建仁寺 京都市東山区小松町584
朝鮮に「日本国王使」として派遣してもらい、再生資金として銅銭1万貫、大蔵経という仏典や土産品を朝鮮国王から戴いてきた。江戸時代には幕府が京都五山の僧侶を対馬藩へ派遣し、僧侶は外交・貿易の事務などを行い、朝鮮国の外交官と交わり友好を深めた。建仁寺境内にあり「両足院」という扁額は、1678 年に対馬に来ていた安慎微(号は春斎)という朝鮮人が書き、建仁寺へ贈ったものである。1674年に来日した朝鮮通信使の一人で、朴徳源の書には趙景安と いう人が日本の和歌を書き添えている。建仁寺両足院にある「李賀騎馬図」を描いた金有声は、同年に訪日していた有名な画家である。
八坂神社 京都市東山区祇園町
平安京建都(794)以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。八坂神社の創祀を社伝では斉明天皇2年(656)と伝えている。この年には高句麗の使い伊利之(いりし)が来朝し、彼は八坂造の祖先である意利佐(いりさ)と同一人物と考えられている。
天龍寺、 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
観光地嵐山の渡月橋の近くで多くの人々が訪れ、美しい境内や庭園・法堂の天井に描かれた龍の絵が見所です。この寺は足利氏の力で大寺院となった。三代将軍足利義満は外交使節を派遣し、中国や朝鮮 と外交や貿易を始めた。交流に関わる外交文書は、両国の人が共通に解りあえる漢字で書くことになっていた為、天龍寺などをはじめ禅宗寺院の地位の高い僧が 任命されていた。また天龍寺や建仁寺でもそうだが、火災にあった際は、幕府に貿易船を出す許可を得て、朝鮮国から寺の再建資金を得ようとした。1459 年、朝鮮国王が「通信使」を派遣したが、釜山を出港後、台風の為に沈没し、一人を除く全員が死亡する事故があった。その4年後、八代将軍義政は天龍寺で法要を催すことを命じた。この行事は沢山の僧侶が参列し、おごそかに盛大に行われた。このことが義政から朝鮮国王に報告されたという記録が、朝鮮側の資料に残っている。
京都大学名誉教授の上田正昭先生は、講演の中で『京都と朝鮮通信使の歴史をかえりみる時、忘れることのできないのは、京都五山とりわけ天龍寺・東福寺・相国寺とのつながりである。(中略)対馬の厳原(いずはら)にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵(いていあん)には、寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として 派遣されていたが、慶応 2 ( 1866 )年の廃止まで、天龍寺から 37 人、東福寺から 33 人、建仁寺から 32 人、相国寺から 24 人(いずれも延べ人数)が赴任している。 と説明しておられます。