教師をやめる、と詞書して芥川龍之介が詠んだ句がある。
帰らなんいざ草の庵は春の風 龍之介
芥川龍之介は、大正5年に東京帝大英文科を卒業し大学院に進んだが、一高の先生の紹介で、海軍機関学校の嘱託教師になった。月報60円の俸給を得ることになった。大正5年に書いた小説「鼻」が、夏目漱石の激賞を受けて文壇へのデビューを果した。龍之介はその後も、執筆を続ける。大正6年に「羅生門」、7年には、「蜘蛛の糸」、「地獄変」を刊行、一躍流行作家の仲間入りをしている。こうした作家生活と教師との二股は、龍之介の重荷になったのか、大正8年には教師の辞職に踏み切った。
陶淵明の帰去来の辞を下敷きに、俸給生活の拘束からの解放された気分が詠みこまれている。草の庵は、龍之介が帰るみすぼらしいわが家を、淵明の草庵に喩えたものだ。その家には駘蕩として春風が吹いている、さぞのどかな日々が待っていることであろう、というのである。
帰去来兮(帰りなんいざ)
田園将に蕪れなんとす 胡ぞ帰らざる。
既に自ら心を以て形の役(しもべ)と為す
奚ぞ惆悵として独り悲しむや。
陶淵明の帰去来兮辞の冒頭である。淵明が俸給生活に見切りをつけたのは41歳のときであった。そのきっかけは、淵明が彭沢県の知事をしていたときのことである。ここを郡の政庁が監察官を派遣して、巡視にきた。下僚から、「正装してうやうやしく監察官を迎えるように」と言われ、むっとした淵明が、「我五斗米の為に、腰を折りて郷里の小人に向かうこと能わず」と言ってこの職も辞任した。その日に作ったのがこの有名な帰去来兮辞である。義熙元年、西暦405年、わが国は倭と呼ばれ、魏志倭人伝のなかに紹介されていた頃の時代であった。
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