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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

地蔵盆

2016年08月26日 | 日記


お地蔵さんは子どもたちの守り仏として信仰されてきた。「村のはずれのお地蔵さんはいつもにこにこ見てござる」という童謡もあるように、水死事故や交通事故のあった場所の近くに、地蔵さまが建てられてきた。死んだ幼児が賽の河原で石を積んで遊んでいると、鬼がきていたずらをして石を崩してしまう。幾度も鬼がいたずらをするので、幼児は泣きだしてしまうが、そこに地蔵さまがきて鬼を叱って幼児の苦しみを救ってくれる、という話を家のお婆さんが子どもたちに語り聞かせてきた。

地蔵盆は旧暦の7月24日、お地蔵さんに着物を着せ、お供えをして、そこで子供たちがお地蔵さん巡りをして町内の人からお菓子をもらう、行事が行われている。この行事は京都など関西で広く行われ、関東や東北ではあまり行われていない。
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法界上人

2016年08月25日 | 日記


昨日のこの欄に石狩川の氾濫を書いたが、話は最上川に戻る。治水がしっかりしていない時代は、川は増水の度に流路を変え、川よりの水田は水に流されることが多かった。これを川欠けと呼んでいた。最上川の河口の流域にあった松山町山寺地区も例外ではなかった。

時は今から300年も前にさかのぼる。その年も大雨が続いて、出水がひどく山寺の地区の畑地はどんどん流され、いよいよ住民の住んでいる家までが流されそうになった。このとき宝蔵寺の玄妙住職が、自らを川岸に埋めてもらって念仏し川の流れをせき止めようと発願した。まず、大きな箱を作らせて、川岸の地下に埋め、7日分の食料を入れると上から蓋をして土を盛った。竹筒を地上に出して空気穴にし、読経を始めた。地下からは玄妙坊のお経が聞こえた。

村人たちは、老若男女が総出で、上人の埋められた所に集まり、念仏をともにした。上人の声は次第に弱まり、7日目にはとうとう鐘音も聞こえなくなった。一方、川の増水は7日目に止まり、水が引いて村は洪水から守られたという。人々は上人に感謝し、お堂を建てて、上人を法界上人と呼ぶようになった。法界上人が遷化されたのは、宝永5年(1709)7月25日のことである。307年も前のことである。庄内地区には、ほかにも即身仏となった例があり、ミイラの仏さまが何体も存在する。
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石狩川氾濫

2016年08月24日 | 日記


ニュースに石狩川の氾濫が出る。氾濫した場所は深川市納内、私の生まれ故郷である。深川に住んでいる姪にメールで様子を聞く。姪の住んでいるところは無事だが、私の生家のあったあたりが水が上がり、田も冠水したということだ。札幌に住むM君から電話が来た。深川のあたりで田に水が上がったということを知らせてくれた。この夏は異常気象なのか、あまり北海道には台風が襲うことはないが、この2週間で3個もの台風が直撃している。8月一月に降る雨が、一つの台風が降らしている。600mmもの雨が累積で降っている。

過去の記憶に私は二つの石狩川の氾濫がある。ひとつはまだ小学生のころだがから、もう60年以上も前のことだ。私の生れた家は、すぐ裏の畑の向こうを蛇行して流れていた。川の音は家までは聞こえないのだが、その夜は「ゴー」という流れの音が不気味に響いていた。堤防の木々の間に流れが見えるほどに増水していた。朝、蛇行した部分に囲まれた畑が冠水して、湖のような景色が広がっていた。夜通し、近所の住民が、俵に土を積めて決壊しそうな部分に積んで何とか食い止めようとしたが、結果はあっけなく水が堤防を乗り越えた。

今一つは、昭和60年であったと思う。この年、同級会に久しぶりで参加した、その数日前が大雨であった。音江から石狩川を俯瞰すると、やはり蛇行した部分の土手が水流で削り取られ、大きく田が流れに崩落しているの目のあたりにした。もう記憶もあいまいで、その雨が台風によるものであったのかさえ定かではない。ただ、濁った水が激しく音を立てて流れるのは、子どものころの生々しい記憶としていまだに残っている。
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最上川

2016年08月23日 | 詩吟


酒田市松山の眺海の森から最上川の蛇行を見てきた。蛇行は増水の度に、流域の田をえぐり幾度となく、農村に被害をもたらしてきた。同時に、川を遡る鮭を獲り、ヤツメウナギやモズクガニなどの幸をもたらし、何よりも田を潤す命の川でもあった。民謡に「最上川舟歌」があり、芭蕉をはじめとする俳人や詩人に詠まれてきたのは、この川が人々の生活になくてはならない存在であったことの証左であったと言える。

9月4日に山形市民会館を会場に、東北吟道大会が開催される。そこで発表される「構成吟」でわが山形岳風会は「最上川」のパートを受け持った。芭蕉の「おくのほそ道」の「最上川」のくだりを、俳諧歌にして合吟する。

 「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷
  山の北を流て果は酒田の海に入。左右山覆ひ繁みの中に船を下す。是に稲つみたるをや稲舟
  といふならし。白糸の滝は青葉の隙ゝに落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。
  
  五月雨をあつめて早し最上川

この韻読のような俳諧歌を練習しているとき、河口に近い最上川を見るのは、なにか因縁のようなものを感じる。いまは田のみで何もないが、かっては鮭をとる小屋が建てられて、袋網を向こうきしまで張り、の人がたくさん出て網を引いた。大漁の日には、小屋の屋根の大漁旗が掲げられたという。河原では運動会があり、鉄鍋にぶつ切りした鮭を煮てサケ汁にして子どもたちにふるまった。川の蛇行には静寂しきっているが、じっと耳を澄ますと、その歓声が聞こえてくるような気がする。
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総光寺キノコスギ

2016年08月22日 | 旅行


総光寺は酒田市松山にあり、寺の創建は南北朝時代の至徳元年(1384年)と伝えられる。参道の両側に植えられたスギは元和年間(1615年)に植樹され、350年以上が経っている。歴代の住職が枝を丁寧に刈り込み、キノコ型を呈するようになり、いつかキノコスギと呼ばれるようになった。山門は酒田の大地主本間家が、寄進し文化8年(1811年)に落成した。この寺の近くに松山城の山門が保存されているが、総光寺の山門の方が立派に見える。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われた、大地主の威光のほどがしのばれる。

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