明治43年に発表された文部省唱歌にはいまなお歌われているものも少なくない。「春が来た」や「虫の声」、そして、頭を雲の上に出しで始まる「富士の山」は、何かのおりに口をついて出てくるメロディだ。「三才女」はもうそれほどでないが、この唱歌が『百人一首』の女流歌人のエピソードを詠みこんでいるので懐かしい。作詞は国文学者で名高い芳賀矢一によるものである。
二番の歌詞は小式部内侍、かの和泉式部の娘の歌が取り上げられている。
みすのうちより宮人の
袖引止めて 大江山
いく野の道の遠ければ
ふみ見ずといいし 言の葉は
天の橋立末かけて
後の世永く くちざらん
歌のもとになる小式部内侍の和歌は
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
である。この和歌は母が夫の任国である丹後に下っているとき、都で歌合せの催しが開かれ、小式部内侍も歌よみに加わる栄誉を賜った。小式部の局の前を通りかかた藤原定頼が、内侍をからかって、「歌の用意はできたかね。丹後へやった使いはまだ帰って来ないかね」と。出詠する歌を母の和泉式部に代作を頼んだのだろうと、失礼な言葉を吐いたのだ。
御簾のうちから、定頼の袖を引きとめて、和歌で応えたのが「大江山」の一首である。ふみには
踏むと文がかけてある。表面の意味では、遠くてまだ行ったことはないといいながら、文であなたがおっしゃる丹後からの手紙はまだ見ていないと言っている。即興でこれだけの和歌が詠める小式部であるなら、母の手を借りる必要もない。定頼はその場をこそこそと逃げ出すほかはなかった。
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