常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

墓参り

2016年08月14日 | 日記


きのう墓参りに行った。彼岸とお盆には、墓を掃除して花を手向け、線香をくゆらして手を合わせる。墓のある寺の駐車場は止めるところを探すのに苦労するほど多くの人が墓参りをしていた。この土地の人々は先祖への思いが深いということであろうか。夫婦二人暮らしをしている我が家では、墓を持つことに躊躇する。遠くに離れて住む子供たちが、墓を掃除したり、お参りにくることが難しいからだ。散骨や永代供養に骨を収めてもらう、残された子供たちを煩わせたくない。

今の墓参りは簡単で、墓を掃除したりする人も10分とはかからずに、墓廻りの掃除と花を生けて帰っていく。昭和30年代には、もっともっと手の込んだやり方をしていた。阿部襄先生の『庄内の四季』にその様子が詳しく書いてある。

「お墓の塔婆が倒れていたり、生垣の枝が伸びすぎて、隣のお墓まで邪魔をしていたり、それにもまして、雑草が生い繁って、鎌で刈るほどになっているのを掃除するのである。それから精霊棚を飾る。お墓の前に、青竹などで、4本の棒を立て、中ほどに桟敷のように飾り棚を作る。」

と棚作りから飾りつけの方法が書いてあるが、文に書き写すのさへ面倒なほど、墓飾りとお供えをして、その墓にお寺のお坊さんにきてもらってお経を読んでもらう。お経が終わると、お詣りにきた家族に人たちが、柄杓に水を汲んでお墓に一人ひとり水をかける。このお詣りは、日のあるうちに終わらずに、家紋のついて提灯を下げて、墓を出ていく姿も見られた。迎え盆で、先祖の霊を自分の家へ連れて帰り、先祖の霊をを加えて、家族みんなで食事をともにした。

こんな風習も忘れ去られ、簡便なお盆の行事となったが、それさへこの先は消失していくのではないだろうか。大家族が、先祖の霊を守っていくということができなくなってしまった時代にいるということである。
コメント (2)
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