【tv】100分de名著「法華経」(第1回)
全てのいのちは平等である
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。4月は「法華経」。講師は植木雅俊氏。以前は備忘メモをTweetしておいて、追記する形で記事書いていたけど、Tweetするにもメモ書いてるわけだし、政治色が強くてTweetしなかった松本清張SPの後半2回(コチラと
コチラ)の時の、要点を記載してから追記する形が楽で良かったので、今回以降はその形にしようと思う。まぁ別にどうでもいいと思うけど、一応断り書きとして書いておく😌
「法華経」は経典の王と呼ばれている。誰もが平等であると説き、仏教の原点である。植木雅俊氏の現代語訳を読み解いていく。思想的・文学的である。1~3世紀、釈尊没後500年頃に書かれた。サンスクリット語(インド)→漢語(中国:鳩摩羅什訳)→漢語の音読み(日本)という流れで日本に伝来した。
法華経について詳しくはWikipediaを読んでいただくとして、今回は漢語の音読みを現代語訳した植木雅俊氏の本を読み解いていくということらしい。釈尊(
釈尊(シャクソン)とは-コトバンク)って言うのは釈迦のことだよね? 釈迦と呼ばずに釈尊と呼ぶのは尊称ということだけなのかな? 何か区別があったりするのかな?
説所・章題(現代語訳)・章立:サンスクリット原典(ケルン・南条本)/漢訳(鳩摩羅什訳)の3つから構成される。説所とは釈尊が教えを説いた場所。説所は霊鷲山(リョウジュセン)=インドのビハール州にある低い山→虚空に移る。時空を超越した話になる。庶民受けを狙って追加された章あり。何故?
これ番組では表になっててフリップで表示されてた。それを文字にするのはとても難しくて、全く伝わらない気もするけど、そもそも自分用の備忘メモだから別にいいか(o´ェ`o)ゞ 要するに説所が大分類としてあって、それぞれに章題があり、それについて章立てが原典と漢訳になっている感じ。漢訳したのは鳩摩羅什(Wikipedia)でクマラジュウと読む。
霊鷲山(Wikipedia)という場所が説所として出て来るらしいけれど、これはインドに実在する山。そして虚空(
Wikipedia)に映るのだけど、その説所になると荒唐無稽になるそうで、どうやら一般受けを狙って後から付け足したらしい。何故そんなことをしたかについては、インドの仏教史について知る必要があるとのこと。
【インド仏教史の概要】釈尊(釈迦牟尼世尊)の在世紀元前5~4世紀ごろ原始仏教(初期仏教)と呼ぶ。釈尊滅後、20以上の宗派に分裂。部派仏教と呼ぶ。中で有力なのが説一切有部で、これは小乗仏教と批判された。菩薩(ブッダとなる前の釈尊)という概念を生む。紀元前後、これを塗り替えるムーブメントが起きる。覚りを求める人すべてが菩薩であるとする大乗仏教が起き、小乗仏教を否定する般若経や維摩経が誕生する。後、大乗仏教も小乗仏教も含めて全てを救う法華経が誕生した。
いきなり難しくなってきた💦 初期仏教について詳しくはWikipediaを読んでいただくとして、ここが出発点ということだよね? その後宗派が別れてしまった状態を部派仏教(
Wikipedia)と呼ぶということかな? 説一切有部(
Wikipedia)が菩薩(
Wikipedia)という概念を作り出したということなのね
なるほど~ 小乗仏教でGoogle検索すると、上座部仏教(
Wikipedia)が出てきちゃうのだけど、ここでいう小乗仏教とは違う気がする。おそらく小乗(
Wikipedia)の意味である劣ったという意味のことなのでしょうね。
で、この菩薩の概念についてブッダとなる前の釈尊という定義が分かりにくいのだけど、ブッダ(Wikipedia)というと=釈迦というイメージ。ブッダには覚りを開いた釈迦という意味もあるので、当然それも正解なのだけど、ここでいうブッダは覚りを開いた人という意味で、ブッダになる前の釈尊が菩薩であるという概念。そして、それを塗り替えて覚りを求めている人すべて菩薩であるとしたのが大乗仏教(
Wikipedia)であるということだよね? その中で小乗仏教を否定する般若経(
Wikipedia)や維摩経(
Wikipedia)が誕生し、それを経て大乗仏教も小乗仏教も全て受け入れた法華経が誕生したという流れ。
この流れを知っても何故一般受けを狙って、荒唐無稽な章を追加したのか腑に落ちないのだけれど・・・あれ?(o゚ェ゚o) あと、番組では覚りと表記していたけど、悟りと覚りの違いは何だろう? 調べてみたけど、要するに悟りは消極的で、覚りは積極的であるということらしい。いわゆるコトバンクなどの辞書では悟りと覚りを一括りになっているので、とっても専門的なのかもしれない。
【釈迦入滅後5つの変化】①修行の困難さの強調 ②釈尊の超人化(初期仏教のころはゴータマさん呼び) ③覚りを得られる人の範囲を限定(釈尊のみ。その他は阿羅漢まで) ④仏弟子の範囲の変質(十大弟子など男性のみ。以前は女性信者もいた) ⑤聖地信仰の隆盛(アショーカ王が巡礼)
要するに初期仏教からの変化を大きく分けると5つになるということらしい。初期仏教の時代には女性信者もいたというのはビックリしたし、釈尊をゴータマさん呼びしていたというのも驚いた!😲 アショーカ王(Wikipedia) は名前しか知らなかったけど、仏教を保護した大王なのね?
平等思想 → 権威思想 伊集院光氏:ファンクラブ運営と考えると、権威思想の方が運営はしやすいが、初めの思想とは異なってしまう。 異論! 大乗仏教。二乗①声聞(ショウモン):師について教えを学ぶ人 ②独覚(ドッカク):師につかず単独で覚りを目指す(または開いた)出家者 小乗仏教の信者。自分のことしか考えていない。大乗仏教はこれを炒れる種子と呼んだ。永久に成仏できない。
うーん💦これ必死でメモ取ったので残しておくけど、何を書いてるのかサッパリ分からなくなっちゃった💦💦 異論! 大乗仏教の辺りは、自分でも何故これをメモ取ってるのか謎だらけ💦💦 ここでの重要ポイントは伊集院光氏の例えと、二乗(Wikipedia)の部分かな? 声聞(
Wikipedia)と独覚 (縁覚
Wikipedia)があるということ。
法華経は差別を乗り越えるために生まれた。冒頭は弟子の名前の羅列。40名。女性もいる。瑞相=めでたいことが起きる。弥勒菩薩はこの状況を文殊師利菩薩に尋ねると、釈尊はきっと法華経を唱え始めたのだと答えた。全員参加のプロローグ。説法を始めるが準備不足で全員唖然となると、釈尊は瞑想に入ってしまった。
これも今読むと何のこっちゃだな💦💦 冒頭は弟子の名前の羅列だそうで、ここで挫折しそうになってしまう人が多いらしく、植木先生によるとここは真剣に読まなくてOKなのだそう😌 瑞相=めでたいことが起きるの部分の状況が分からなくなってしまったのだけど、要するに釈迦がいきなり説法を始めたということらしい。その状況について弥勒菩薩(Wikipedia)が文殊師利菩薩(
Wikipedia)に尋ねたということらしい。で、急なことでポカーンとなってしまったので、瞑想に入ってしまったと。どんな状況
【第2章 方便品】方便=覚りに至る最短距離。サンスクリット語でウパーア(ウパ(近く)+アヤ(行く)) 乗り物=ブッダに至る教え。法華経前は三乗:①声聞→阿羅漢果 ②独覚→独覚果 ③菩薩→ブッダ という形だった。しかし、釈尊が本当に説きたいのは一仏乗。声聞・独覚・菩薩すべてがブッダに至というもの。三乗は方便であったと明かす。一仏乗=すべてを成仏に導く"乗り物"。「あなたは自分がすごい」ことが理解できない。あなたは無知だ=否定 / あなたがどんなに優秀であるかについて無知だ=肯定 釈尊の教育的な説き方。
方便品と書いてホウベンボンと読む。法華経は全部で二十八品あるそうで、その第二品にあたるとのこと。法華経前は、ブッダに至る乗り物が3つあり、それが三乗(三乗(さんじょう)とは|コトバンク)の①声聞 ②独覚 ③菩薩 で、それぞれのゴールが①阿羅漢果(
四向四果、
阿羅漢) ②独覚果 ③ブッダ ということで、菩薩以外はブッダになれないということ。釈尊としては、どの方便を使ってもブッダに至るという一仏乗(
Wikipedia)を説きたかったという理解でいいのかな? 「あなたは自分が~」の部分が唐突で、何故これが出て来たのか忘れてしまったのだけど、それに続く否定/肯定の部分で伊集院光氏がとっても納得していたのが印象的だった。要するに釈尊は後者の教えをとったということなのかな?
【第3章 譬諭品】 方便品=誰でも平等であると説く。しかし、理解出来たのは数千人の信者の中で智慧第一の舎利弗のみ。もっとわかりやすくということで、三車火宅の譬え(タトエ)。ある資産家の豪邸で子供たちが遊んでいる時火事が起きる。子供たちは火事の恐ろしさを知らないので逃げない。そこで資産家がオモチャの車を与えるから出てこいと言うと、子供たちは出て来た。資産家は子供たちに本物の牛の車を与えた。という話。これには多くの譬喩が含まれており、資産家は腕力ではなく方便で救った。そして正しい教えを与えたということ。
譬喩品は二十八品の内の第三品。第2章の方便品で言わんとしていたことを理解できたのは舎利弗(Wikipedia)のみ。ということで語られたのが三車火宅の譬え(
法華七喩)で、上記の内容で、多くの譬喩が含まれている。①豪邸=苦しみに満ちた現実世界の譬え ②子供たち=輪廻を繰り返す衆生 ③資産家=如来 ④オモチャの車:鹿の車=声聞乗 羊の車=独覚乗 牛の車=菩薩乗 ⑤本物の牛の車=仏に至る唯一の教えである一仏乗。
オモチャの牛の車とは? ブッダに至るのは菩薩と一仏乗のみ。オモチャは他の2つとの差別化で、本物ではないという譬喩。頭ごなしに否定はしない受け入れつつ高みに向かう。法華経は対立を融和に変える教えである。
三車火宅の譬えで牛の車は2台出て来る。1台はオモチャで1台は本物。ではオモチャの牛の車の意味は?ってことで、先生の説明は上記のように他の2つとの差別化であるということ。仏教の最終到達点はブッダであって、ブッダになるには三乗では菩薩、そして一仏乗のみであるということ。法華経以前の教えを否定せずに受け入れ、その上で高みに向かうということで、伊集院光氏はお互いに立てながら修正して共存していくと理解されたのだそう。
うーん💦 やっぱりなかなか難しいけれど、でも法華経以外ではブッダになる道はなかったわけで、法華経であればブッダになれるわけだから、それだけ間口が広がったということだし、分かりやすくなったということだよね? という理解でいいのだろうか? ハテ?(o゚ェ゚o) まぁ、まだ1回目なのでね! 続けて見てみるとします😌
100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50