常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

記憶の不思議

2018年08月16日 | 日記

  

私のブログには、一枚の写真を添えている。

写真を見ながら記事の内容を決めることも

あるし、書く内容が決まっていて、それに

ふさわしい写真を撮ることもある。

今日のように雨が降っていれば、過去のファ

イルを開いて載せる写真を探すこともある。

今日、載せるために選んだ写真は、白い木槿

の八重咲である。この写真を撮ったのは、ほ

んの十日前のことでしかない。そして奇妙な

ことに気づいた。ファイルのなかに収まって

いる写真は、すでに過去のものとして記憶の

なかにしまいこまれていることだ。白い木槿

でしかも八重咲、という花は撮影の時点では

私にとって初めて見る花であった。しかし、

写真の撮影が終わり、ファイルに納められる

と記憶のなかでは、既知の花となっている。

そしてこの既知の花は雄弁に、誇らしげに語

りかけてくる。「どうお、きれいでしょう。

こんなにも暑い夏、それに負けずに咲いて見

せたわ。私こそこの季節の主人公よ。」

見上ぐれば雨一粒や花木槿 石田 あき子


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お盆玉

2018年08月15日 | 日記

夕べ、山形で花火大会があった。その前

日はお墓参り。帰省の孫たちを迎えた家

も多かったであろう。山形名物の冷やし

ラーメンの店には、びっくりするような

行列ができていた。帰省して、珍しいラ

ーメンを食べ、爺婆から貰うのは、お年

玉ならぬお盆玉だ。何でも山梨の方で、

正月のお年玉に代わるお盆玉ののし袋を

売り出したところ、これが受けて今では

全国で見られる風習になったらしい。因

みに「ぽち袋」というのもあるらしい。

こちらは、これぽっちをしゃれて、少し

だけれどもという自虐的なユーモアがこ

められた袋である。

 

お墓参りで見た光景だが、バケツに汲ん

だ水を、柄杓でお墓にかける人がいた。

曰く、今年は暑いから、涼んだら、と言

いながらかけていた。墓に花を供え、蝋

燭に火を灯し、線香をくゆらせる。迎え

盆には夕方、持参した提灯にこの蝋燭を

入れ、自宅の仏壇に持って帰る。墓に眠

る祖先の霊のシンボルだ。お盆が終わっ

て霊を墓に送り出すまで、仏壇の灯明を

消さず守る。これが昔からの風習だが、

今では、我が家をはじめ、こんな風習を

守る人はどんどん少なくなっている。

魂送りの日には、鐘や太鼓で音を奏で、

盛んな踊りが行われる。盆踊りが、今も

風習として残っているが、この騒々しさ

のなかで、幽霊の退散を目的にしたもの

と説くのは、民俗学の柳田國男である。

蒲の穂も剪るべくなりや盆の前

          水原 秋桜子

 

朝夕はめっきり涼しくなった。お盆が慌

ただしく過ぎていくと、もう秋である。

畑の夏野菜は倒し、秋から冬に収穫する

野菜づくりの準備が始まる。

         

 

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敗戦日記

2018年08月14日 | 日記

ベランダでサボテンが大きな花を三輪開いた。

花を写真に収めて、空を見上げる。雲もなく

今日も暑くなりそうだ。本棚から高見順の『

敗戦日記』を取り出す。高見順の日記の昭和

20年を抜粋したものだ。8月15日のところ開

け拾い読みをする。

 

12時時報。

君ガ代奏楽。

詔書の御朗読。

やはり戦争終結であった。

君ガ代奏楽。ついで内閣告諭。経過の発

表。--遂に敗けたのだ。戦いに敗れたの

だ。

夏の太陽がカッカと燃えている。目に痛

い光線。烈日のもとに敗戦を知らされた。

蝉がしきりに鳴いている。音はそれだけ

だ。静かだ。

(中略)

新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口に

も立っている。しかし民衆の雰囲気は極

めて穏やかなものである。平静である。

興奮しているものは一人も見かけない。

 

田村町の新聞売り場で、高見は新聞を買

う。新聞売り場にだけは、延々と続く行

列ができていた。高見が買った特別号の

東京新聞のお見出しには

戦争終結の聖断・大詔渙発さる

高見が見たこの日の東京の様子は、日本

人の性格をよく現している。どのような

大事件が起ころうとも、日本では大衆が

暴発するようなことは起きない。

 

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坊平高原

2018年08月13日 | 日記

1945年8月、この年も坊平高原は秋の気

配が訪れていた。都会から疎開し、中学の

同級生たちと勤労奉仕に、この高原の硫黄

鉱山に合宿していたのは、後に東大で比較

文学の研究者となる芳賀徹である。ここで

の仕事は、藪を掘り起こして少しばかりの

畑を作り、カボチャやソバの種を蒔くこと

であったと、芳賀は著書のなかで書いてい

る。私が初めてこの地を訪れたのは、エコ

ーラインが開通してからのことであるが、

まだ鉱山から出た小石をうず高く積んだ山

があった。

その月の15日、作業を中断して聞いたのは

終戦を告げる玉音放送であった。芳賀の同

級生たちは、この放送を聞いて、草むらに

へたり込み、呆然として、遥か西の空に浮

かぶ朝日連峰や月山眺めていたと回想して

いる。


ぬばたまの夜はすがらにくれなゐの

 蜻蛉のむれよ何処にかねむる 茂吉

同じ日、斎藤茂吉は生家の隣へ疎開し、そ

こで玉音放送を聞いている。この放送を聞

いてから、茂吉は赤とんぼに自らの心の暗

澹とした暗さを託している。おしなべて静

かな山かひや夜の闇のなかで、じっと孤独

に耐えていた。

 

 

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熊野岳

2018年08月11日 | 登山

8月11日は山の日。数年前から始まった国民

の祝日である。山友会が選んだ山は、最も近

い百名山、蔵王山である。

中丸山を経て、蔵王熊野岳へ。天気予報は曇

り後晴れ。一行はガスが立ち込めるなかの登

山開始であったが、小一時間もすれば、日が

さしてくるものと信じて、中丸山の急坂を軽

い足取りで登って行った。この登山口の前に

は仙人沢に架かる吊り橋がある。数年前の夏

休みここへ遊びに来た小学生が橋から落ちて

渓流に転落、助けようとした子供会の会長が

沢に流されて犠牲となった悲しい思い出の場

所でもある。

中丸山の登山道は、登り始めてすぐに

急登になる。沢沿いの道であるので、

ブナやナラの樹々が、霧に霞んでいる。

こんな光景もまた、日常では見られな

い幻想的な景色だ。午前8時に歩き始

めて、1時間、2時間を経過し、中丸山

の山頂に着いても、霧は一向に晴れて

こない。本日の参加者9名、初参加の

Mさん、ケガから復帰したIさんの懐か

しい顔があった畑谷城で案内のボラン

ティアをしているというMさんから様

々な城の知識をお聞きし興味深かった。

木道を登り、矮小化したシャクナゲ

やナナカマドの道を登り切ると突然

荒涼とした石だけの道に出る。

登山道を示すポールと石を並べてよ

うな道だが、所々にヤマハハコの小

さな株と石の陰でそっと花を咲かせ

るコマクサがあった。もう最盛期を

過ぎて、咲き残りのコマクサだが見

つけるとうれしい。歩を進めるごと

に静かに咲くコマクサが迎えてくれ

る。茂吉の歌碑を見、熊野神社の陰

で風の来ない場所を選んで昼食。

ここのボランティアの監視員の人か

ら話を聞く。トレイルランの練習を

する若者たち、お釜見物の家族連れ

など多くの人に出会う。

もう中丸山の登山道をテクテクと登

るのは珍しいらしい。監視員の人は

「この道を来たのは誇っていい財産

ですよ」と話してくれた。

地蔵から刈田へ向かう道を来ると、お

釜の見える地点に着くと、大勢の人が

集まっている。一陣の風がきて立ち籠

めていた霧が払われると、底の方から

エメラルドグリーンのお釜が顔を出す。

何度も見ているお釜だが、霧の中から

顔を出す光景は、新鮮でその美しさが

引き立てられる。前回見たのは何年前

であったか、孫たちを連れて来た時の

印象が頭に浮かぶ。

御田の神からライザスキー場のゲレンデ

へ。下山も結構足の筋肉を使う。スキー

場だけに、その勾配も半端ではない。出

たばかりのススキの穂が風に揺れる。立

秋を過ぎて、高原には秋の気配が漂い始

めた。前回見られなかったアサギマダラ

風に乗ってゆったりと舞っている。

午後3時、車を置いた登山口に着く。ゲレ

ンデに来てようやく日がさしてくる。

今年の山の日、長く記憶に残る一日であ

ったような気がする。帰路天神の湯で汗

を流して、この日の山行は終了。

 

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