創立90周年の年にふさわしい躍進を
志位委員長 新春インタビュー(下)
聞き手
小木曽陽司・赤旗編集局長
大内田わこ・同局次長
いまに生きる力(2)――野党外交
韓国との交流の進展――朝鮮王朝儀軌の返還にかかわって
小木曽 いまに生きる「党史の力」という点では、野党外交の問題もあると思います。
志位 昨年の外交活動では、韓国との関係が進展しました。韓国は、日本に最も近い隣国です。この国との関係が進展したことは、たいへん大事だと思っています。
この間、朝鮮王朝儀軌(ぎき)の返還が実現しました。儀軌というのは、朝鮮王朝の時代に王室や国の行事を絵画をまじえて記録したものです。NHKで放映中の韓国の歴史ドラマで「イ・サン」というのがありますでしょう。私はファンで必ず見ているのですが(笑い)。あのドラマでは、「図画署」(トファソ)という王室の絵画を担当していた部門が出てきて、そこにソンヨンというヒロインが登場します。あの「図画署」などで作ったのが儀軌です。儀軌というのは韓国の人々にとっては、民族の宝ともいうべきものです。
それを1922年に、朝鮮総督府が持ち出して、日本に持ってきた。22年といえば、日本共産党創立の年ですけども、朝鮮では、それまでの「武断統 治」といわれた憲兵による強権一本やりの植民地支配が「3・1独立運動」(1919年)で破たんし、「文化政治」といわれる懐柔と強権をおりまぜた支配に 代わった時期だったのです。
「文化政治」の時期に、朝鮮の伝統をつかんで植民地支配に利用しようということで儀軌を奪ったというのが経過です。奪われた儀軌には、日本によっ て1895年に殺害された閔妃(ミンピ=明成皇后)の葬儀の記録や、最後の第26代国王の高宗(コジョン)が1897年に皇帝に即位したときの儀式の記録 なども含まれていました。
この返還を実現するうえで、緒方靖夫さん、笠井亮さんをはじめ、日本共産党議員団が力をつくしてきたのです。
「日本共産党と連帯すべきだとの方へ意見がまとまった」
大内田 委員長も昨年11月には2回目の訪韓をなさいましたね。
志位 はい。最初の訪韓は2006年でしたが、今回は日韓議連の一員としての訪韓でした。李明博(イ・ミョンバク)大統領、金滉植(キム・ファンシク)首相、朴熺太(パク・ヒテ)国会議長などと懇談する機会がありました。
さまざまな懇談の場で、「朝鮮王朝儀軌の返還を喜んでいます」といいますと、韓国側から口々に、「日本共産党の協力に感謝します」という言葉が寄せられました。
私は、「文化財は元あったところに戻すのがユネスコ条約の原則であり、植民地支配の清算という歴史問題にとりくむことは、日本の政党として当然の責任です」と応じましたが、どこでもそういう感謝の気持ちが寄せられたのがとても印象的でした。
私が宿泊したホテルに、儀軌還収委員会の慧門(ヘムン)事務局長が訪ねてこられて、夜に1時間ほど懇談しました。そこでも日本共産党がこの問題で 果たした役割に対して感謝がのべられるとともに、『儀軌 取り戻した朝鮮の宝物』という著書をいただきました。これがそのときいただいた韓国語版の本で す。韓国政府が青少年向け推薦図書ということにしたそうです。日本語訳も出版されており、その本もいただきました。
大内田 儀軌を取り戻す過程が書かれているのですか。
志位 そうです。儀軌返還にいたる全過程が、たいへんリアルに、また詳細に書かれています。そして、この本のなかでは、日本共産党が、儀軌の返還で「決定的な役割」を果たしたと書いてあるんですね。
緒方さんがこの問題でおこなった2007年5月の国会論戦の議事録が紹介されています。それから、緒方さんと笠井さんが「しんぶん赤旗」でおこなった2007年8月の対談の記録も紹介されています。
小木曽 それはすごい。(笑い)
志位 たいへん印象深く読んだのは、この問題に日本で最初にとりくんだ政党が日本共産党だったことについて、こう書かれていること です。「問題提起した議員らが日本共産党であるのがいささか複雑であったが、大体において日本共産党と連帯すべきだとの方へ意見がまとまった」。こうし て、この問題での日本共産党との交流が始まっていくんです。韓国では、北朝鮮の関係で、「共産党」への警戒感というのは強いものがありました。それでも、 「日本共産党と連帯すべき」だというところに意見がまとまっていった。
日本共産党への見方が韓国社会で大きく変わりつつある
小木曽 委員長が訪韓された翌月の12月には、笠井さんが招待をうけて訪韓し、この儀軌の問題で熱烈な歓迎を受けたと聞きました。日本の政党で招待されたのは共産党だけだったという話でした。
志位 そうです。韓国政府の招待で、韓国政府主催の儀軌の返還式典に参加したということです。金宜正(キム・ウィジョン)儀軌還収 委員会共同議長は、式典のあいさつのなかで、笠井さんを、「儀軌返還のためにもっとも尽力してきた功労者」「あまりに熱心にしてくれるので、前世はこちら の人ではないか」(笑い)と紹介したそうです。
笠井さんは、最後の国王である高宗のひ孫にあたる李源(イ・ウォン)王室文化院総裁とも懇談し、日本共産党の歴史と路線を説明すると、うなずいて聞きながら、「あなた方とは心を開いて話し合える」「今後も協議していきたい」と応じたとのことでした。
多くの出会いを通じて、「実際の姿に触れて日本共産党を初めて『発見』した」、「日本共産党を好きになった」、「『共産』という言葉の意味が初めてわかった」との声が韓国の多くの方々から寄せられたということです。
私も2006年の訪韓、昨年の訪韓を通じて、実感しているのですが、韓国の方というのは、真実を知ると一途(いちず)なんです。
小木曽 韓国歴史ドラマ「トンイ」を見ていてわかります。(笑い)
志位 いったん、いろいろな誤解がとけて、日本共産党に信頼をもったら、とことん信頼を寄せてくれるということを感じます。そして 2006年の最初の訪韓、昨年の私や笠井さんの訪韓などを通じて、日本共産党への見方が韓国社会で大きく変わりつつあるということを実感しています。
90年の「党史の力」が、アジアでも世界でも絶大な力を発揮する
大内田 韓国との交流が一段と太くなった。その背景には何があるのでしょうか。
志位 ここでも、「党史の力」というのを強く実感します。
一つは、日本共産党が、朝鮮への植民地支配に厳しく反対し、朝鮮独立の運動に連帯してたたかった党だということです。こういう党は日本で日本共産党しかありません。
もう一つは、日本共産党が、旧ソ連による覇権主義とたたかい、北朝鮮の無法行為にも厳しく批判をつらぬいてきた自主独立の政党であるということです。
韓国というのは、「反共」が強かった国ですけれども、この二つの歴史を語りますと、垣根がなくなる。誰とでも心が通じ合う。「もっとも親しい友人が日本共産党だ」ということになるということを、何度も私は体験してきました。
先日の訪韓では、李明博大統領と懇談し、あいさつを交わす機会がありました。私が、「昨年(2010年)10月に日本共産党は日韓議連に加盟しま した。全議員が加入しており、私は副会長を務めています。日本共産党は、崩壊した旧ソ連の党などとは違う平和的で民主的な政党ですから、ご安心ください」 と語りますと、李大統領は笑顔で応じて、「日本共産党の志位委員長から日韓議員連盟に参加されたとのお話を聞き、ありがとうございます。韓国としても歓迎 します」と語りました。
韓国とは、「従軍慰安婦」問題など、清算すべき過去の問題が残されています。この問題は、昨年末の日韓首脳会談でも大きな問題になりました。過去に正面から向き合い、過ちを清算する。そうしてこそ、真に未来に向けた友好が可能になります。
90年の「党史の力」というのは、私たちの野党外交で、アジアにおいても、世界においても、絶大な力を発揮する。これがこの間、この分野にとりく んできた私たちの実感です。ここに確信を持って、アジア諸国、世界の国々との友好と交流をさらに発展させていく年にしていきたいと思っています。
大内田 戦前・戦後のたたかいが野党外交にもしっかり生きているということを聞いて、本当にうれしく思うし、確信を持ちました。
綱領路線の半世紀でどこまで来たか
「第1の躍進」――自主独立、綱領路線にもとづく全党の努力が実った
小木曽 それでは「第3の時期」、1961年に綱領路線を決めたあとの半世紀の流れについてうかがいたいと思います。
志位 さきほどお話ししたように、正確な路線をつくれば一路前進というわけにいかないんですね。この半世紀というのは、私たちが 「政治対決の弁証法」と呼んでいる曲折と波乱と試練が続いた半世紀でした。この半世紀に私たちは2度の躍進のピークとともに、2度の反共作戦を経験してい ます。
「第1の躍進」は、1960年代の終わりから70年代にかけての日本共産党の国政選挙での連続躍進でした。ちょうど私が入党したころですが、 1972年の総選挙では、日本共産党は563万票、14議席から39議席、野党第2党に躍進しました。自主独立の路線と綱領路線を確立し、1960年代 に、それを力に、国内政治でも、国際政治でも、党が打って出た。その全党の努力の結実が、こういう形で実りました。
革新自治体が全国に広がり、そこに暮らす人口は日本の総人口の約43%になりました。その流れは、国政にも及び、1967年につくられた革新都政から始まった老人医療費無料化が、1973年には国の制度にもなるなど前向きの変化が起こりました。
反共デマキャンペーンと、1980年の「社公合意」
小木曽 そのあとに反共作戦がやってくるのですね。
志位 そうです。この流れに恐れおののいた支配勢力は、1976年に、「共産党=人殺し」とする「春日質問」――これは衆議院の本 会議の壇上から民社党の春日一幸委員長がおこなったデマ攻撃でしたけれども――、これに始まる「日本共産党は暴力と独裁の党だ」という反共キャンペーンを 開始します。
わが党はこれに正面から大反撃をくわえます。反共キャンペーンはわが党の前進に障害を持ち込むものでしたけれども、それだけでは日本共産党を封じ 込めることはできません。政治戦線の再編成が必要になってきます。そこで支配勢力が打った手というのは、社会党・総評ブロックを反革新の側に取り込む革新 分断作戦でした。
その決定的転機になったのが、1980年の社会党と公明党との間で結ばれた日本共産党排除、日米安保条約容認の「社公合意」でした。いま「社公合 意」を読み直してみますと、たとえば「原発容認」なども書いてあるのですよ。社会党がもっていた革新的要素を、ローラーをかけるように根こそぎ押しつぶし た協定だということがよくわかります。
小木曽 その結果、「共産党をのぞく」があらゆる分野に持ち込まれました。
志位 1980年を境に、日本共産党をのぞく事実上の「オール与党」体制がつくられました。国会運営も、「共産党をのぞく」という ものに変わっていきます。革新自治体は、社会党の脱落という形で次々とつぶされ、地方自治も「オール与党」体制に変えられていく。国民運動のいろいろな分 野でも分断が持ち込まれ、一時期は統一開催された原水爆禁止世界大会も分裂させられます。
日本共産党は、この反動攻勢に対して不屈に立ち向かいました。統一戦線運動では、1980年の第15回党大会で、「日本共産党と無党派との共同」という大方針を提唱して、1981年には全国革新懇が結成され、今日大きく発展しています。
しかし、この反共作戦のもとで、わが党は国政選挙での後退、停滞を余儀なくされます。そういう点では苦しい時代が続きます。
反共作戦は「反国民作戦」でもあった
志位 私は、この時期をとらえるさいに、この反動攻勢の時期に破壊的な影響を受けたのは、わが党だけではない、日本の政治全体、国民全体が大被害を受けたということが、たいへん大事な点だったと思うのです。
大内田 反共作戦は、「反国民作戦」でもあったということですね。
志位 その通りです。実はこの指摘は、不破委員長(当時)が、1999年の党創立77周年記念講演会で、「現代史のなかで日本共産 党を考える」と題する記念講演のなかでのべたものですが、私はこの講演を聴いて、この箇所がとても強い印象として残っています。「そうか。その通りだ」と ヒザを打つ思いで聞いたことを思い出します。
大企業中心の政治という点でみますと、1970年代までは、物価問題、公害問題などが噴き出して、「大企業中心主義に反対する」ということは、野 党ならどの党も、ある程度はのべたものでした。ところが、1980年代に入ってすっかり様子が変わる。1980年に「臨時行政調査会(臨調)設置法」が成 立して、「臨調行革」路線が始まります。
小木曽 「メザシの土光」ですね。(笑い)
志位 土光経団連会長、財界が直接指揮をとって、国民の暮らしへの総攻撃を始めます。まず標的にされたのは社会保障でした。 1982年には老人医療費の有料化、84年には健康保険の本人1割窓口負担の導入、85年には年金の給付カットと保険料の引き上げなど、あらゆる分野で社 会保障の破壊が開始されます。
そのうえ「福祉のため」といって、国民のごうごうたる批判に逆らって、1989年には消費税の導入を強行する。
小木曽 日米軍事同盟の問題でも大きな変化がありましたね。
志位 そうです。アメリカいいなり政治という点でも、80年代に入って質が変わってきました。1970年代までは、日米安保の問題 といえば、在日米軍基地の問題が中心でした。米軍基地をベトナム侵略などに使わせない、というのがたたかいの焦点でした。ところが、80年代に入ります と、基地問題だけではなくて、中曽根内閣のもとで、「日本列島不沈空母」「三海峡封鎖」「シーレーン防衛」が叫ばれるなど、米軍と自衛隊の共同軍事作戦が 問題になってきます。
こうして、内政でも外交でも、反共作戦は「反国民作戦」と一体のものだったのです。そういうもとで、日本共産党をのぞく「オール与党」体制と国民 との矛盾が、どんどん累積していく。そして、そのもとで、反共・反動の「時流」にくみせず、国民の立場で筋を貫く党への新たな注目と共感が広がっていきま す。
「オール与党」体制の破たんと、「二大政党づくり」の開始
志位 新たな躍進の予兆が現れたのが、80年代の最後の時期で、1989年4月の消費税導入によって、「列島騒然」という状況にな り、千葉県知事選挙、名古屋市長選挙などで、日本共産党の推薦候補が、あと一歩という大善戦をする。躍進の予兆が起こります。マスコミでも、「地殻変動」 という言葉が盛んに使われました。
小木曽 ところが、その直後、参議院選挙の直前の89年6月に、中国で天安門事件が起きて、これが大きな逆風になっていったわけですね。
志位 そうですね。このときは躍進は予兆で終わり、実現しませんでした。天安門事件を利用した反共大キャンペーンがおこなわれ、それに続くソ連・東欧崩壊を利用したいわゆる「体制選択論」攻撃で、たいへんな逆風が吹き荒れた。
この逆風のさなかにおこなわれた1990年の第19回党大会で、私は書記局長に選任されたのですが、最初の時期というのは、下りのエスカレーター を逆に登っているような、頑張っても、頑張ってもなかなか党の前進に結びつかないという、そういう逆風とのたたかいだったことを思い出します。
しかし、どんなに外国ネタで日本共産党を攻撃しても、支配勢力と国民との矛盾は解決されません。それは深いところでいよいよ広がっていく。そこに、ゼネコン汚職、金権腐敗政治が噴き出してくる。自民党政治への怒りが沸騰しました。
1980年に始まる「オール与党」体制というのは、一見強そうですが、失敗したら大変なのです。「受け皿」となるのは、日本共産党しかない。たいへんにもろい体制だったのです。支配勢力は、この体制ではもう限界だということを感じ始めた。
そこで彼らは新しい反共作戦を始めます。それは、日本の政党戦線を無理やり「二大政党」の枠にはめ込もうという動きです。1993年に自民党が分 裂し、「自民か、非自民か」という大キャンペーンが始まる。94年には小選挙区制が導入される。こういう一連の動きのなかで、「二大政党づくり」が開始さ れました。
この体制が完成すれば、片方が失敗しても、別の片割れが「受け皿」となって、悪い政治が安泰になるし、なによりも日本共産党を抑え込める。こういう思惑で始まりました。「二大政党づくり」の走りがこの時期です。
「第2の躍進」――筋をつらぬいてきた日本共産党への期待が大きく広がる
大内田 委員長が初めて国政選挙に挑戦された1993年の総選挙は、本当にたいへんな選挙でした。私も、お料理の村上昭子先生(故人)と、委員長のところに応援にいったのをおぼえています。(笑い)
志位 ありがとうございます(笑い)。93年の総選挙は、私が旧千葉1区で初めて国政に挑戦した選挙でしたが、二重 の逆風のなかでの選挙でした。「体制選択論」攻撃の逆風と、「自民か、非自民か」という逆風です。マスコミからも「当選は無理」といわれましたが、地元の みなさんの大奮闘、全党のみなさんのご支援によって、なんとか押し上げていただいた。
選挙戦のさなかにNHKのインタビューに出演すると、司会者の方は、「共産党はカヤの外になるではないですか」と聞いてくる。そこで私は、「『カ ヤの外』というけれど、『カヤの中』こそ問題です。そこにあるのは古い腐った政治ではないですか。そんな汚いカヤには頼まれても入りません」(笑い)と答えたことを思い出します。
しかし、支配勢力の「二大政党づくり」のこの最初の試みは、あえなく失敗に終わります。細川政権など「非自民政権」と呼ばれる勢力は、八つの党派 の寄せ集めで、まとまりがなかった。その内部矛盾によって自壊していく。そして、自民党政権が復活します。その後なんとか、自民党に対抗する形での「二大 政党」をつくろうと、「新進党」という党が結成されますが、この党は住専問題で国会の中で「座り込み」をやったあげく大失敗し、自ら政党を解散する。
「二大政党づくり」の最初の試みが大失敗するもとで、筋を貫いてきた日本共産党への期待が大きく広がって、日本共産党の「第2の躍進」が始まります。
この「第2の躍進」は、「第1の躍進」の峰をはるかに越えるもので、1996年の総選挙では、726万票の得票をえて大きく躍進する。98年の参議院選挙では820万票と、史上最高の峰を更新しました。
苦しいなかでも、国民の立場で筋を貫くことがいかに大切かを痛感したものでした。「汚いカヤ」に入らなくてよかったと本当に思いました。(笑い)
小木曽 本当にそうですね。(笑い)
熱い政治問題での党の値打ちとともに、「日本改革の方針」を大きく示す
志位 この時期の躍進を振り返ってみますと、1996年の住専問題、97年の消費税増税問題など、熱い政治問題、その時々の矛盾の 焦点で、党の値打ちを光らせるたたかいとともに、日本共産党の「日本改革の方針」を大きく示していった。「日本共産党はどういう日本をつくるか」というこ とを正面から語り抜いていった。これが、躍進の大きな力になったというのは、たいへんに大事な教訓だったと思います。
この時期に、私たちは、1997年に第21回党大会、2000年に第22回党大会を開いて、「日本改革の方針」をまとまった形で発展させ、それはやがて新綱領に結実することになりました。
第2の反共作戦の発動――反共謀略から本格的な「二大政党づくり」
小木曽 「第2の躍進」のあとに、第2の反共作戦が本格的に発動されるということになるわけですね。
志位 第2の反共作戦も、はじめは反共キャンペーンから始まりました。2000年6月の総選挙では、空前の反共謀略ビラがまかれま した。またもや「暴力と独裁の党」というデマ攻撃ですが、今度は「名無しの権兵衛」、出所不明の謀略ビラに訴えた点で、反共攻撃の質は一段と悪くなりまし た。私も選挙戦を走りながら、街の空気が一気に冷え込んだことを思い出します。
それに続いて、今度は財界が直接乗り出しての、本格的な「二大政党づくり」がすすめられます。それが発動されたのは、2003年の総選挙でした。 今度は寄せ集めではなく、「民主党」という政党を財界が仲介までしてつくりあげて、「自民か、民主か」という枠内に国民の選択を押し込めるという大キャン ペーンがすすめられました。
私たちにとって、この反共作戦による逆風は、それまでのどんな反共作戦をも上回る逆風だったと思います。国政選挙でも後退・停滞を余儀なくされました。
「二大政党づくり」のもとで、暮らしと経済、政治、社会はどうなったか
志位 ただ、ここでもしっかり見ておきたいのは、この反共作戦が「最強・最悪」のものであるとともに、最悪の「反国民作戦」だったということなのです。
小木曽 たしかにこの10年間を振り返りますと、暮らしも、外交も、いよいよがたがたにされたという感じです。
志位 そうです。自公政権がすすめた「構造改革」路線というのがあります。とくに「小泉構造改革」がひどかったのですが、社会保障 費の自然増から毎年2200億円を削減する、無慈悲な切り捨て政策がすすめられました。老人医療費は、定額負担から1割負担に引き上げられる。健康保険は 2割から3割負担に引き上げられる。「100年安心」の名で、年金の給付カットと、保険料引き上げの大改悪が強行される。そして、お年寄りを「うばすて 山」に追いやる後期高齢者医療制度が導入される。社会保障はずたずたになりました。
さらに、「人間らしい労働」が破壊されていきました。この動きは、1995年の日経連の報告で、“これからは正社員を減らし、非正規社員を増や す”という大号令がかかったのが始まりなのですが、それを受けて、1999年に労働者派遣法が改悪されて派遣労働が原則自由化になる。2004年には製造 業まで派遣労働が拡大される。「人間らしい労働」が破壊され、人間をモノのように「使い捨て」にするという事態が、社会を覆っていきます。
この時期の数字を紹介しますと、2000年と2010年で比較して、民間給与の総額は216兆円から194兆円に減っている。賃金がどんどん減る 社会になりました。非正規労働者の率は26%から36%に増えました。一方で、大企業の内部留保は、172兆円から260兆円まで膨らみました。
外交を見ますと、自衛隊の海外派兵が日米安保条約という枠を超えて、全世界に広がりました。アフガン戦争、イラク戦争への自衛隊の参戦は、それぞ れ「特措法」をつくってやったわけですけれど、安保条約の条文に関係なく、「日米同盟」という4文字で、世界中への派兵がおこなわれる。そのなかで、米軍 基地問題もいよいよ深刻化して、沖縄の新基地建設の問題、横須賀の原子力空母配備など、アメリカの世界戦略の前線基地として基地問題の矛盾もいっそう深刻 になっていく。
さらに、政治と経済だけでなく、社会も大被害を受けました。「自己責任」論が横行するもとで、社会にもいろいろな衰退現象が起こります。心の病 が、「メンタルヘルス」という言葉とともに社会に広がります。自殺する方がうんと増えていったのも本当に心が痛む話です。まさに反共作戦と同時並行で、空 前の国民的災厄が広がったというのがこの10年間だったのです。
小木曽 反共は、国民生活破壊、平和破壊の道であり、社会までも壊していった。
志位 その通りです。
奮闘いかんでは「第3の躍進」を現実のものとする可能性が
大内田 「こんな自民党政治はごめんだ」という声が澎湃(ほうはい)として湧き起こり、「政権交代」という結果になりました。
志位 「政権交代」にかけた国民の期待というのは、「自民党政治を変えてほしい」の一点にありました。この国民の圧力がありましたから、発足当初の民主党政権には、国民の要求を部分ではあれ反映した前向きの要素もふくまれていました。
しかし、それはこの2年半でことごとく裏切られた。「民主党の自民党化」が完成したというのが野田政権です。しかし、「民主も自民もまったく同 じ」ということになりますと、「二大政党による政権選択」という、支配勢力がたくらんだ枠組みそのものが成り立たなくなるわけです。同じものだったら、ど ちらかを選べといったって、選びようがない、どっちもダメということになりますから。昨年12月の4中総で、「『二大政党づくり』の破たん」とのべたのは このことなんです。
実際、「二大政党」の基盤の大崩壊が全国どこでも始まっています。これまで、自民党、民主党を支持してきた人々が両方に幻滅して、新しい政治を求 めるという激動が始まっています。政党の力関係の劇的変化の可能性が生まれています。そして、「二大政党づくり」のもとで、国民生活と平和への攻撃に対し て、国民とともに頑強にたたかいぬいた日本共産党への新たな注目と期待が広がっています。「原発ゼロ」、TPP(環太平洋連携協定)反対、米軍基地問題な どいろいろな分野で、政党の垣根を越えた「一点共闘」が生まれ、新しい共同が広がっています。頑張りいかんでは「第3の躍進」の時期をつくりうる新しい情 勢が生まれているというのが、この半世紀のたたかいをへて、いま私たちが立っている地点だと思います。
小木曽 この可能性を実らせて、「第3の躍進」を現実のものにしたいですね。
志位 はい。本当にそう思います。
「歴史的岐路」にたつ日本
支配勢力は、反共作戦をやるたびに、自らの基盤を掘り崩す
小木曽 ずっとお話を聞いてきて、反共作戦というのは「反国民作戦」だと。それだけにやればやるほど、われわれにとっては厳しいけれど、同時に矛盾を深めるということが非常によくわかりました。
志位 そうですね。支配勢力は、反共作戦をやるたびに、自らの基盤をどんどん掘り崩し、行き詰まりをひどくしている。私は、それ が、半世紀の「政治対決の弁証法」の一つの明確な結論ではないかと思います。これを繰り返しやることによって、ついに政治も経済も社会もボロボロにしてし まったというのが現状ではないでしょうか。
野田内閣にいたって、それが行き着くところまで行ったという観があります。この内閣は、ここまで行き詰まった日本をどうするのかについて、国民に 希望ある展望は何一つ示していないでしょう。米国と財界にいわれるまま、沖縄に米軍新基地を押し付けようとする。消費税増税と社会保障の「一体改悪」の道 を突きすすむ。TPP参加にむけた暴走を開始する。まったく先のない道を、やみくもに暴走しているというのが、この内閣です。一方、自民党は、民主党に 「もっとしっかりやれ」という立場から、いろいろないちゃもんをつけるという程度のもので、こちらにも展望は何もない。
支配勢力が、ここまで国民に明日を語れなくなっているのは、戦後の日本政治においてもかつてないことではないでしょうか。
反動的逆流を許さない――このたたかいをつうじて新しい共同を
小木曽 ただ、それだけに相手も必死なわけですね。いろいろな危ない動きが起こっていることは見逃せません。
志位 どんなに行き詰まっても、反動的打開の危険はある。そのことを私たちは絶対に過小評価できません。昨年末、野田政権は、消費 税増税と衆院比例定数削減を一体に進める方針を決めましたが、最悪の大増税と民主主義破壊をセットで進める暴挙を、絶対に許さないたたかいは焦眉の課題と なっています。
さらに、橋下・「大阪維新の会」による「大阪都構想」「教育基本条例案」「職員基本条例案」の「独裁3点セット」を許さないたたかいは、大阪だけ でなく、日本の民主主義を守るたたかいとして、力をいれてとりくみたいと決意しています。この問題では、民主党も、自民党も、公明党も、中央段階の動きを みると、橋下市長が国会に行ったら、みんな橋下・「維新の会」にすりよる、みじめな「腰ぬけ」ぶりをさらけだしています。そういうときだけに、日本共産党 が、広範な保守の方々も含めて、民主主義を守る大黒柱として、広大な共同を広げて、いまのたくらみを打ち破れば、ここでも日本共産党への新しい信頼が広が る条件があるわけです。現に広がりつつあるということを、「しんぶん赤旗」のシリーズ「列島激変」でも生き生きと描いています。
「危機」と「希望」が交錯――日本共産党の頑張りどころの情勢
大内田 本当にそういう意味では、「歴史的岐路」ということを実感します。私たちの頑張りどころだと思います。
志位 そうです。「二大政党づくり」の破たんという新しい情勢のもとで、日本は文字通り「歴史的岐路」にたっていると痛感します。
この行き詰まりを打開する道は、私たちが「二つの異常」と特徴づけている「異常な対米従属」、「大企業・財界の横暴な支配」にメスを入れる、日本 の政治のゆがみに根本からメスを入れる改革をおこなう以外にありません。古い政治の土俵のうえで、ちゃちな「改革」をやってみたところで、悪くなるだけ で、にっちもさっちもいかないのです。
そのことが、多くの国民の認識となれば、日本の政治は大きく変わる。まさに「歴史的前夜」にあります。私たちの頑張りいかんで、日本共産党の新たな前進・躍進をかちとる条件は大いにある。頑張りが足りなければチャンスを逃がす。ここをしっかりとらえて、力をつくしたい。
4中総報告で、私は、「政治と社会の危機と新しい時代への希望が交錯する激動の情勢」といいましたが、文字通り、「危機」と「希望」が交錯する、日本共産党の頑張りどころだと思います。
「希望」を現実のものとするカギはどこにあるか
小木曽 「希望」を現実のものとするうえで、カギはどこにあるでしょう。
志位 4中総では、今年予想される総選挙を、「民主連合政府にむけた新しいスタートを切る選挙にしよう」とよびかけ、「すべての小 選挙区での候補者擁立をめざす」ということを決めました。4中総決定にもとづく討論が全国でおこなわれていますが、「革命的気概をよびおこされた」という 反応が、各地から寄せられていることは、心強いかぎりです。民主連合政府というのは民主主義革命を実行する政府ですから、革命をめざして新たなスタートを 切ろうという提起なのです。
「希望」を現実のものとするうえで、私は、三つの点をいいたいと思います。
一つは、間違った政治への批判とともに、私たちの日本改革のビジョンを大いに語るということです。1990年代後半の躍進の時代は、その点での重 要な教訓を残しています。政治の閉塞(へいそく)状態、政治不信が強いだけに、これを打開する展望をどれだけ説得力をもって語れるか。21世紀の今日にそ くした「日本改革の方針」を、新しい綱領を土台にまとまって示し、それを広く国民のなかで語ることに、大いに力を入れてとりくみたい。くわえて、資本主義 をのりこえる未来社会の展望も大いに語りたいと思います。
二つは、あらゆる要求をとらえた国民運動を大いに発展させることです。震災復興と「原発ゼロ」のたたかいが引き続き大事になってきますが、同時 に、今年は、TPP問題、普天間問題、消費税増税と社会保障の問題、こういう一連の国政の熱い問題で、いよいよその是非が国民的に問われる年にもなりま す。そういうさまざまな問題で、保守の方々も含めた「一点共闘」を重層的に発展させながら、新しい統一戦線を築き上げる意気込みで、国民運動を大いに発展 させたい。
三つは、強く大きな党をつくることです。客観情勢の劇的進展にくらべて、日本共産党の自力が足りない。ここに私たちの最大の問題があります。この 弱点を何としても打開したい。今年の7月15日の党創立90周年をめざす「党勢拡大大運動」のとりくみは、昨年来のとりくみで、まだ端緒ですが、新たな前 進がはじまっています。とくに、職場と若者のなかでの党員拡大で、新しい前進の芽が全国各地で生まれているのは心強いことです。
「しんぶん赤旗」読者のみなさんに心から感謝し、協力をお願いします
志位 それから「しんぶん赤旗」日刊紙を値上げさせていただきましたが、読者のみなさんのご協力、全党の努力で陣地を維持していま す。今年はさらに本格的前進に転じたいと考えていますが、値上げにもかかわらず日刊紙の購読を続け、また新たに読者になっていただき、このかけがえのない 新聞を支えてくださっているみなさんに、心からの感謝を申し上げるとともに、今後ともご協力をいただくことを願っています。
90周年の歴史に学び、「党史の力」を生かし、綱領と党史を語り、躍進の年にするために全力をつくす決意です。
小木曽 読者のみなさんには、私からもお礼を申し上げます。赤旗編集局としても、この新聞をさらに魅力ある新聞として発展させるために、頑張りたいと思います。
小木曽、大内田 今日はどうもありがとうございました。
志位 ありがとうございました。
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