昨日のこの欄に石狩川の氾濫を書いたが、話は最上川に戻る。治水がしっかりしていない時代は、川は増水の度に流路を変え、川よりの水田は水に流されることが多かった。これを川欠けと呼んでいた。最上川の河口の流域にあった松山町山寺地区も例外ではなかった。
時は今から300年も前にさかのぼる。その年も大雨が続いて、出水がひどく山寺の地区の畑地はどんどん流され、いよいよ住民の住んでいる家までが流されそうになった。このとき宝蔵寺の玄妙住職が、自らを川岸に埋めてもらって念仏し川の流れをせき止めようと発願した。まず、大きな箱を作らせて、川岸の地下に埋め、7日分の食料を入れると上から蓋をして土を盛った。竹筒を地上に出して空気穴にし、読経を始めた。地下からは玄妙坊のお経が聞こえた。
村人たちは、老若男女が総出で、上人の埋められた所に集まり、念仏をともにした。上人の声は次第に弱まり、7日目にはとうとう鐘音も聞こえなくなった。一方、川の増水は7日目に止まり、水が引いて村は洪水から守られたという。人々は上人に感謝し、お堂を建てて、上人を法界上人と呼ぶようになった。法界上人が遷化されたのは、宝永5年(1709)7月25日のことである。307年も前のことである。庄内地区には、ほかにも即身仏となった例があり、ミイラの仏さまが何体も存在する。