ウクライナ共和国(旧ソ連)のチェルノブイリ原発4号炉が爆発した。
1月に子どもを産んだばかりのわたしは、
どこにいても放射能汚染から逃れることはできないと、
涙をながしながらおっぱいを飲ませた。
チェルノブイリ原発事故は、
わたしにとって他人事ではなかった。
91年、ソ連崩壊とともに被災地の情報が入り始め、
わたしは「チェルノブイリ救援活動」にかかわった。
事故から10年。1996年4月26日。
わたしは現地ウクライナにいた。
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鳥のさえずりとともに目覚めた朝。
コウノトリが家の屋根に巣を作り花が咲き乱れる
うつくしい大地が汚染されているとは、
とても信じられなかった。
原発現地ジトーミル州での救援活動を展開していたわたしたちは、
特別の許可を得て、チェルノブイリ原発を訪れた。
汚染圏内の消防署の時計は、
1986年4月26日、午前1時23分で止まったまま。
というより、
その瞬間(とき)から、すべての時間が止まったような
汚染地帯は、とても不気味だった。
30キロ圏内、10キロ圏内と、厳重な検問所があり、
下着以外の服を、収容所のような衛生センターで
ぶかぶかの防護服に着替えるよう指示された。
専用のバスに乗り換え、マスクを取らないようにと注意されたが、
こんなちゃちなマスクで放射線が防げるとは思えなかった。
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4号炉は、分厚いコンクリートの石棺で覆われていた。
バスから降りて、原発から200m地点から石棺を見あげた。
放射線量は、やはり7~10マイクロシーベルトと高い。
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強い風に舞い上がった砂埃がこちらに吹いてきたとき、
放射能測定器の針が一気に振り切れた。
身もすくむような恐怖で、すぐにバスに戻った。
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原発をあとにして、約3キロ。
無人のまち「プリピャチ」を訪れた。
高層アパートが連なる原発で働いていた人たちの
家族が住んでいたプリピャチには、
幼稚園や学校やマーケット、遊園地まであった。
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道路は除染されていたが、
草むらに生える苔は、原発正面前より汚染されていた。
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無人の幼稚園のなかに入ると、
いましがたまで子どもたちが遊んでいたままに、
おもちゃが散乱していた。
あちこちに転がっている子ども用の防毒マスク。
着の身着のままで逃げたのだろうか、
ここにいた子どもたちは今どうしているのだろう、
と、胸がつまった。
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10キロ圏内のゲートに出るとき、入るときと同じように、
服を着替え金属探知機のような放射能測定器をくぐり、
数値に変化があれば足止めされるという。
異常は無かったが、きっとわたしも被爆したのだろう。
石棺はボロボロ。安全ということはあり得ない。
なのに、
30キロ圏内の汚染地帯のナロジチ村には、
強制退去させられたはずの人たちが、戻ってきていた。
「チェルノブイリ=黒いニガヨモギ」の地で
生きることを選んだひとたち。
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事故当時、消火活動や除染作業をした消防士さんたちが勤める
ジトーミル州の消防署長は、日本に招いたアントニュークさんだった。
いっしょに来日したオチュカノフさんとも会いたかったけれど、
体調不良で入院してて会えなかった。
わたしたちは、ジトーミル州消防署での、
「チェルノブイリ10周年記念式典」に招かれ、
3月まで「チェルノブイリ救援・中部」の代表をしていたわたしは、
消防士や家族、官僚の前で突然スピーチを頼まれた。
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事故と同じ年に生まれた子を持つわたしにとって、
チェルノブイリは、遠い国のできごとではないこと、
チェルノブイリはだれの身に起きても不思議ではなかった、
わたしはウクライナの人たちを救おうと思ったけれど、
あの日、救われていたのはわたしだった、
わたしは無力だけど、
チェルノブイリに思いを寄せ続けること、
チェルノブイリをけっして忘れない、
と、そんなわたしの想いを話した。
そして、
友人のフォークシンガー、
南修治さんの作詞作曲の歌を、
通訳のセルゲイくんに訳してもらいながら、
ゆっくりとうたった。
ひとかけらのパンとぶどう酒を
ためさなければ受け入れられない
そんなかなしい日常を
うたがいだらけの毎日を
かぜよ かぜよ 伝えておくれ
わたしのともだちに
最後のできごとにしたいから
かぜよ かぜよ
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写真は10年前に撮ったものです。
最後まで、読んでくださってありがとう。
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