常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

蔵王山

2015年02月22日 | 介護


久しぶりに義母の入所している「見晴らしの丘」に行く。ここからは、その名の通り、山形市街と蔵王山が一望である。わが家からは、外輪山の瀧山に遮られて、蔵王山は見ることができないが、ここからは雪を戴く蔵王が全部見える。この景色がありながら、義母は感動をもってみることができない。「こんな遠くまで来なくてもいいのに」という言葉を何度言ったか、数え切れないぐらいである。「いい天気だね」と言っても、答えは「こんな遠くまで来なくともいいのに」という同じ言葉だ。

刈田岳から熊野岳、それに接するように地蔵岳が見える。ざんげ坂から地蔵へいく辺りには、小さな点のようなものが見る。カメラで拡大してみると、それらの点は樹氷であることがわかった。今日の山形の気温は9.5℃、明日も同じような気温が続く。樹氷はこの陽気で落ちてしまう。また今年も、真近に樹氷を見ずに過ぎそうだ。義母と話しながら、茂吉が眺めた蔵王を見ていた。
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猫の日

2015年02月22日 | 日記


今日、2月22日は猫の日だ。2.22、三つの2をニャン、ニャン、ニャンと読む語呂合わせで猫の日となった。猫好きの漱石が書いた「吾輩」は、地下でどう思っているであろうか。知り合いに捨て猫に同情して、猫のために借りたアパートへ連れてきて、飼っている人がいる。野良猫が増えないように去勢をし、病気のなった猫は知り合いの獣医さんへ連れていく。いったい何匹いるか、正確に数えたこともないらしい。毎日の餌代もばかにならないだろうといらぬ心配をしたりする。この人には、猫にために支出する金は少しも惜しくはないらしい。

たまきはるいのちの声や猫の恋 宮部寸七翁

昔、わが家でも猫を飼っていたことがあった。子どもたちが遊びに行って、捨てられた子猫を拾ってきたのだ。しかたなく飼うことにしたのだが、なついてくると、子どもたちより猫に接するのは親の方であった。アパートに住むようになってからも、捨てるに忍びなく飼い続けた。春が近づいてくると、猫の恋の季節になる。高い階にいるのだが、駐車場の隅に雄猫がやってきて、なんともけたたましい鳴き声を発する。見かねた妻が不妊手術をしてきた。

漱石の家の猫は、寝場所を色々考えて選んでいる。「朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天気のよい昼は縁側へ寝る事とした。然し、一番心持の好いのは夜に入ってこヽのうちの小供の寝床へもぐり込んで一所寝ることである。」写真の猫は、去年の夏、尾花沢の親戚の家のものである。陽が差し込んでくる玄関マットを占領して、心持よさそうに眠っていた。


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マンサク

2015年02月21日 | 


雪の残る丘にマンサクが少し咲いた。まだ花弁が十分に伸びていない。もう少し気温が上がると見慣れたマンサクの花になる。早春、あらゆる花のさきがげとしてお目にかかる花だ。「先ず咲く」が転じて、マンサクという話もあるが本当だろうか。いずれにしても、花弁の縮れた黄色い
花は春の先触れであることに違いない。

マンサクを夜明けの花と見て居りぬ 中西 舗土

この春一番の荒天である。西の山を見ると、今日登る筈であった白鷹山の頂上が、くっきりと見えている。絶好のチャンスを逃して、無念の思いが胸中に広がる。思えば昨年は、この山に大雪の日に登り、途中で撤退した。その日は山形市で50cmの積雪であった。今年は、どんどんと雪が消えて、もう大雪の心配はないような気がする。




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雨水

2015年02月20日 | 日記


今日は24節季の雨水。降っていた雪は雨となり、氷は解けて水になる。中国では春節を迎え、この休みを利用して、日本へ観光にやってくる中国人が多い。円安の日本での買い物が、主な目的らしい。「わたしの農園」の説明会のはがきが届く。週末は晴天で低気圧に向かって南風が吹いてくるので、関西では春一番が吹くという予報が出ている。

雪が目に見えて解けていく。山の雪は締まるが、底雪崩の季節がやってくる。今週の白鷹山への山行は、参加人員が少ないため中止になる。

  春近し 黄庭堅

亭台 雨を経て塵砂を圧し

春近くして 登臨すれば意気加わる

更に喜ぶ 軽寒勒して雪を成し

未だ春ならずして先ず放つ一城の花

雨が雪に変わって、街中が白い花を咲かせている様を喜んでいる。春の雨が塵や埃を沈め、高台に登って春の近いことを実感する。これは、今日のここの気候を詠っているようでもある。


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杜国

2015年02月19日 | 


坪井杜国は、名古屋の勝曼寺町の商人である。貞亨年中に手形で空米を売り、国法に触れて死罪を言い渡された。杜国は蕉門の俳人である。藩主は杜国の俳句が、尾張を寿いでいたことを思い出し、死一等を減じ、処払いとなり、三河の伊良湖崎に住んだ。貞亨4年、師の芭蕉は杜国が三河に住んでいることを知り、弟子の越人を伴って、杜国を訪ねた。そこで詠んだ句が、

鷹一つ見つけてうれし伊良湖崎 芭蕉

である。杜国は荷兮や野水とともに尾張三歌仙と称された俳人であった。芭蕉は美男で俳句の才に富んだ杜国に目をかけ、「統流俳諧の相手は杜国一人なり」とまで言っている。真偽ははともかく、芭蕉の男色の相手に儀せられている。

貞亨5年、芭蕉は杜国を伴って吉野の旅に出た。この時、杜国は自らを万菊丸と称している。この旅で、芭蕉はすぐに寝てかく杜国の大きな鼾に悩まされた。芭蕉は戯れに大きな魚の形をした万菊丸鼾の図を描いて見せた。旅に被る檜木笠には、乾坤無住同行二人 よし野にて桜見せうぞ檜木笠 と書き付けている。

元禄3年2月20日、杜国は伊良湖崎で34歳の若さで没した。芭蕉はその死を嘆き、旅の宿で杜国の夢を見ることがあった。「行脚の労をたすけて百日がほど影のごとく伴ふ。片時も離れず。ある時は戯ぶれ、ある時は悲しみ、その志しわが心裏にしみて忘るることなければなるべし。覚めてまた袂をしぼる。」と『嵯峨日記』にその心情を書きつけた。

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