常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

芒種

2017年06月05日 | 日記


今日は24節気の芒種。小満から芒種へ、草木が茂る季節の呼び方であるが、この言葉の響きが美しくて好きだ。小満は、麦に実が少しつくという意味だが、その麦を刈り取り、稲を植える季節が芒種だ。「芒」という漢字を辞書で見ると、読みは「のぎ」で、穀類の実を殻の先の針状の毛、を意味するとある。麦が終わり稲の苗を植える季節という意味である。昨日までの寒気が去りつつあり、まさに芒種の季節である。この季節は、山河の風景も、ひときわ美しくなる。北宋の蘇軾の詩に「湖上に飲す 初めは晴れ、後に雨降る」がある。

水光瀲灔として晴れて方に好し

山色空濛として雨も亦た奇なり

西湖を把って西子に比せんと欲すれば

淡生濃抹総べて相宜し

蘇軾は、晴れのもとや雨の中の西湖の風情を、越の美女西施の、化粧の様子になぞらえて絶賛している。この詩を踏まえて芭蕉は、象潟で

象潟や雨に西施がねぶのの花 芭蕉

と詠んでいる。芒種の今日、庭の片隅にホタルブクロが咲いていた。
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卯の花

2017年06月04日 | 日記


卯の花は夏のシンボルだ。佐々木信綱が作詞した「夏は来ぬ」は、唱歌として明治の時代から歌い継がれてきた。

1.うの花のにおう垣根に、時鳥
   早もきなきて、忍音もらす、夏は来ぬ。

4.さつきやみ、蛍とびかい、水鶏なき、
   うの花咲きて、早苗うえわたす、夏は来ぬ。

ところで「卯の花」は空木の花という意味で、数多くの種類がある。いま盛りと咲くタニウツギはピンクだし、八重咲のシロバナヤエウツギというのも図鑑にある。昨日、散歩をしていたら、花壇に白い花が咲いているのを見かけて、もしかして、これがあの唱歌に歌われた「卯の花」ではないかと、ネットで画像をあたってみた。なるほど、卯の花にもたくさんの種類があって、花の形が違うものが多い。なかにひとつだけ、写真のような丸い形の花もある。

序に仕入れた知識では、旧暦の卯月に咲くので卯の花、憂きのうをとって憂いのシンボルとされるなどという記事もあった。卯の花が咲いているのに、昨日、今日は4月中旬並みの気温。本来の初夏の気候に戻って、畑の野菜たちの成長を促して欲しい。
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登山歌人 結城哀草果

2017年06月03日 | 日記


山行くは楽しからずや高山の青雲恋ひて今日も山ゆく 哀草果

初夏というのに気候が落ちつかず、計画していた山行は中止になった。そこで、登山を愛し、一度の山行で65首もの山の歌を詠んだ結城哀草果の歌集を開いて見ている。詩人の真壁仁は、哀草果の登山について書いている。

「哀草果の内部の精神をささえ、高邁な芸術標高への志向をかきたてたのは、登山というきびしい行動であった。60歳台の哀草果が若い仲間たちとともに山に挑む姿は、やはり精神の圭角をみがく内面の探求の形式にほかならなかった。」

哀草果の家は、白鷹丘陵の山麓にあるが、歌人が挑んだ山は里山ではなく、蔵王、月山、朝日、飯豊、安達太良山、早池峰山のほか燧岳、尾瀬、立山など深田久弥の日本百名山に数えられている本格的な山々であった。

冒頭に掲げた歌で、哀草果は青雲という言葉を使っている。これは、山の上にある雲をさすのでなく、空の高みを言う。つまり俗世界を離れ、高潔な高みである。青雲の志とは、そうした高みをめざす志である。哀草果にとって高みとは、歌の境地であろう。

昭和40年、哀草果は73歳を迎えていた。「立山」と題する連作に、詞書がある。「8月30日・久泉廸雄、竹内実両君の案内にて3015mの立山頂上に登る」

七十三年の生甲斐ありて三〇十五米立山頂上に立つは冥加ぞ 哀草果

この日、哀草果の息子が胃の手術をしてから3日目であった。哀草果が頂上で祈ったのは、その病の平癒であった。
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本能寺

2017年06月02日 | 漢詩


天正10年(1582)6月2日、早朝、明智光秀は本能寺に織田信長を襲った。その日、備中高松城(中国地方)を攻略中の秀吉から援軍の依頼を受けた信長は、京都・本能寺に側近を連れて宿泊していた。出陣の命を受けた光秀は、丹波・亀山城から自軍を率いて、備中に向かったいた。織田軍団の武将たちは、天下統一を果たすため、各地で交戦中であった。光秀が反旗を翻したのは、その幸運と言える信長の隙をついたものであった。

頼山陽は、その時の光秀の心中を詩に詠んでいる。「吾れ大事を就すは今夕にあり。茭粽手に在り茭を併せて食らう」つまり、この大事をなすことに気も動転し、皮を巻いた粽を皮ごと食う始末であった。やがて、丹波から出てきた光秀は、京都と備中の分岐する老の坂に至る。

老の坂西に去れば備中の道

鞭を揚げて東に指せば天猶早し

吾が敵は本能寺に在り

敵は備中に在り汝能く備えよ

頼山陽の律詩「本能寺」の後半である。老の坂を西に取れば、秀吉の援軍として行く備中の道。東には信長の泊まっている本能寺である。ここで光秀は自軍に向かって、「敵は本能寺にあり」と叫ぶ。初めて、反乱の意思を全軍に知らしめたのである。空はようやく白んでくる早暁であった。多勢に無勢、明智の謀反を知った信長は自害する。だが、歴史家でもあった頼山陽は、結句で、光秀の真の敵は、備中にいる秀吉であることを詠んでいる。謀反を知った秀吉は、いち早く敵と講和を結んでとって返し、光秀軍を葬り去った。

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ウワミズザクラ

2017年06月01日 | 日記


先日の白鷹山登山でウワミズザクラの花を見て、房状の白い花は小さな花の集まりであることを知った。たまたま図書館で借りていた本、清和研二『樹は語る』を読んでいて、ウワミズザクラの項にぶつかった。あの白い房状の花が、専門用語で穂状花序ということが書いてあり、ひとつ利口になったような気がした。このような偶然で、実際に見たものを本の中で確認できる、という体験はワクワクするような楽しさがある。

花が終わり、葉が傷んでくると、花のあった枝先に実が色づきはじめ、9月になると紫がかった黒に変ってくる。たちまち、群れてやってくるのはヒヨドリ。色を見て、熟しおいしくなるのを知っているのだ。その実に、不思議が宿されている。鳥たちにとっておいしい果肉のなかに、もうひとつ固い殻を被った実がある。この殻は鳥の消化液や砂嚢から守られ、消化されないまま糞と一緒に、親木から離れたところに排出される。

ひと房の花から数十個の実がなるわけだから、いくらヒヨドリが啄んでも、実の大半は親木の根方に落ちる。清和先生と学生たちが、栗駒山のウワミズザクラの下で弁当を開いた。そこには、無数の実生の芽生えが足の踏み場もないほどに生えていた。それから一年、同じ木の下に行くとあれだけあった実生の芽生えは、まばらで大部分が死に絶えていた。木から離れて歩いて見ると、親木から離れた場所ですくすくと育つウワミズザクラの稚樹を見つけた。清和先生の出した結論。「実生は親木のもとでは生き残れない。しかし、親木から離れると大きくなれる。」

これが、鳥に実を運んでもらう理由であった。同じ仲間のオオヤマザクラやカスミザクラの成木の分布が集中せずに、ポツン、ポツンと分布している理由もここにあった。子どものころ、黒く熟した桜の実を採って食べたことを思い出した。どこかほろ苦いが甘味がある。ヒヨドリや他の鳥たちが好んで食べるのも分かる気がする。



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