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【NHKスペシャル】戦慄の記録 インパール 2017年8月15日(火) 午後7時30分~8時43分 相手の戦力や兵站を軽視した無謀な戦いで甚大な死傷者を出し、旧日本軍の体質を象徴的に示したとされる「インパール作戦」。「援蒋ルート」の遮断を主目的とし、ミャンマー(当時ビルマ)からイギリス軍の拠点があったインド北東部のインパールの攻略を目指した日本軍は、この作戦で歴史的敗北を喫した。餓死・戦病死した日本兵の死屍累々が並んだ道が「白骨街道」と呼ばれるほど凄惨な戦いの実態はどのようなものだったのか。これまでインドとミャンマーの国境地帯は戦後長く未踏の地だったが、今回、両政府との長年の交渉の末に現地取材が可能となった。さらに、新たに見つかった一次資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから「陸軍史上最悪」とされる作戦の全貌が浮かび上がってきた。数々のスクープ映像と新資料、証言からなる「インパール作戦」の全記録は、決して忘却してはならない悲劇の記憶を、未来へと継承していく。 |
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社説:72年目の8月15日 色あせぬ歴史の教訓 2017年8月15日 朝日新聞 あの戦争のころ、世の中はどんな色をしていたのか。 世界のすべてがモノクロームだったようなイメージがある。そう話す若者たちがいる。目にする空襲や戦地の映像はどれもモノクロだから、と。 「『戦時下』って、自分とは別次元のまったく違う世界だと感じていた」 戦中の暮らしを描いたアニメ映画『この世界の片隅に』で主人公の声を演じた、いま24歳ののんさんもそう語っていた。 今年も8月15日を迎えた。 「不戦の誓いとか戦争体験の継承とか言われても、時代が違うのだから」。若い世代からそんな戸惑いが聞こえてくる。 たしかに同じ歴史がくり返されることはない。戦争の形も時代に応じて変わる。だが、その土台を支える社会のありように共通するものを見ることができる。そこに歴史の教訓がある。 ■戦時下のにぎわい 日中戦争が始まった翌月の1937年8月。作家の永井荷風は日記に書いた。「この頃東京住民の生活を見るに、彼らは相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如(ごと)く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり」 軍需産業の隆盛で日本はこの年、23%という経済成長率を記録。世は好景気にわいた。 戦線が中国奥地に広がり、泥沼化した2年後の東京・銀座の情景もさほど変わらない。 映画館を囲む人々の行列。女性たちは短いスカートでおしゃれを楽しむ。流行は、ぼたんの花のようなえんじ色とやわらかい青竹色。夜になればサラリーマンはネオンの街に酔った。 戦地はあくまでも海の向こう。都会に住む人の間には「どこに戦争があるのか」という、ひとごとのような気分があったと当時の記録にある。 どこに、の答えが見つかった時にはもう遅い。〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉。この年そう詠んだ新興俳句の渡辺白泉は、翌年、創作活動を理由に治安維持法違反の疑いで逮捕される。白泉が言い当てたように、時代は日常と非日常とを混在させながら流れていった。 <strong> ■いまを見る歴史の目 社会が息苦しさを増す過程で最初にあらわれ、後戻りすることがなかったのは、多様性の否定だった。朝鮮、台湾の植民地や沖縄で日本への同化教育が行われ、国内でも天皇機関説事件などによって、学問や言論の自由が急速に失われていく。 享受している生活が、そうした価値と引き換えであることに気がつかなかった人、気づいたけれども声に出さなかった人。その後の日本にどんな運命が待ち受けていたかを、後の世代は知っている。 歴史の高みから「分岐点」を探し、論じるのはたやすい。ではいまの社会は、数十年後の日本人からどんな評価を受けるのだろうか。 作家の半藤一利さんは、近代以降の日本は40年ごとに興亡の波を迎えてきたと説く。 幕末から日露戦争まで。そこから先の大戦に敗れるまで。次は焼け跡からバブル経済まで。興隆と衰退が交互にあり、いまは再び衰退期にあると見る。 「人々は約40年たつと、以前の歴史を忘れてしまう。日中戦争や太平洋戦争の頃のリーダーで日露戦争の惨状をわかっていた人は、ほぼいない。いまの政治家も同じことです」 ■「似た空気」危ぶむ声 半藤さんも、ほかの学者や研究者と同様、「歴史はくり返す」と安易に口にすることはしない。歴史という大河をつくるひとつひとつの小さな事実や偶然、その背後にある時代背景の複雑さを知るからだ。 それでも近年、そうした歴史に通じた人々から「戦前と似た空気」を指摘する声が相次ぐ。 安保法制や「共謀罪」法が象徴のように言われるが、それだけでない。もっと奥底にあるもの、いきすぎた自国第一主義、他国や他民族を蔑視する言動、「個」よりも「公の秩序」を優先すべきだという考え、権力が設定した国益や価値観に異を唱えることを許さない風潮など、危うさが社会を覆う。 「歴史をつくる人間の考え方や精神はそうそう変わらない」と、半藤さんは警告する。 一方で、かつての日本と明らかに違う点があるのも確かだ。 表現、思想、学問などの自由を保障した憲法をもち、育ててきたこと。軍を保有しないこと。そして何より、政治の行方を決める力を、主権者である国民が持っていることだ。 72年前に破局を迎えた日本と地続きの社会に生きている己を自覚し、再び破局をもたらさぬよう足元を点検し、おかしな動きがあれば声を上げ、ただす。 それが、いまを生きる市民に、そしてメディアに課せられた未来への責務だと考える。 1945年8月15日。空はモノクロだったわけではない。夏の青空が列島に広がっていた。 |
社説:誰が戦争を止めるのか 終戦の日に考える 2017年8月15日 中日新聞 人類の歴史は戦争の歴史ともいわれるが、いったい誰が戦争を起こすのか、また誰が戦争を止めるのか。最近の二つのニュースから考えてみたい。 一つめのニュースは、六月、世界に配信されたアラブの武器商人アドナン・カショギ氏の訃報。八十一歳。ロンドンでパーキンソン病の治療を受けていた。 イスラム教の聖地メッカで宮廷医の父に生まれ、米国に留学。初仕事は在学中の二十一歳、米国からエジプトへの大量のトラックを売る仲介だったという。 武器商人カショギ氏 その後武器商人に転じ、米紙ニューヨーク・タイムズによると顧客の企業は、航空機やミサイルのノースロップ、ロッキード、グラマン、車両類ではクライスラー、フィアットなど。製品は世界に流れた。米国からイランへの武器密輸、イラン・コントラ事件にも関わる。 かたや高雅な暮らしを愛し、豪邸で豪華なパーティー。その晩年「私が何か悪いことをしたって。一切ない」と述べたという。 武器、兵器はもちろん国家の防衛品である。生産は兵器産業を支え、科学技術を進展させもする。 しかし一方でおびただしい血を流させもしただろう。 武器商人が死の商人と呼ばれるゆえんでもある。 二十世紀が戦争の世紀と呼ばれ、兵器開発に明け暮れ、戦争を繰り返してきたことを忘れてはなるまい。 その反省と深い悔悟を忘れてはなるまい。 その主体は国家であり、国民であり、つまり私たち民衆である。 二つめのニュースは、先月、国連で採択された核兵器禁止条約である。 米ロなど核兵器保有国と、アメリカの核の傘の下などとして日本は不参加だったけれど、多くの国々が核兵器の使用・保有・生産、また威嚇の禁止を約束した。 被爆者らの不屈の訴え 国の動きとは別に被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の長く不屈の訴えがあった。被爆少女の折り鶴は反原爆のしるしである。小さな柔らかな紙であっても訴えは鋼より強いはずだ。 思い出してみよう。 一九九九年に対人地雷禁止条約、二〇〇八年にはクラスター弾禁止条約が実現している。市民と有志国の力である。 対人地雷は田畑を耕そうとする人々を殺し苦しめ、小さく多数ばらまかれるクラスター弾は拾う子どもらを殺傷した。その直接の当事者ではなくとも、国は違えども同じ人間として黙ってはいられない。普通の人々の正義である。 その普通の人々が戦争を止めたことはある。 よく知られた例はベトナム戦争だろうか。 一九六六年暮れ、ニューヨーク・タイムズのハリソン・ソールズベリ記者がハノイに入り、戦争の実態を伝え始めた。果たして勝てるのか、と。 対抗するようにワシントン・ポストのコラムは共産主義側の宣伝の鵜呑(うの)みと批判したが、全米約三十市で反戦デモがわき起こる。徴兵拒否が起きる。 やがてデモはホワイトハウスを取り囲み、ニクソン大統領は米軍撤退を決める。 国民には自国の戦争を止める力がある。 政情はどうあれ、私たちは私たち自身の力をいまだ軽んじてはいないだろうか。 逆に国民は戦争に興奮することがある。 英国のフォークランド(アルゼンチン名、マルビナス)紛争時、アルゼンチン軍に制圧された英兵が地面に腹ばいに伏せさせられている写真を見た英国民は開戦へと奮い立った。失業とインフレで支持率低迷中のサッチャー首相は国防相や外相らの慎重論を押し切り戦争に踏み切った。 結果は戦勝で、支持率は上がった。しかし英国側二百五十六人の死者、七百七十七人の負傷者を出し、アルゼンチン側ではそれ以上の犠牲者のいたことを忘れてはなるまい。アルゼンチン側にもむろん非はある。それでも外交解決は本当に無理だったのか。政治は何を恐れ国民は何を望んだのか。 平和の世紀を求めよう もし人類が進歩するというのなら、戦争の世紀から平和の世紀へと変えねばならない。 武器商人カショギ氏らの活躍した世紀から、市民・民衆の求める平和の世紀へと移行せねばならない。そういう力は強くなりつつある。そういう時代に私たちは生きている。 対人地雷、クラスター弾、そして核兵器。それらに決別を告げる世界運動は、戦争の歴史に別れを告げる人類史の小さくとも大切な一歩であると思いたい。 |
社説:きょう終戦の日 目指すべき追悼の姿とは 毎日新聞2017年8月15日 今年も8月15日がめぐってきた。 政府が終戦の日に全国戦没者追悼式を開くようになったのは1963年からだ。日中戦争以降の戦没者310万人を悼み、不戦を誓う国家行事だが、会場の日本武道館はあくまで1日だけの設営である。 戦没者のうち50万人は、国内での空襲や原爆で命を落とした市井の人びとだ。戦争は遠い南洋から国内の隅々までを巻き込んだのに、これらすべての戦争犠牲者を横断する恒久的な追悼施設が日本にはない。 それはなぜだろうか。 2008年2月、滝実衆院議員は空襲被害者向けの国立慰霊碑の建立を求めて質問主意書を出した。 福田内閣は、兵庫県姫路市にある「太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔」の平和祈念式に政府代表も参列していることを理由に、建立の考えはないと回答している。 一貫しない政府の姿勢 姫路の慰霊塔は、空襲の被災自治体が共同で56年に建立した。軍人・軍属に比べ「無辜(むこ)の市民」には「国家的に何らの顧慮も払われていない」ことへの抗議でもあった。 確かに姫路には総務省政務官らが派遣されている。ただし、毎年の参列は03年からであり、政府の姿勢が一貫しているとは言い難い。 東京大空襲(45年3月)で推定10万人が亡くなった下町地域には、小さな慰霊施設が数多く点在する。 その一つ、江東区森下の「八百霊(やおたま)地蔵尊」は終戦の翌年にできた。800人近い犠牲者が名称の由来だ。 家族生き別れで遺骨もない人が多かった。そこで2年前、過去帳を基に全死没者の氏名を刻んだ御影(みかげ)石の墓碑が祠(ほこら)の横にすえられた。 墓碑建立に取り組んだ築山実さん(88)は「多くの遺族にとって地蔵尊はお墓代わり」と話す。 このように、国内の非戦闘員に対する慰霊・追悼は、自治体や地域の人びとの自発性に負ってきたのが実情だろう。そこに確固とした国家意思を見いだすことはできない。 背景には、戦没者の死の意味に対する理解の分裂がある。国家に尊い命をささげたと考えるか、国家の過ちの犠牲になったと考えるかだ。 前者の代表は靖国神社だ。遺族にとって夫や息子の死が無駄ではなかったことを確認しなければ心の傷は癒やされない。靖国こそ慰霊の中心施設だという心情は理解できる。 しかし、靖国神社の最も重要な機能は国家に殉じた人の顕彰にある。それは必然的に国家に功績があった死者かどうかの選別を伴う。 合祀(ごうし)者の中には、補給を度外視した作戦で餓死した人や、捕虜を恥とする「戦陣訓」を守って自決した人が数多く含まれる。顕彰によっても国家の罪は免れない。 戦後の一時期、靖国神社が平和主義志向を強めたこともあった。しかし、松平永芳宮司時代の78年にA級戦犯を合祀して以降、内外の批判を受け付けない体質が強まり、中心的な追悼施設になる道を自ら遠ざけてしまったように見える。 差異乗り越える努力を 戦争受忍論と呼ばれる考え方も追悼施設の議論に水を差してきた。 戦争という非常事態に伴う犠牲は、国民が等しく受忍しなければならないとして、空襲被害に対する国家責任を否定する論理だ。 今年4月に亡くなったフォーク歌手、加川良さんは代表曲「教訓1」で「御国(おくに)は俺達死んだとて/ずっと後まで残りますヨネ/失礼しましたで終るだけ」とそれを皮肉った。 アジアから見れば日本は加害者である。同じ敗戦国のドイツは統一後の93年に中央追悼施設を内外すべての戦争犠牲者向けに改装した。 追悼式の首相式辞で「アジア」に初めて触れたのは93年の細川護熙首相だ。以来アジアへの加害責任が踏襲されてきたが、安倍晋三首相は13年から一貫して言及を避けている。 国家は国民の共同体として存在する。国家意思は変わっても国民への責任は負い続ける。その国家が進めた戦争による犠牲者の追悼をめぐって、戦後日本は異なる流れをまとめられずに今日まできた。 国立の恒久施設のない現状では、この溝が埋められない。政府は歴史的な経緯や差異を乗り越える努力をすべきである。それでこそ「不戦の誓い」は強さを増す。 72年続く平和がすべての戦争犠牲者を礎にしていることは言うまでもない。立場や事情を問わずに等しく追悼できる環境を整えることが、死者への責任の果たし方だろう。 |
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