深沢七郎の『楢山節考』の存在を知ったのは、1957年(昭和32年)の高校の教室であった。国語の先生に、金倉美慧さんが赴任して、その授業のなかで教わったのだ。この小説は、1956年に中央公論の11月号に中央公論新人賞の受賞作として発表された。金森先生は、文学に造詣がが深かったのであろう。この小説を大変な傑作として、熱く語っていたのを今も思い出す。確か近村のお寺に生れ、いつか後を継がねばならないと話されていたように思う。
金森先生の授業は、作文を宿題として出されることが多かった。先生は何故か、私の書いた作文を気に入り、言葉を尽して褒めてくれた。それが機縁になって、いつかものを書くことが好きになり、この年になってもこうしてブログを書き続けているのも先生のおかげであるかも知れない。先生は、文学を勉強しながら、小説を書くことを目指していたような気がする。同じく、母校で教鞭をとった先生に須知徳平氏がいる。この人は、『春来る鬼』を書いて作家となった。
楢山というは、信州の名もない山村にある楢の木ばかりの山である。楢山まいりは、70歳になった老人を背負ってその山に置いてくることである。棄老伝説をテーマとする小説で、このなかに一貫して流れるののは、その姥捨てをテーマにした「楢山節」の民謡のメロディーである。
夏はいやだよ
道が悪い
むかでながむし
山かがし
塩屋のおとりさん
運がよい
山に行く日にや
雪がふる
主人公は、今年69歳になるおりんである。息子の辰平は妻を亡くし、3人の子がある。りんは、山へ行く前に、息子の後添えを決め、山入りのふるまい酒やご馳走の準備に余念がない。ひとつだけ悩みがあった。年に似合わず丈夫な歯を持ったことであった。老人は歯が抜け、食が細くならなけれならないのだ。人知れず火打石を歯に打ち付けては、折る試みを繰り返していた。後にこの小説は映画化されるが、その主役をつとめたのは音羽信子である。音羽は役作りのため、健康な歯を折り、悲壮な演技が話題を集めた。
神の住む山である楢山は、いたるところに人骨が散らばり、カラスが餌を探してむらがっていた。辰平の背に負われて、楢山に着き、岩陰に筵を敷く場所を決めると、りんは黙って辰平の背をポーンと叩いた。早く去れ、という合図である。辰平はりんをふり返りもせず逃げるように山を下りた。楢の木の間に白い粉が舞っていた。「あっ」と辰平は声を上げた。雪は乱れて濃くなって降って来た。わしが山へ行くときは雪が降るぞ、かねて口癖のように言っていたおりんの言葉どおりの雪になった。
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