【tv】100分de名著「法華経」(第2回)
真の自己に目覚めよ
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。4月は「法華経」。講師は植木雅俊氏。前回(記事はコチラ)から時間が開いてしまい、さらに4回目の放送が終わってしまった💦💦 3回目も4回目もまだ見れてない💦 とりあえず頑張る!
第4章:信解品 4人の弟子(声聞) :須菩提・摩訶迦旃延(まかかせんねん)・大目犍連(だいもっけんれん)・摩訶迦葉(まかかしょう)が、釈尊の話をこう理解したという譬喩。信解(アディムクティ)=アディ(~に向かって)+ムクティ(解き放つ)心が何かに向かって解き放たれる。例えば、2020年の東京オリンピックに出る!←オリンピックに心が向かっている状態。
何をつらつら書いているかといえば、信解品の内容についてザックリとした説明。要するに4人の弟子の解釈が譬喩として書かれているということ。4人は釈迦十大弟子(Wikipedia)の内の4人。
【長者窮子の譬え(ちょうじゃぐうじのたとえ)】50年前に行方不明になった息子を待つ資産家が、捕えられることを畏れ逃げてしまうみすぼらしい男が、実は息子だと気づく。連れてこようとすると男は気絶してしまう。誤解を解くために一度男を解き放った後、雇い入れた。最初は汚物処理の仕事を与えると、男は喜んで働いた。徐々に有力な仕事を与えていき、ついには財産管理を任せ、息子と呼ぶようになる。男は自分は息子ではないのにと恐縮する。資産家は臨終の際に、男が本物の息子であることと、財産を息子に残すことを告げる。思いがけず宝を得た。
この「長者窮子の譬え」は法華経の中に出て来る法華七喩(Wikipedia)の内の1つ。1回目で出て来た「三車火宅」も同様。譬えというからには何かに例えているのだろうということで、この場合父親=釈尊、息子=4人の弟子・衆生、財宝=仏性ということになるのだそう。要するに衆生はみな仏の子であり、成仏(Wikipedia)できるということを表しているのだそう。この場合の成仏というのは、考えられているように神がかり的なものになるということではない。ブッダ=目覚めた人というように、これは過去分詞。では何に目覚めたのかといえば"自己"である。成仏=真の自己に目覚める ということ。
伊集院光氏が、大乗仏教は小乗仏教の出家者「声聞」「独覚」は仏になれないと批判したけど、そんなことはない! ということ?と言っていたけど、これはちょっと分かりやすかった。誰もが成仏できるということ。
息子の劣等感を少しずつ取っていき、最後に自分の息子であると告げるのが導きである。植木先生によれば、法華七喩のうち最高傑作であるとのこと。人間への肯定! 植木先生は学生時代鬱病になってしまったそうで、その際に「鏡の前に立った時、ありのままの自分が映るが、われわれはありのままに見ていない」という言葉に光を見たのだそう。人はどう見ているかが気になり、自己を捨ててしまう。すると、本当の自分とズレが生じてしまう。人間を温かく見守る仏教である。
「長者窮子の譬え」の設定に秘めた意味。息子に最初は汚物処理の仕事を与えた。インドにはカースト制度があるが、汚物処理は4つのカーストの下。アウトカーストの仕事。4人の弟子のうち3人はバラモンで上流階級の出身。釈尊の反応、譬喩で答える。違いや個性を認め合う。第5章で語られる。
ここがちょっと理解できなかったのだけど、要するに身分は関係ないということかな? 息子もそもそも資産家の息子なのだから、上位カースト出身なのだと思うけれど、仕事をしながら最下層から上位に進むということで、これは修行をして成仏する過程を表しているということ? で、多分4人はそう解釈したけどどうですか?と問うと、釈尊の答えがこれまた譬喩であり、それが第5章で語られるということなのかな?
法華経が編纂された当時のインドについて知る必要あり。インド系、ギリシャ系、ペルシャ系などが住む民族のるつぼ。西北インドだからこそ生まれた。違いはあるが同一の大地。ハッダ(アフガニスタン)のタパ・ショトルで発掘された遺跡(1979年の内戦で消滅)には、仏像の後ろにヘラクレス像があった。釈尊を守っている。対立を乗り越えた文化の融合。
ここは特に追記することはないかな😌 遺跡の写真探してみたけど見つからず💦
第6章:授記品 釈尊から弟子への「授記」 授記=いつどこで何という仏になるという予言 理解したのだから仏になれるよ。2章~9章にかけて授記され方に違い。例)人物:舎利弗 章:②③ 才能:智慧第一 如来の寿命:12中刧、人物:阿難 章:⑨ 才能:多聞第一 如来の寿命:無量幾百・千 コーティ・ナユタ刧、人物:富楼那 章:⑦⑧ 才能:三世において説法第一 如来の寿命:無量阿僧祇刧(10の59乗刧)
第5章のことはどうしたと思ったりもするけど、ここは省略ということなのでしょうかね。第6章で語られることが釈尊から弟子への「授記」(Wikipedia)について。2章から9章にかけて授記のされ方の違いがあるそうで、例が出されていたのだけど、これ実は表になっていて、登場人物もあと3人くらい多い。でも重要なのは阿難(Wikipedia)と富楼那(Wikipedia)と、その他の人物たちとの違いなので、代表として舎利弗(Wikipedia)に登場していただき、他は割愛させていただきます🙇
刧(Wikipedia)というのは時間の単位。伊集院光氏がおっしゃった寿限無(Wikipedia)に出て来る、五刧のすりきれの刧。天女が羽衣でこすった岩が削れるという途方もない時間のこと。だから舎利弗の寿命の12中刧もとんでもない時間なのだけど、富楼那に至っては10の59乗刧だからね😲
で、どうしてこういう差が出るのかというと、才能の差ということになるそうで、舎利弗の才能は智慧第一でこれは個人の才能。阿難と富楼那の才能は多聞第一と三世において説法第一で、これは利他行(コトバンク)。これにより寿命に差がある。ようするに人々の役に立つかどうかということなのかな?
第10章からは釈尊からのバトンタッチが描かれる。釈尊は法華経を説いた時すでに80歳超だった。
ストゥーパへの信仰。ストゥーパ=遺骨を納める塔。法華経が編纂された当時、ストゥーパも信仰していた。覚ってブッダになったのだから、経典にこそ自分の姿がある。「この経には、如来の身体がまさに一揃いの全体をなして存在している」と語る。地球の半分の大きさの巨大なストゥーパが現れる。中から声がする。「世尊よこれはその通りです」 釈尊の眉間から光が発せられ、分身を集める。ストゥーパの扉を開けると、多宝如来がいた。弟子を空中に浮かせる。 ストゥーパが経典を称賛する。ブッダは法で覚った。その法は経典にある。だから「私は経典にいる」
うーん。ストゥーパとは仏塔(Wikipedia)のことで、五重塔とかもストゥーパなんだよね?たしか。最後がなんだか壮大な感じになってしまったので、ちょっとよく分からなくなってしまったけれど、要するに釈尊としてはストゥーパを信仰するのは違うって言っているの? ストゥーパではなくて、経典にこそ自分の言いたいことがあるってこと? そのわり巨大なストゥーパが現れちゃったのは何故? 先生によると釈尊の遺した言葉に「法と自己をよりどころ」とあるそうで、ストゥーパ信仰は違うということらしい。
6つの難しいこと。六難:釈尊の滅後に法華経の正しい教えを広めること。9つの易しいこと。九易:①ガンジス河の砂の数ほどの経典を説くこと ②スメール山を片手でつかみ放り投げること ③三千大千世界を足の指一本で蹴り飛ばすこと
3つしか紹介されていなかったのだけど、要するに9つの易しいことを例に上げて、それよりも法華経の正しい教えを広めることは難しいのだと強調しているということらしい。で、その9つの易しいことがとてつもなく難しいので、もう六難はヤバイということが言いたいらしい。③の三千大千世界(Wikipedia)というのは、一人の仏が教化する世界のことだそうだけれど、それを足の指一本で蹴り飛ばしちゃうってどういうこと?😲 自分のイメージはバーフバリ(映画『バーフバリ 王の凱旋』公式サイト)がサッカー的なことをしてる感じだけど絶対違うわ💦💦 あとスメール山というのは須弥山(Wikipedia)のことなのね? これもつかんで放り投げちゃうんだ ビックリだわ😲
先生によりますと、九易は科学技術で解決可能だが、六難は人の思想や生き方なので科学では解決不可能ということらしい。のだけど・・・ 須弥山をつかんで放り投げるはまだしも、三千大千世界を足の指一本で蹴り飛ばすは科学技術でも無理では?というツッコミはしてはいけないのでしょうね😌
釈尊の遺言である大パリニバーナ経には、自らをよりどころとして、他人をよりどころとしない。法をよりどころとして、他をよりどころとしない。とあるそうで、これ自分のメモには法を~と、他を~の間に"真理"と書いてるのだけど、何を書こうとしたのか今となってはサッパリ💦 大パリニバーナ経を検索すると、ブッダ最後の旅と出て来る。あとは大涅槃経のWikipediaも出て来るので、涅槃経のことなのかな? 涅槃経については以前この番組で視聴し、記事にまとめておいたのでリンク貼っておく。(「ブッダ最期のことば」第1回・第2回・第3回・第4回)
いやしかし、さすがに仏教は奥深い。「本当の真の自己の把握は難しい」 と伊集院氏のおっしゃるとおり!
100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50