惟然
2015年02月17日 | 人

一昨日のヒヨドリの項で引用させてもらった惟然であるが、芭蕉の門人素牛、出家して惟然(いぜん)と号した。美濃の国関の酒造家岩本屋の三男に生まれた。いわば、素封家に生まれたが、はやくから俳句の道へ入り、俳号を素牛と称した。
ある春の日に梅の花が鳥の羽風にはらはらと散るのを見て、にわかに世を疎んじ、妻子を捨てて出家し、蕉門を敲き、惟然と号した。元禄7年、芭蕉の最晩年であるが、この年西国の旅にあった芭蕉は、嵯峨の落柿舎や湖南へ遊んだとき、惟然は師の訓導を最も多く受けた時期であった。しかし、芭蕉はその後、大阪に行くが発病し、臨終を迎えることになるが、惟然はその場に立ち会っている。
別るヽや柿喰ひながら坂の上 惟 然
正岡子規を彷彿とさせるような句であるが、芭蕉が無名庵を発って、伊賀へと向かうときの即興である。惟然の洒脱な感じが句に出ている。
芭蕉没後の惟然は、乞食のような汚いなりで、風羅念仏を唱え師の菩提を弔いながら諸国を流浪した。父を慕い、探し回っていた娘にあった惟然は、娘が捉えた袖をはらい
両袖にただ何となく時雨かな 惟 然
と詠んで、走り去った。娘は髪を切って、庵を結び、父の画像を掲げて仕えたという。風羅念仏というのは、木魚に似た鳴りものを拵え「古池に、古池に、蛙とびこむ水の音、ナムアミダブツ、ナムアミダ(鉢叩きの音)」と唱えながら、街道を巡回したのだ。家族、親子の絆すらも捨てて、あらゆる束縛から自分を解放しようとした。江戸の時代には、このような生き方を選び、それを貫徹した人がいた。
水鳥やむかふの岸へつういつい 惟 然

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