昨日、中村勘三郎さんの死去が伝えられました。最後の舞台『め組の喧嘩』を私はWOWOWで見て、本物の三社祭の神輿が浅草仲見世商店街の人達に担がれてでてくるラストの異常な盛り上がりに、今思えば“死”の予感を感じていたようにも思います。心からのご冥福をお祈りするとともに、今後の勘九郎さん、七之助さんの益々のご活躍を重ねてお祈りいたします。
さて、昨日の続きです。
「8月に執行したときには、そのうちの一人については、誕生日をわざわざ狙って執行するということをやりました。誕生日というのは嬉しい日です。そういう日にわざわざ執行するということを彼はやってのけたわけです。ですから当然その1カ月後にさらに執行するというのも、彼の非人道的な体質のなせる業だろうと思うんです。そして、そういう残酷なことを法務省が、検察官である法務官僚が、法務大臣にやらせているということをしっかり見て取らないといけないと思うんです。それは今回の法務大臣の返り咲きということに見て取れるだろうと思うんです。
この前までは滝法務大臣が執行したことに対して、辞める予定の人間が執行するということはとんでもないことだ、私たちが抗議しようにも抗議する相手がいない、すでに辞めてしまっている、政治責任を果たせないということで、私は彼のやり方については大変問題があると言ったわけですが、いちど罷免された人間がもう一度戻ってくる、この倫理も道理もないこの酷さ。おそらくこれは死刑執行をやる法務省の検察官の意向によるもので、とにかく死刑執行について言うことを聞く人間を法務大臣に据える、それだけを考えているのだと思います。(中略)
私は、前回、国会議員の皆さんに、死刑執行停止とか死刑廃止というような、法案を提出することでさえ困難なハードルの高いものを目指すより、わずかでもあっても、実現可能な、ハードルの低いものを目指してほしいとお願いしました。
その一つが、死刑に関するスーパー・デュープロセスの実現です。憲法31条(「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」)はデュープロセスという規定を定めています。とりわけ、死刑は取り返しのつかないものですから、一般的事件よりも、より厳しいデュープロセス、つまりスーパー・デュープロセスを用意すべきだと思います。具体的には死刑求刑が予想される事件については必要的弁護事件として捜査段階から弁護人をつけなければならない、つまり、弁護人なくして身柄の拘束も取り調べも行ってはならないということ。裁判においては、検察官にすべての証拠の開示を義務づける、すべての事件について精神鑑定を義務づける、それからさらに全員一致制を設ける、さらに今回のような取下げは認めず、必要的上訴を、つまり、必ず三審まで審理することを義務づける、さらに重要なことは検察官が一審有期懲役、一審無罪、一審無期懲役という一審の判決について死刑を求めて控訴、上告することは許されないということ。死刑が確定したあとにも、必ず弁護人をつけること、そして死刑執行する時に最低2週間前には本人および弁護人に告知すること。これは、本人の利益の保護のためです。こういうスーパー・デュープロセスの手続きは、死刑の存置廃止の意見を超えて、賛成が得られるだろうと思います。
もちろん、一度に全部というのではなく、合意が得られるものから、一つずつ提案していく。例えば、必要的上訴や全員一致制であれば、それほど困難なく賛同を得て法律を上程できるのではないでしょうか。そして、上程するだけでも、議論が巻き起こり、また広がる。そして合意が形成されていく。そういうことからしか物事は動かないだろうと思うんです。(中略)
特に最近再審があちこちで実現していっています。もはや、検察あるいは裁判所は全然誤りがないという話はもう通用しなくなってるわけです。そういうい状況の中にあって、いまこそスーパー・デュープロセスということの実現に向けてがんばっていただく、それがやがて死刑廃止への道を作っていくと私は思っているわけです。ぜひそこらあたりを理解していただきたいと思います。」
「法務大臣は死刑執行するだけがその権限ではありません。恩赦を発動する権限を持っているわけです。同時に死刑を執行しないでおくという権限も持ってる」という主張、そして死刑へのスーパー・デュープロセスの導入には、注目せざるを得ないと切に思いました。皆さんはいかが、お考えになるでしょうか?
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
さて、昨日の続きです。
「8月に執行したときには、そのうちの一人については、誕生日をわざわざ狙って執行するということをやりました。誕生日というのは嬉しい日です。そういう日にわざわざ執行するということを彼はやってのけたわけです。ですから当然その1カ月後にさらに執行するというのも、彼の非人道的な体質のなせる業だろうと思うんです。そして、そういう残酷なことを法務省が、検察官である法務官僚が、法務大臣にやらせているということをしっかり見て取らないといけないと思うんです。それは今回の法務大臣の返り咲きということに見て取れるだろうと思うんです。
この前までは滝法務大臣が執行したことに対して、辞める予定の人間が執行するということはとんでもないことだ、私たちが抗議しようにも抗議する相手がいない、すでに辞めてしまっている、政治責任を果たせないということで、私は彼のやり方については大変問題があると言ったわけですが、いちど罷免された人間がもう一度戻ってくる、この倫理も道理もないこの酷さ。おそらくこれは死刑執行をやる法務省の検察官の意向によるもので、とにかく死刑執行について言うことを聞く人間を法務大臣に据える、それだけを考えているのだと思います。(中略)
私は、前回、国会議員の皆さんに、死刑執行停止とか死刑廃止というような、法案を提出することでさえ困難なハードルの高いものを目指すより、わずかでもあっても、実現可能な、ハードルの低いものを目指してほしいとお願いしました。
その一つが、死刑に関するスーパー・デュープロセスの実現です。憲法31条(「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」)はデュープロセスという規定を定めています。とりわけ、死刑は取り返しのつかないものですから、一般的事件よりも、より厳しいデュープロセス、つまりスーパー・デュープロセスを用意すべきだと思います。具体的には死刑求刑が予想される事件については必要的弁護事件として捜査段階から弁護人をつけなければならない、つまり、弁護人なくして身柄の拘束も取り調べも行ってはならないということ。裁判においては、検察官にすべての証拠の開示を義務づける、すべての事件について精神鑑定を義務づける、それからさらに全員一致制を設ける、さらに今回のような取下げは認めず、必要的上訴を、つまり、必ず三審まで審理することを義務づける、さらに重要なことは検察官が一審有期懲役、一審無罪、一審無期懲役という一審の判決について死刑を求めて控訴、上告することは許されないということ。死刑が確定したあとにも、必ず弁護人をつけること、そして死刑執行する時に最低2週間前には本人および弁護人に告知すること。これは、本人の利益の保護のためです。こういうスーパー・デュープロセスの手続きは、死刑の存置廃止の意見を超えて、賛成が得られるだろうと思います。
もちろん、一度に全部というのではなく、合意が得られるものから、一つずつ提案していく。例えば、必要的上訴や全員一致制であれば、それほど困難なく賛同を得て法律を上程できるのではないでしょうか。そして、上程するだけでも、議論が巻き起こり、また広がる。そして合意が形成されていく。そういうことからしか物事は動かないだろうと思うんです。(中略)
特に最近再審があちこちで実現していっています。もはや、検察あるいは裁判所は全然誤りがないという話はもう通用しなくなってるわけです。そういうい状況の中にあって、いまこそスーパー・デュープロセスということの実現に向けてがんばっていただく、それがやがて死刑廃止への道を作っていくと私は思っているわけです。ぜひそこらあたりを理解していただきたいと思います。」
「法務大臣は死刑執行するだけがその権限ではありません。恩赦を発動する権限を持っているわけです。同時に死刑を執行しないでおくという権限も持ってる」という主張、そして死刑へのスーパー・デュープロセスの導入には、注目せざるを得ないと切に思いました。皆さんはいかが、お考えになるでしょうか?
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)