常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

太平洋戦争日記

2016年08月16日 | 日記


伊藤整はこの日記を昭和16年から書き継いできた。この日記は、伊藤整という大学教師にして詩人、そして作家であった人間の戦時中の生活日記と言った方がよいのかも知れない。自分たちの食料を畑を耕して自給自足する様子も、日記にはこと細かく書かれている。日記の中身には触れまい。その最後のページに注目したい。伊藤整が敗戦を迎え、何を考えたか、最後の数行にくっきりと書かれている。

昭和20年8月16日。伊藤整は空襲の激しい東京を去り、妻の実家ある北海道八雲町野田生に疎開していた。妻の知り合いが経営する合板工場の企画課長として働いた。8月15日の玉音放送の日には、工員たちにラジオを聞かせるために、工場内に場所を設け、椅子を並べたりした。玉音放送で休戦ということを知るが、町にはソ連兵が函館に上陸、ソ連治下で暮らすことになるという噂が流れていた。いや、支那軍の管理下なるという話が飛び交い、外国軍の上陸は流言飛語であるから信じてはならないというラジオ放送があるという状況であった。

伊藤整は最後にこの日記が終わることを書き、以後の自分の覚悟を述べている。

「私はペンと紙とをもって、田園に隠れ、祖国日本の自然の記録者として生きるか、または巷に隠れ、人情の哀苦の味いを書き記しながら生きて行くことになろう。木の葉のそよぎが眼に入る限り、人間の哀楽の表情をこの眼で見る限り、私には生きてそれを書き記すいう生き甲斐が与えられるであろう。私は40歳と7ヶ月に達した。まだ生きる時はかなり残されていると考えてよいであろう。」

伊藤整が長編小説『鳴海仙吉』を書くのは昭和25年のことである。この年、伊藤整が翻訳したロレンスの『チャタレイの恋人』が猥褻文書の疑いで押収され、出版社の小山社長とともに起訴され、世にいうチャタレイ裁判が始まった。
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