柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡 子規
この句が生まれたのは、明治28年10月20日(1895年)ごろのことである。この年4月、子規は日清戦争の従軍記者として、金州、旅順などに約1ケ月滞在、5月9日講和成立の報に接した。ところが、5月17日帰国の船中で大喀血を起こす。22日、神戸につくと神戸病院にただちに入院したが、重態であった。その後、須磨の保養院で治療に専念したが、9月になって松山に帰省、ここで高等学校の教員になっていた夏目漱石の下宿に寄寓、50日を過ごした。
だが、結核の治療は当時は決め手がなく、次第に子規の身体をむしばんでいくことになる。症状がやや落ち着いた子規は、10月の20日ごろに上京した。陸羯南の日本新聞の仕事に戻るためである。上京の途上、奈良に立ち寄り、法隆寺の諸仏に参拝したあと、茶店で渋茶を啜りながら、好物の柿を食べていると、鐘楼から鐘の音が聞こえてきた。もうこの時点で、子規は自分の身体を蝕んでいる病が不治のものと覚悟を決めていたようである。
当時の法隆寺は、現在の歓光地化した寺とは違い、参詣に訪れる人も少なく、茶店も淋しいものであった。神仏に自分の病をどうにかして欲しいとの願いが込められての法隆寺訪問であったかも知れない。食べた柿は、大和名産の御所柿、柿好きな子規はこの多きな御所柿を一度に5,6個も食べたという逸話もある。この有名な句を詠んだ後、子規は俳句革新に全生命をかけて取り組む。しかし、腰痛が悪化、カリエスとの診断を受ける。病床にありながら、『墨汁一滴』、『病牀六尺』などの連載を続けた。明治35年8月19日(1902)、名句が生まれて7年後、35年の生涯を閉じた。