【tv】100分de名著「夏目漱石SP 道草」
「道草」とお腹の具合
1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。3月は夏目漱石(Wikipedia)スペシャルということで、1回につき1冊を読み解く変則的な構成。第3回目は「道草」(Wikipedia)で、講師は東京大学教授で英文学者の阿部公彦氏。第1回はコチラ、第2回はコチラ
「道草」は自伝的小説。「道草」=胃弱小説。作品が胃弱のようにできている。いつまでも治らない。昔のことが今に影響を及ぼす。
主人公健三はある小雨の降る日に、彼が20歳の頃に縁を切った男性と出会う。気づいて知らぬ顔で通り過ぎようとするが、チラリと見ると向こうもこちらを見ている。これだけでは済まないだろうと健三は考える。
嫌悪感や恐怖感であれば逃げればよいが、嫌だけど逃げられない。この男性は元養父。主人公健三は養子に出されていた。健三は漱石の分身。漱石は1歳で養子に出され、養父母の離婚により9歳で夏目家に戻った。自伝的な作品で嫌な部分を書いた。「嫌なこと」を書く理由は?
伊集院光氏:書きたくない以前に思い出したくないのでは?
嫌なことを書いている小説は多い。嫌な部分を吐き出すと心が落ち着く。
伊集院光氏:作品化することでおさまりがつく。読み手も救われる。
「嫌な話」を読むことで救いを得る人がいる。漱石の中の蓄積した「嫌なもの」に「元養父」という「形」が与えられて表現できた。
うーん💦 夏目漱石の生い立ちが辛いものだったとは知らなった。タイトルは忘れたけれど松本清張も自身を援助してくれなかった親戚のことを書いた小説があったし、自分の中に蓄積されたものを吐き出すというのはあるのかもしれない。自分の中に全く無いものを書ける人もいるかもしれないけれど、やはりどこかで自分を投影するんじゃないだろうか。とはいえ、嫌なものを読むのはイヤだなぁ😅
漱石は21歳で夏目家に復籍。夏目家の事情が変わった。兄が亡くなったため、仕方なく家に引き取った漱石を、今度は積極的に夏目家に戻した。養父母としては漱石を大切にすることで将来面倒を見てもらおうと思っていた。自分たちの投資はどうなる? お金がらみのもめごと。人身売買的。このいざこざが漱石の世界を形成し、いつまでも尾を引く形で影響を及ぼす。現実社会は慢性病のようにいつまでも過去がつきまとう。その感覚を培った。
うーん💦 確かにこれは酷い。昔は子供が多かったり、貧しかったりで現代の感覚では人身売買的なことも平気で行われていたのかな。社会通念が今とは違うから親たちに悪気はないのかもしれないけれど、当人にとってはたまらない。
健三に対して養父母は金の面に対して寛大だった。しかし島田夫妻は健三に対して不安があり、父母は誰かと度々建三に尋ね、健三は彼らが喜ぶ答えを強いられた。
伊集院光氏:見事な嫌な感じ。養父のお前の父は誰かという問いは、生さぬ仲の良い関係にも書けるが、とても嫌な感じのするものになっている。
読み手としては嫌なものを感じつつ、健三がそう解釈していることにも気づく。良いシーンにも書ける場面を、島田夫妻に関係なく嫌な感じのものとして受けてしまう感受性が健三の中にできてしまっている。
養父母としては健三を引き取ったのは将来面倒を見てもらおうと思ったからで、そこの見返りを求めるのはどうかという部分は置いておいても、そういう思考になるのは仕方がないかなとは思う。だからお金の面については寛大だったのでしょう。それでも不安になって健三に本当の父親は誰かと聞いてしまう心理も理解はできる。でも、される側にしてみたら脅迫だよね😣
ある日、健三は風邪で寝込む。高い熱が出て何日も苦しみ、その間の記憶がほとんどないほど重症だった。正気にかえり枕もとの妻を見て、妻の世話になったと思ったけれど、何も言わず顔をそむけてしまったので、妻には彼の気持ちが全く伝わらず妻は気を悪くした。
伊集院光氏:妻の気持ちは分かる。ありがとうと何故言えない?
漱石は理知的に見えるが、意外に妻との関係は幼児的だった。健三には漱石自身がかなり反映している。
伊集院光氏:少ししか切り出していないので、微笑ましい場面なのか、そうではないのかが分からない。ありがとうと言えずにギクシャクするが翌日から普通どおりになり、長年添い遂げる夫婦関係がそんなに悪いものとは思えない。どちらに書かれているのだろう?
いつも自分をかまってくれてありがとうと言うのも白々しいこともある。赤裸々に見える場合が良いこともあるが、漱石はそうではない。
伊集院光氏:漱石の中にはそうした方が良いという感覚があるのに言えない漱石がカワイイ。
言葉と行動のズレ。今やろうと思ったのにというアレ。頭で分かっていても行動できない。カワイイと同時に面倒。
うーん💦 当時は今よりもっと男尊女卑というか、亭主関白的な考えが強かったと思うので、妻が夫の面倒を見るのは当たり前という考え方もあったと思うけれど、その中で健三=漱石が妻にありがとうと言おうと思い、結果それが言えなかったことで妻の機嫌をそこねているということに気づけているのは、やっぱり漱石が人の気持ちに繊細であるからだと思うし、それは生来の感受性もあるだろうけれど、養父母の顔色をうかがって生きてきたという部分もあるのかなと思う。
伊集院光氏:漱石と奥様の関係が気になる。
鏡子夫人悪妻伝説。朝寝坊で朝ご飯を作らない。お嬢様育ちで漱石をかまわないなど。逆に包容力のある人で、この人だから漱石が自由に出来たのではないかと思える。
伊集院光氏:人によって価値観が違う。悪妻にもなる。
漱石は過剰に理屈っぽく、言葉が先に出る人。妻は理屈を超えた直感があったり堂々とした逞しさがある。
伊集院光氏:理屈っぽいどうしは合わない。生活は理屈で割り切れない。漱石は理屈っぽ過ぎて病まで行ってしまう。そこをちゃんとやり過ごせる才能がある。
安部みちこアナウンサー:鏡夫人は立派。分かっているなら言えばいい。
まぁ極論すると安部アナウンサーの言葉になるのだけど、そこが言えないからまた病んじゃうわけで😅 ただ、もし漱石や世の男性たちが、健三と同じ状況にあった場合は、普段言えない感謝を伝える絶好の機会だし、そこで一言言えたら奥さんはきっともっと優しくしてくれるハズ。女性ってたった一言で頑張れるものだから。とはいえ確信犯的にするとバレると思うけど😅
健三は元養父の島田から金の無心をされるようになる。最初は少しずつ与えていたが、島田の要求はエスカレートする。お金がなくて年を越せないという島田に、100円を支払う代わりに一切の関係を断つという書面を書かせる。これは漱石の実体験。妻があの人だけは片付いて良かったと言うと、片付いたのは上辺だけだと健三は言う。
実際の書面
(撮影失敗💦)
伊集院光氏:ぞっとする終わり方。妻の"あの人だけは"というのも引っかかるし、健三がそうだと言わないのも気になる。
島田と縁を切ったのにそれでも終わらないという感覚が漱石の現実感。深いもの。自分の存在の土台を感じる感覚。生きていること自体がいろんなことが片付かない。自分自身ともある種の人間関係がある。健三は自分自身とどう付き合うかで苦労している。それが決して片付かないという感覚が紛れ込んでいる。
伊集院光氏:健三からすると法律上、理屈で言えば片付いていても嫌な予感や、被害妄想、過剰な分析力からすると全然片付いていないとなってしまう。島田が死んだら化けて出るんじゃないかという妄想も含めて、自分の良心の呵責などが終わらない。
良心の呵責は大事。漱石特有の妙な罪悪感が常にある。もやもやしているのは自分に何か咎があるという意識がある。相手のせいなら怒りをぶつけられるが、自分相手にそれはできない。自分の足元が切り崩される感覚。
確かに法律的には片付いて、この後島田が金の無心をしてきても、断ることが出来る形はできた。でも、それで島田と完全に縁が切れたという感覚が健三=漱石の中でないのでしょう。それは、実質的な部分もあるし、健三=漱石の心の持ちようの部分でもあるのかなと思う。これは本当に嫌な感覚だし、特に後者の方は根深く残るよね😢
伊集院光氏:漱石は新しい現代小説をやってみたくて「吾輩は猫である」や「三四郎」でやってみたが、結果晩年にこうなる。スッキリした伏線やロジックで組み立てられた現代小説ではない。
無定形なものを表現しえたのがスゴイ。無定形なものに表現を与えるのは難しい。形を与えるのはできるが、無定形なものを無定形なまま出すのは大変。
「夢十夜」でも"嫌なもの"を表していたと思うけれど、それでもそれは夢という形で語られていたから、読み手としてはその"嫌なもの"を客観的に見て楽しむこともできるけれど、今作は"嫌なもの"の逃げ道がなくて読むのは辛そうだな😅 特に漱石の実体験がベースになっていると知ってから読むのは重過ぎるかも。
さて、次回はいよいよ最後の作品。未完の作品らしいので、どんな解説になるのかな? 録画してあるので、近々見てまた記事書くとする😌
100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50 Eテレ