常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

津軽

2012年12月22日 | 読書


コボで太宰治の『津軽』を再読した。太宰は著名な作家であり、友人にその信奉者も少なからずあったから、若いころから多少読みかじってはいたが、『人間失格』など読んでみてあまり好きな作家ではなかった。だが、30年ほど前に、この『津軽』を読んでから太宰への見かたが変わり、親しみを感じるようになった。

久しぶりで再読してみて、この小説の印象は少しも変わっていなかった。国を出て著名な作家になった太宰が、少しシャイな性格をむしろ誇張するような表現で、故郷の友人と酒を酌み交わす語り口は実に好感が持てる。この小説のクライマックスは、なんといっても太宰が3歳のときから子守役として住み込んだ越野タケとの再開の場面である。小説の中に太宰自筆のタケの似顔絵が納められている。

タケとの再開の場面で、うち黙っていたタケが、急に堰を切ったように能弁になる。「---まあよくきたなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、タケに昔噺語らせて、タケの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、めごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へもたまに行ったが、金木の町をあるきながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供ひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」

文庫本の中に小さな新聞の切り抜きが挟んであった。見出しに「太宰治の乳母越野さん死去」とある。昭和58年12月16日の朝日新聞である。「越野タケさんが15日午後6時25分、老衰のため、青森県北津軽郡小泊村の自宅で亡くなった。85歳だった。」と書かれている。添えられた顔写真は、太宰の似顔絵に通じるものがある。記事には、前年まで太宰治の生家、斜陽館で開かれる「桜桃忌」に出席して、幼いころの「修ちゃん」の話に花を咲かせていたという。

私も読書会の仲間とこの斜陽館を訪れたことがあるが、越野タケさんが死去したと同じ頃であったように記憶している。それにしても、若くして命を絶った太宰治の死を越野さんはどんな思いで受け入れたのであろうか。
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