常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

花だより

2019年02月23日 | 芭蕉

春一番の花だよりはテレビのブラウン管に写し出される。静岡の河津桜。そのみごとな濃いピンクの花は、土手の辺りの景色を一変させる。もう春が来た、と実感させる瞬間だ。日帰り温泉の玄関には、瓶に投げ込まれたソメイヨシノの切り枝が花を咲かせた。近所の桜はどうかと、足を向けてみた。まだ堅い蕾で、ヒヨドリが空しく飛び回っていた。気象予報士の開花予想も始まっている。それによると、こちらは4月5日ころ、また桜の季節が巡ってくるが、あと何回会えるか、ということが頭のすみをよぎる。

 

芭蕉は「笈の小文」のなかで、吉野の桜を書いている。

よしのの花に三日とゞまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばゝれ、西行の枝折にまよひ、かの貞室が是は是はと打なぐりたるに、われいはん言葉もなくて、いたずらに口をとぢたる、いと口をし。

桜の余りのみごとさに、摂政公のながめ、西行の枝折の歌、貞室の句などを思い出し、一日を費やし、自分はついに一句もできなかった、と嘆いている。これは、芭蕉の感動を表現する常套句で、松島の景色を見たときも、同じような感懐を漏らしている。

 

摂政公は、藤原良経。その桜の歌は、むかしたれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ であり、また西行の枝折とは、吉野山こぞのしおりの道かへてまだみぬかたの花を尋ねん。昨年は、ここまで見たしるしに、枝を折っておいたということらしい。貞室の句は、これはこれはとばかり花の芳野山 でどのそれぞれ詩人の個性が出た歌句である。

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森谷先生

2019年02月22日 | 日記

ラインの書き込みで、森谷長能先生の訃報を知る。高校の卒業の年、クラスを担任していた英語の先生である。高校を卒業してもう60年の過ぎようとしているのに、これほど長く交流した先生はいない。生まれた年は、1929年と聞いているから、享年90歳である。それにしても、つねに若々しい感じの先生であった。このクラスは、例年同級会を開く。そこに必ず出席されるから、これほど長く先生の謦咳に接することができた所以である。

 

「今、我が家のルーツを探しているんだよ。」と言われたのは、20年以上も前である。「先祖はどうやら、山形だったらしい。今度、山形に行くよ。」という話をされた。ある年の同級会に、先生は一冊の絵本を持参された。ポプラ社の『おまつり村』である。絵本では山の村に住む人々の、悲しい歴史が語られている。年に一度のお祭りでは、村人はヒョットコ面を被って踊った。山は人々くらしを支える場だった。サムライの世が終わったが、山は役人たちから取り上げられて、木を伐っても罪人となった。

 

村人が決意をかためて渡ったのが、蝦夷の地である。原生林が果てしなく広がり、びょうびょうと風が鳴っていた。長次郎は、よしここに俺だの村、つくるべ。と言いながら、父からもらったヒョットコ面をつけて、踊り始めた。開拓の厳しい、長い歴史が始まる。長次郎に子ができ、一家でお祭りができるころ、長次郎は死んだ。長次郎の供養は、ヒョットコやオカグラの面をつけて踊ることであった。「おまつり村」がこうしてできた。

 

絵本の奥書を見ると、長次郎の先祖が天童市市史編纂室の戸籍が残されている。「平民 農 森谷長兵エ 天保12年11月16日生」。この森谷姓こそ、先生が探していた、先祖のルーツであったらしい。一昨年、定山渓で最後のお会いしたとき、先生は、幾度も口にされた。「今井君、ねえ、僕の先祖は天童だったんよ。君の住んでいる所近いんだろ。」

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雪消

2019年02月21日 | 日記

雨水を過ぎて、毎日見る西の山が急に身近になった。凍てつく日には、どこか近寄りがたい、神々しいまでの白さを見せていたが、昨日、今日と、青味をおびて懐かしい里山の風情になった。今年は、そもそも積雪が少ない。月山の雪も少なく、例年の半分ほどという。昨日、日帰り温泉の顔なじみが、畑に出て草とりをした、と言っていた。根が動かないこの季節は、除草も楽にできるらしい。そろそろ、畑のことも気になるころだ。

風に聴く雪消山河の慟哭を 相馬 遷子


数日前に、妻がうらの空き地から、数個のフキノトウを採ってきた。味噌で炒めたバッケミソは春の香りであった。水仙などの草花の芽はまだか。いつも咲いている場所に出かけて観察する。雑草が、日を受けて、成長へ姿勢を改めているが、花の木や草は、一向に芽生えてくる様子はない。俳人の幻のなかにしか花はない。

幻の辛夷かがやく枯木中 角川 源義


スマホの時代になって、買い物の姿が変わっている。以前なら、新聞に折り込まれたチラシに買い得品が載っていたが、今はメルマガで、今日のお買い得品が送られてくる。週に4回ほどだが、本当に日常の買い回り品が、30%から50%の値段になっている。通信費が、これだけ安価で、だれもが使える時代ならでは利用法である。

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雨水

2019年02月20日 | 日記

24節季の雨水が来て、雨になった。雪から雨へ、暦の上で雨の季節となったが、昨今は不思議と現実が暦に一致あする。「春は名のみの」と言う歌があるように、暦は実際より先んじているものと、思い込んでいた。立春に春一番が吹いたり、雨水に雨が降れば、ちょっと気候が変、と思うのは私ばかりだろうか。雨水の初候は「獺祭魚(獺、魚を祭る)」である。この季節になると、獺が魚を獲るようになる。すぐに食べないで川原にならべて置く習性がある、らしい。日本では、獺が絶滅してしまったので、この光景を見ることできないが、岩国の酒造会社の銘柄にその名残をとどめている。

 

「春水、四沢に満つ」とは、陶淵明の詩だが、この季節には沢の水が、溢れんばかりに流れる。やがて雁の北帰行が見られ、土の上では啓蟄、虫が動き出す。いわゆる、春近し、の季節の到来である。

 春を待つ 伊藤 整

ふんはりと雪の積もった山かげから

冬空がきれいに晴れ渡ってゐる。


うっすら寒く

日が暖い。

日向ぼっこするまつ毛の先に

ぽっと春の日の夢が咲く。


しみじみと日の暖かさは身にしむけれど

ま白い雪の山越えて

春の来るのはまだ遠い。

 

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本屋

2019年02月19日 | 日記

昨日、山形の西方に、雪の葉山がそのどっしりとした存在感を見せた。その左には白い月山があるのだが、シーズンで数回だが、その月山よりも存在感を見せることがある。春先の空気が澄み切って、山が近く見える上に、尾根の襞の一つが、雪と光で深く切り込んで見えるときだ、月山はこの時期、雪が深く丸みを帯びた純白のやさしい姿を見せているに過ぎない。

 

春になると、街の本屋さんは、高校の教科書取り扱い所となる。娘たちが、高校に入ったとき、車で教科書を引き取りに行った。その一つに遠藤書店があった。学生時代には、八文字屋で主に本を買ったが、そのついでと言ってはおかしいが、筋向いの遠藤書店を覗くのが常だった。昭和30年代であったので、和服を着た店員が居て、火鉢を置いたところで主人が座って、茶を飲みながら客と何やら話し込んでいる風景も珍しくはなかった。                                   

 

制山形高校で学び、その後東大に進み、作家となった駒田信二に遠藤書店の思いでを語る一文がある。文学青年であった駒田は、ロシアとフランス文学をがむしゃらに読んだという。行きつけの書店は言うまでもなく遠藤書店。授業をさぼって本を漁っているうちに、当の島村先生が書店にやってきた。バツが悪くて本の陰に身を隠したつもりだったが、目ざとく見つけた教授は、「駒田君、隠れなくいい。こっちでお茶をごちそうになりなさい。」店の主人も、駒田がよく本を買っていくので、「この学生さんは、岩波文庫の翻訳本をよく読まれていますよ」と教授に告げた。教授は少し考えて、「ふーん、君原文では読まないの?」岩波の英和辞典の著者である先生からして見れば、当然の発言であった。

 

当時、書店は知識人のサロンの風を呈していた。よく来る客には、歌人の結城哀草果、和服しか着ない名物教授岡本信二郎先生、そして市内の中学の先生たち。遠藤書店はすでにない。アズ七日町のビルのオーナーでもあり、2階に書店を出していたが、郊外の大型書店の出現で、その姿を消した。

 

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