20歳になった頃ひょっこり私の家にきました。
「お!どうしてた?」という会話から苦労してきた話を聞いた後、「子どもができて、00病院に入っているが退院させる金がないので貸してくれ」というのです。勿論私の家には余分のお金はありません。「いくら必要か」と聞けば「?万円」という。「おれな、背広を買おうと思ってためてる金があるのでそれを使えばええわ」といって渡しました。
何日かしてまた彼が来ました。
後から思えばなぜ私のところへ来たのか、近所にもたくさん知り合いがあるはずなのに…。今になっても答えは聞いていないのです。何日かしてまた彼が来ました。彼は私を自分の家に連れて行きました。そこは、桂川の堤防ぞいにある「0番地」というところでした。わらぶきの二間しかない物置のような家でした。
「まあ座ってくれ!」といわれるがままにその土間に座わり周囲を見ましたが家具は何もありませんでした。彼は、男の子が生まれたこと、別にアパートを借りていること。日本名を「みつる」とつけたことを、私に話しました。そうしてどんな仕事をしているか説明したのですが、よくわかりませんでした。
私は、夜学を卒業後労働組合活動と日本人と朝鮮・韓国人は仲良くしようという「日朝協会」の運動をしていることを話しました。彼は京都の朝鮮総連の役員で親戚の人がいると言っていました。どちらからもお金についてはなにもふれませんでした。
そのあと何年も会うことはなかったのですが、私が留守のときに、貸したお金を返しにきたと母から聞きました。
奥さんは普通学級にいかせると言い張ったが、
その後彼は再婚し何人かの子どもができたのですが、その中に障がい児学級に入らなければならない女の子がいました。奥さんは普通学級にいかせると言い張ったが、彼は、本人のことを考えれば障がい児学級に入れるといって通わせました。せっかく先生にもなれて休まず学校に行っていたのに、その先生が転校になりもう学校へ行かないと言い出しました。彼は大層困って私のところに「相談がある」と電話してきました。
今なら自由に学校を変わることが出来ますが、当時は住んでいる学区以外のところにはいけませんでした。私は彼に「ええ親父やな! 無理すれば頼めないことはないが、大きな問題にせず転校しようと思えば、その学校区の中にいる知り合いの家に住所を移すか、アパートを借りて住めば、トラブルなしで転校できるが、どうするか」と教えました。その後どうしたのか何も言ってきませんでしたが、先生について転校したということを聞き安心しました。
彼が韓流スターのような息子を連れて参加してきました。
40歳をすぎた頃に京都市内で中学校の1・2年有志同窓会をしたことがありました。まさか出席しないだろうと思っていた彼が韓流スターのような息子を連れて参加してきました。プログラムが進んで、一人づつ立って近況報告が始まりました。
彼に順番が周り、みんな何を言い出すのか、かたずを呑んでシーンとなりました。
そこには昔の悪さ坊主の彼はなく、にこにこして話を始めました。今日は子どもをつれてきました。そのままの俺をみてもらおうと思って…。
彼が、こんなにもすなおな人だったのだと感激したのでした。
ポツリポツリと話しだした彼は、若くて結婚した経緯やダンプに乗っていたことや、嫁とそりが合わなかったようなことまで話し、子どもができて病院を退院する金がなく大橋君に借りて助かった。その時の子がこの息子で通称名を「みつる」とつけましたというのです。満は私の名前です。私もびっくりしましたが、20数人いた参加者全員が、子どものころは悪さばっかりしていた彼が、こんなにもすなおな人だったのだと感激したのでした。
彼は食事もそこそこに、次に行くところがあるのでお先に失礼します、と息子にも挨拶させて帰って行きました。後日になって、その時の思い出話は、みんな彼のことでした。
50歳を少しこえたくらいでした。
何年かして、身体がボロボロになり、帰らぬ人となったということを聞きました。50歳を少しこえたくらいでした。きっと波乱万丈の人生だったと想像していますが、詳しいことを教えてくれる人は誰もいません。
ただ私との接点は、人間らしいよい面だけが心に残っているのです。
私が子どものときに、もし彼に会っていなければ、労働運動と差別問題、社会保障と差別問題、自治体闘争と差別問題、なによりも日朝友好運動と差別問題、などなど社会変革のために身をささげる人生を選んだのも、この出会いが社会への出発点として大きなウエイトを占めることになったのです。
このような差別は、絶対なくさなければならないと今でも強く思っています。
以来53年以上に渡って日・朝・韓の友好のために活動して来ました。きっと皆さんも、それぞれよく似た話があるのではないでしょうか。私は、このような差別は、絶対なくさなければならないと今でも強く思っています。
日本と朝鮮・韓国は、毎日の生活でも身近な存在ですし、歴史的にも非常に深いつながりがあったのでした。