常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

紅花

2017年07月13日 | 日記


紅花が山形の特産であることは、古来知られている。特に尾花沢はその産地として日本中に知られてていた。芭蕉の「奥のほそ道」の旅の目的は、江戸で交流を重ねていた鈴木清風と逢うこともその大事なひとつとして数えられる。鈴木清風は尾花沢に住む豪商で、日本海航路で京都への紅花の商いで財をなした。

ここ山形市内でも、少し郊外に出れば、季節になるとあちこちで紅花の咲いているのを見かけた。しかし、今では切り花として鑑賞用に栽培されているだけで、すっかり見かけなくなった。アニメ映画の「おもいでぽろぽろ」の取材地にでも出かければいまでも紅花に出会うことはできるかも知れない。この花を自宅の畑に栽培している知人から、思いがけず切り花をいただいた。

芭蕉は「奥のほそ道」の旅で、尾花沢に10日間滞在し、この地域の俳人たちと歌仙を巻いたりして過ごしている。この地で詠んだ句に

まゆはきを俤にして紅粉の花 芭蕉

がある。眉掃きは白粉をつけたあと眉をはらう小さな刷毛のことである。紅花は蕾の先の方から咲いていく。そのために末摘花の異名がある。源氏物語の一章にもなっている。刷毛のかたちを彷彿とさせる、という意味であろうが、源氏物語にある歌を思い起こさせる「行末ゑは誰肌ふれむ紅の花」の句も忘れ難い。
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苦熱

2017年07月12日 | 日記


梅雨明けになったわけでもないが、猛暑が続く。今週に入って畑の作業は、早朝に切り替えた。5時に畑に着けば、作業ははかどる。畑には無用な雑草の成長が著しい。昨日、今日二日間の作業で畑は見違えるようになった。ズッキーニ、キュウリ、ナス、トマトなどの夏野菜の収穫が本格化してきた。

唐の時代の人々も夏の暑さには、辟易していたらしい。白居易の詩に『苦熱』というのがある。

頭痛み汗巾に盈つ
連宵復た明日に続く

頭はうずき、汗があふれて頭巾はびしょぬれ。そんな暑さが連夜、そして明け方へと続く。この詩の状況は、まったくここ日本の今と変わらない。7時ころになって日が高くなると、気温はうなぎのぼり、汗は作業着をびしょぬれにし、帽子やタオルもずっしりと汗を吸いこんでいる。

白居易は苦熱になかで、助かったのは官を辞し、閑適な日々を得たことで、うっとうしい暑さを逃れたことを詩に詠み込んでいる。幸い、今日は午後になって、涼しい風が吹き抜けるようになった。「心頭滅却すれば火もまた涼し」という句もある。夏至を過ぎて3番目の庚の日を初伏、4番目を中伏、立秋後の最初の庚の日を末伏、合わせて三伏。陽気が盛んで、陰気が伏せられているという意味であり、最も暑い夏の日が、この三伏の期間である。
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向日葵

2017年07月10日 | 


季節を感じさせる花で、夏の代表といえば向日葵ということになる。私にとっては記憶のなかの花でもある。映画「ひまわり」で、戦場へ行った帰ってこない恋人を探しにいく、ロシアの大地に地平線のかなたまで咲き乱れる向日葵は、強く印象に残り、今でも忘れることはない。ソフィア・ローレンが格好よかった。もう10年以上も前になるが、そんな光景が見られることを期待して、北海道の摩周湖の近くの向日葵畑を見に行ったこともある。期待にたがわぬ光景であった。

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田 夕暮

詩吟の優秀吟の課題吟にこの歌が選ばれ、コンクールの予選会に挑戦したこともある。見事、落選となったが、今となってはいい思い出である。向日葵は太陽に向かって咲く、と書くが私がみた向日葵畑では、太陽に向かっているのもあるが、背を向けて咲いているのもあった。ただし、ここ数日の照りつける太陽のなかで咲いている姿は、夏の花として一番似合っているのではないか。同じ季節の花でも、タチアオイがあちこち花を開いている。花が茎の先端で咲き終わると、梅雨があけるとい言い伝えもある。

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七夕

2017年07月08日 | 万葉集


日帰り温泉の玄関ホールに、今年も七夕飾りが出された。短冊が添えられてあり、願いを書いて飾りに下げることができる。老人専用の温泉だから、願いは自ずから「長寿健康」というのが主流となる。古来、7月7日に、七夕の行事が行われるが、これは陰暦で、夏が極まって秋を迎えるころである。この日上弦の月が沈むころ美しい銀河が天頂に現れ、西に牽牛星、その向いの東には織女星が、相対して明るく瞬いて見える。ここから、彦星と織姫の一年一度の逢瀬の伝説が語られるようになった。

彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし天の河原に霧の立てるは 万葉集巻8・1527 山上憶良

中国で始まったこの説話は、牽牛星のもとへ織女星が逢いに行くのであるが、日本に入って来て
妻問い婚であったため、彦星が織姫を迎えに行くという設定になったいる。その伝説を背景に持ちながら、七夕の行事は家々の庭に机を置き、酒、瓜、果物を添えて牽牛・織女を祀った。牽牛が畑仕事する男、織女は家にあって養蚕、機織りに精をだす。その年の豊作を祈ることにその趣旨があった。

伝説によると、牽牛星は織女星と結婚する資金を天帝から借りたが、いつまでもそれを帰さなかったために怒った天帝が、二人の仲を裂くき、年に一度七夕の日にだけ逢瀬を許した、いう話が伝わっている。
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泰山木

2017年07月06日 | 斉藤茂吉


朝の散歩で、路傍に泰山木の花が咲いているのを見かけた。泰山木は市立図書館の前で大木を見ているので、幼木の目の高さで咲いているのが、なかなかそれと断定することができなかった。家に帰ってネットで調べると、間違いなく泰山木であった。この花を見ると、思い出すのが斎藤茂吉の歌である。

ゆふぐれの泰山木の白花はわれのなげきをおほふがごとし 茂吉

詠まれている我の嘆きとは。大正6年、茂吉は長崎医学専門学校の教授に任じられ、精神科部長として赴任した。大正7年には、スペイン風邪のパンデミックが日本中で猛威を振るい、大正9年には長崎でも流行のきざしを見せていた。こともあろうに、長崎の医療センターにまで、パンデミックの食指は伸び、1月に茂吉もこの風邪にかかる。かなりの重病で、回復までひと月以上を要している。回復後も、咳が続き、6月になって初期の結核に感染したことが分かる。初期ではあるが、血痰が出ることもあり大事をとって、長崎市の県立病院に入院した。

茂吉は手帳に「6月25日、病棟7号に入院 壁白く厚きに見入る、蚊のむらがり鳴くこゑ暗のふかきになけり、こほろぎ鳴く」と書き入れ、『作歌40年』に「病院の庭に泰山木があって白い豊かな花が咲いて居る。それを見ておると病気の悲哀を忘れることが出来る。『おほふがごとし』であった。」と自注している。泰山木の花びらは厚く、悩みや嘆きを包みこむような力強さがある。
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