木瓜の花
2021年04月18日 | 花
雨は上がったが、風が強い。その風をおして外に出かける理由がある。戸外に今日はどんな花が咲いているか、見ておきたいからだ。桜の花が散って、根方に花びらの吹だまりができていた。スズランの小さな花芽が出はじまっているなかで一輪だけが咲いている。スズランが咲き始めた、という事実を自分の足と目で確かめる。そんなことが、外を歩く些細な楽しみである。木瓜の花は、とっくに咲いたのだが、今日は一番形のいい花が見つかった。この花を見ると
脳裏に浮かぶのは漱石の句だ。
木瓜咲くや漱石拙を守るべく
拙を守るということは陶淵明の「拙を守りて田園に帰る」から来ている。有名な帰去来の辞である。世渡りに長けることを嫌い、勤めを辞して、郷里の田園の里へ帰り、悠々自適の日々を送った陶淵明の句だ。
漱石のなかで、木瓜の花と守拙がどのようにつながっているのだろうか。『草枕』にこんなことが書いてある。
「評してみると木瓜は花のうちで愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」
木瓜の花には、美しさを競うような華やかさはない。そんな地味で、こじんまりと咲く、木瓜の花に、自らの存在や陶淵明の生き方を重ねたのであろうか。世渡りの下手なことにかけては、人後に落ちない自分である。風に吹かれながら、こんな花を見つけるのも、意味のあることである。
その愚には及ぶべからず木瓜の花 漱石