんて、思われているのではないでしょうか。

そういうわけで、私は若くみられるより、年相応にみられた方が絶対いいと思っています。

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アップした写真は、先月末、満開になった六義園の枝垂れ桜の前の、園児ちゃんたちです。あまりにも可愛いので、撮らしてもらいました。この子たちはみな年相応の顔をしていますね。あたりまえですね、ここで5才も若くみえたら、影もかたちもなくなってしまいますね。



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