常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

寒波

2012年12月26日 | 日記


寒波が居座っている。朝の気温、-3℃。近くの山も真白になる。午前中は雲間から日がさして、写真にはよい光になる。折からの強風で加茂の海岸で波の花が中継された。冬の海岸にできる波の花が、強風にあおられて雪が降るように飛散する。きのうは北海道の旭川では-29℃、大寒に入る前から記録的な寒波である。

寒波兆す雀屋根より地にはずみ 山崎ひさを

正面玄関に飾ってあったクリスマスツリーを片づける。代わって正月のしめ飾りの準備をする。義母の家の正月飾りも買う。主役は餅である。かつては家々で餅をついた。つく日も28日に決まっていた。八は末広がりで縁起がいいし、九になると苦に通ずるから避けるなど縁起をかついだ。こまかくはお供え用、輪飾り用の御幣を裁ち、店で裏白、葉つきの橙をもとめ、昆布、根引きの松、薮柑子、ユズリハなどの縁起物を用い、伊勢海老の代りに紅白の水引を使って飾り付をした家も多かった。今は、餅も飾りも出来合いの簡易なもので済ませるようになっている。

わが飾るはどこ漂ひし昆布ならむ 加倉井秋を

きょう寒波は一先ず収まるが、年末にかけてまた厳しい寒波が来るという予報だ。この正月はどんな正月になるのだろうか。

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島梟

2012年12月25日 | 日記


鋳物工芸の作家に横倉晋也さんがいる。当然のことにこの人の作品は高価だが、わが家には小さな額入りの作品が壁にかけてある。題名は「月を見る島梟」となっているが、鳥には月光があたっているような柔らかい光が当たっている。デパートで横倉さんの個展が開かれたおり、記念に求めた小さな一枚である。

島梟は「ゴロッ、ゴロッ、ボーコー」というふうに鳴くので、この声を「五郎助奉公」と聞き取り、この鳥にまつわる伝説や民話が伝わっている。

五郎助はおとなしい真面目な青年であったが、元来動作が遅く、農作業も同じ年の青年に比べて捗らなかった。そのため、からかわれたたり、苛められていた。だが、真面目な五郎助は遅くなっても、与えられた仕事はきちんと終えた。そんな五郎助に、名主の一人娘が好意ををよせ、庇うことが多かった。しかし、そのことが他の青年たちのやっかむところとなり、かえって苛めはひどくなった。あるとき、村の若者が総出で萱刈りをすることになった。

例によって五郎助の作業は遅れ、昼休みのとき、一人昼飯を食べないで作業を続けて、ようやく皆と同じくらい刈ったので一休みしていた。そのとき、仲間の一人が隠れて五郎助の鎌を隠してしまった。午後の作業が始まったが、五郎助は萱を刈れず、うろうろと鎌を探すばかりであった。夕方になって、他の青年たちは萱を刈り終えてさっさと帰ってしまった。

鎌がなくて萱をかれない五郎助は、途方にくれました。日が暮れて三日月も出てきたが、萱を刈れない五郎助は悲観して谷に身を投げ死んでしまった。それを哀れんだ観音さまが、五郎助の魂を梟のなかに移した。そのため、梟は、「ゴロッ、ゴロッ、ボーコー」と啼くようになったのだという。

俳句の歳時記には、梟は冬入っている。梟の啼く声を聞いて、哀れな五郎助に思いをやる人もあるのであろうか。

梟の啼きゐし月の曇りけり 梗草子

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クリスマス

2012年12月24日 | 日記


クリスマス寒波が来ている。ここ山形では晴れ間も見えるが、うっすらと雪が積もり、道路は凍結した。寒波の到来で各地の積雪の報道を見ると、昭和55年のクリスマス大雪が思い出される。この日は午後から降りだした雪は一向に止まず、一晩で1mを越える積雪となった。道路の除雪は追いつかず、自動車は徐行の後、ガス欠で路上に放置されるの続き、ほとんどの道路が通行不能になった。子供たちは駅前まで予約していたクリスマスケーキを取りに行ったが、バスが来ず、帰宅まで3時間もかかって歩いてきた。もう止むのではと思った雪が、一晩中降り続いたのである。

クリスマスには、キリストの信者でもないのに、何故かケーキが出回り、買わなくとも頂いて口にする。今日も一切れだけ食べた。子供がいるころは、枕元にプレゼントを置いたものだが、こんな風習も百貨店の宣伝に乗せられたものであろう。
サンタさんが、4世紀のトルコあたりの司教であるセント・ニコラウスに由来しているらしいが、この人はあろうことか海賊の守護神であったという。伝説がいろいろと変遷して、この司教がいつの間にか、子供の守護神になっていったらしい。

伝説は貧しい3人娘が住む家に起きた奇跡にこの司教がかかわっていたことになっている。この家では一家が冬を越すために、上の娘が娼婦に身を落とさなければならないほど、切羽詰っていた。これを知ったセント・ニコラウスが、娘のためにその家の煙突に金貨を投げ入れた。この年はそのお陰で一家は難を逃れたが、翌年は次女が身売りの瀬戸際に立たされていた。この年も、セント・ニコラウスが金貨を投げ入れて次女を救った。

いったい誰がこんな奇跡を与えているのか、ぜひその人に礼を言いたいと考えた母親は、次の年のクリスマスには、寝ずに暖炉の前で靴下を編みながら待っていた。すると、今度は3女のために金貨が投げ入れられたと同時にドアの外を窺うと、それは隣の家に住む青年であった。青年はこのことは誰にも言わないようにと告げると姿を消してしまった。この青年こそ後の司教、セント・ニコラウスであった。


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蜜柑

2012年12月23日 | 日記


今年は静岡の親戚から蜜柑をたくさん送ってもらった。年末に静岡産の蜜柑を食べると、昔、北海道でやはり静岡から蜜柑を送ってもらったことを思い出す。木の箱に入った蜜柑であったが、大家族で食べると、正月の内にあっという間になくなった。紀州ミカン、温州ミカンの2種類があって、紀州の方が格上で食べても美味しかった。三ケ日ミカンなどの会うようになったのは、近年になってからである。空になったミカン箱は、積み上げて本棚の代用にした。

きのうの新聞に、蜜柑が骨粗鬆症に有効であるという記事があった。骨を丈夫にするには、カルシュームが必要で、牛乳や小魚、野菜などを摂ることがこの病気の予防になるのは知っていたが、蜜柑が有効であるというのは初めて知る知識だ。記事によると、「女性が閉経してホルモンのバランスが変わると、骨粗鬆症にかかりやすくなる。一方、杉浦さんらが温州ミカンの産地の一つ、浜松市三ケ日町地域で行ってきた研究で、ミカンを多く食べる女性は患者が少ない傾向もわかっていた。

そこで、この地域の閉経後212でβクリプトキサンチンの血中濃度と骨粗鬆症の関連を調べたところ、ミカンを毎日4個食べる人は、ミカンを食べない日がある人よりも、骨粗鬆症にかかるリスクが92%低いことがわかった」という。今年はミカンをたくさん頂いた上に、こんない病気のリスクも減らせることができなら、さらにうれしいことだ。

蜜柑あまし冬来ぬといふおもひ濃く 中島 斌雄

温州は中国の地名だが、鹿児島県に原生しているものを中国のあやかって命名したらしい。九州で栽培しても、静岡の三ケ日で栽培しても、これは同じ品種だということだ。昔、子供ながらに食べた「紀州ミカン」は、温州に比べて一段と美味しかったと記憶しているが、これも偶然のことで、誤った思い込みなのであろうか。それにしても昨今は、冬蜜柑の消費が減少傾向にあるという。日本の代表的な冬の味覚が、若い世代かた顧みられなくなったというのは淋しいことである。
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津軽

2012年12月22日 | 読書


コボで太宰治の『津軽』を再読した。太宰は著名な作家であり、友人にその信奉者も少なからずあったから、若いころから多少読みかじってはいたが、『人間失格』など読んでみてあまり好きな作家ではなかった。だが、30年ほど前に、この『津軽』を読んでから太宰への見かたが変わり、親しみを感じるようになった。

久しぶりで再読してみて、この小説の印象は少しも変わっていなかった。国を出て著名な作家になった太宰が、少しシャイな性格をむしろ誇張するような表現で、故郷の友人と酒を酌み交わす語り口は実に好感が持てる。この小説のクライマックスは、なんといっても太宰が3歳のときから子守役として住み込んだ越野タケとの再開の場面である。小説の中に太宰自筆のタケの似顔絵が納められている。

タケとの再開の場面で、うち黙っていたタケが、急に堰を切ったように能弁になる。「---まあよくきたなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、タケに昔噺語らせて、タケの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、めごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へもたまに行ったが、金木の町をあるきながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供ひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」

文庫本の中に小さな新聞の切り抜きが挟んであった。見出しに「太宰治の乳母越野さん死去」とある。昭和58年12月16日の朝日新聞である。「越野タケさんが15日午後6時25分、老衰のため、青森県北津軽郡小泊村の自宅で亡くなった。85歳だった。」と書かれている。添えられた顔写真は、太宰の似顔絵に通じるものがある。記事には、前年まで太宰治の生家、斜陽館で開かれる「桜桃忌」に出席して、幼いころの「修ちゃん」の話に花を咲かせていたという。

私も読書会の仲間とこの斜陽館を訪れたことがあるが、越野タケさんが死去したと同じ頃であったように記憶している。それにしても、若くして命を絶った太宰治の死を越野さんはどんな思いで受け入れたのであろうか。
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